前田慶次は架空の人物かと思っていましたが、実在の人物のようで、それも名古屋市中川区荒子出身(養子に行ったため)だそうです。
荒子は尾張四観音の一つであって、荒子観音寺(浄海山円龍院観音寺)寺号は観音寺といい天台宗のお寺です。
▲荒子観音 山門
荒子観音寺は、天平元年(729年)の創建と伝えられ、加賀藩主・前田利家が天正4年(1576年)に再建、多宝塔は天文5年(1536年)に再建され、市内最古の木造建築物で国の重要文化財に指定されています。
また、1,250体の円空仏でも有名なところです。
前田慶次は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、滝川一族の出身でしたが、尾張国荒子城主の前田利久の養子になり、加賀百万石の祖・前田利家は叔父にあたります。
前田慶次は、前田利益や利太など、さまざまな名前が伝えられていますが、通称では慶次郎で知られています。
なぜ傾奇者といわれるか
前田慶次の実父は、織田信長の重臣・滝川一益の一族であったとされていわれますが、その詳細は不明です。
滝川一益の甥、もしくは従兄弟にあたる滝川益氏や、同じ増川益重などの諸説ありますが、前田慶次が滝川家出身であることは確かです。
前田慶次は実在した人物で、戦国の世を駆け抜けた武将のひとりです。
生誕年も天文2年(1533年)説や天文元年〜10年(1532年〜1541年)説があり、また、養父となる前田利久は、永禄3年(1560年)に前田家の家督を継ぎ荒子城に約4,000石の知行で城主であったけど子がなく。
利久は滝川家から妻を迎えたが、家督を継ぐ子は生まれなかったため、前田利久は、弟である前田安勝の娘を養女として迎え、その婿として、妻の弟(または甥)にあたる慶次を迎えたにもかかわらず、その後、家督は利久の弟・利家が継いだため、慶次は城を出でしまった。
諸説さまざまだが、慶次の浪人時代は京都で暮らしたとされ、公家や文化人とも交流して書に親しみ連歌や茶道を嗜んだ。
また、武術では剣や槍、弓をはじめ武芸十八般に秀でていたという。
やがて豊臣秀吉が天下を治め、前田利家が加賀城主となると慶次は叔父の家臣として戻った。
そこで数々の戦功を挙げるも、城主・利家との折り合いは悪く前田家を出奔した。
その際に、こんな言葉を残している。
「たとへ万戸候たりとも、心にまかせぬ事あれば匹夫に同じ、出奔せん」
これを訳すと
「多くの領地を治めていても、思い通りに生きられなら(大名も)ただの漢。ごめんこうむる」となる。
富や権力には全く関心がなく、時の天下人・秀吉にさえ媚を売らない自由人だったという。
人とは違う派手な格好を好み、その言動も世の常からしたら破天荒で異端で、情に厚く漢(おとこ)気が強く、己の義と美意識のために命をも賭ける。
人は慶次を「傾奇者」と呼び、本人もそれを楽しむかのように傾くなら傾き通(かぶくならかぶきとおす)してみせた。
※ちなみに日本の伝統芸能の歌舞伎は、「傾く(かぶく)」の名詞化「傾く」が語源とされている。
「人は日に米三合 畳一畳あれば十分」「そんなことより一献くれまいか?」。
こちらは「花の慶次ー雲の彼方にー」からの抜粋で、秀吉から100万石出すから家臣になれと誘われ際の慶次の返答だったとか・・・・。
信長や秀吉が天下人となって各地で合戦が勃発したが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経てようやく徳川家康によって平定されて行った。
合戦での武勇により、慶次には高禄でのお誘いも多かったというが、それらを全て断り、最後は、莫逆の友※1と呼ぶ直江兼続の主である上杉景勝のもとで余生を送った。
※1.莫逆の友(ばくぎゃくのとも)とは、心に逆らうものがまったくないほどの、非常に親しい友達。親友。きわめて親しい付き合いをしている事をさしていう。
米沢図書館には、前田慶次の貴重な自筆本とされる『前田慶次道中日記』が保存されています。
この日記には、慶長6年(1601年)10月26日に京都・伏見を出発し、11月19日に山形・米沢に到着するまでの26日間のことが記されており、その旅路の様子や土地の逸話などと共に、慶次が詠んだ俳句や和歌、漢詩などが掲載されています。
米沢へ移ってからは、堂森の清水のほとりに庵を構え、詠花吟月を友とし、二度と傾くことはなかったといいます。
晩年に慶次が記した『無苦庵記』には、悟りの境地に至ったかののような言葉が綴られています。
「そもそもこの無苦庵は孝を謹むべき親もなければ憐むべき子も無し」
「寝たる時は昼も寝、起きた時は夜も起きる」
「生きるだけ生きたらば、死ぬるであらうかとおもふ」
米沢で心を開いて余生を友と過ごす
米沢市万世町堂森にある堂森善光寺の裏山を半周すると、近くに杉林が見えて、この杉林の中に入ると、こんこんと湧き出る泉が大昔の姿をそのままに現れて、これが「慶次清水」と呼ばれています。
前田慶次はこの清水の近くの庵で慶長17年6月4日、70歳で生涯を閉じたといわれています。
慶次は義父・前田利久は、尾張荒子城主・前田利春の長男であり、利春が没すると跡を継いで荒子城主となり、慶次は利久の姪と結婚し、順調に行けば跡目を継いで荒子城主となるはずでしたが、織田信長が家督相続を許さず、利久の弟である利家に譲るよう命じました。
利久が家督を利家に譲った後、諸説はさまざまですが、「米沢人国記」には、慶次は京都で暮らしたと記されています。
慶次は、京都で公家や文人と交流して和漢古今の書に親しみ、連歌は当時の第一人者紹巴に学び、茶道は千利休七哲の一人である伊勢松坂城主・古田織部に皆伝を受けたといわれています。
また、武術についても弓馬はもちろん、武芸十八般にも通じていたといわれています。
織田信長の死後、豊臣政権時代に前田利家は能登の旧領に加え、加賀二郡を加増され、このとき利久と慶次は利家を頼ることとなり、利久は七千石を与えられ、五千石を慶次に与えています。
慶次は利家より阿尾城代に任命され、天正18年(1590年)には豊臣秀吉の小田原征伐が始まり、利家が北陸道軍総督を命ぜられて出征することになったため、慶次もこれに従いましたが、天正15年に父を亡くし、徐々に利家に対する反発も生まれ、突然利家の元を離れます。
前田家を出た慶次は京都に身をおき貴人、文人との交流を盛んに行い、また、諸大名の邸宅にも遊びに出入りし悠々自適の生活を送っていました。
この時期に直江兼続に出会ったと考えられ、そして、兼続を通して上杉景勝に接し、寡黙でありながら武と真義を誇る景勝に惚れ込み、上杉家に仕官しました。
上杉家では米沢城主・兼続の与力となって1千石を与えられ、組外扶持方(きほかふちかた)という自由な立場にあったといわれています。
慶長3年(1598年)秀吉が死去すると、次の天下人として徳川家康が台頭するようになります。
秀吉の家臣・石田三成と懇意にあった直江兼続は、家康との対立を決意。
会津にいる上杉景勝に、謀反の疑いありとして、じかに釈明せよという家康に対し、直江兼続は暗に家康こそ謀反を考えているのではないかという書状を送り、怒った家康は会津征伐を決意します。
慶長5年(1600年)、ついに家康は会津征伐のために動き始めました。
しかし、同年7月、石田三成が家康打倒の兵をあげ、あわてた家康は急遽兵を西に向かわせました。
このとき上杉家の家臣たちは家康軍を追撃し、家康を倒すことを景勝に進言しますが、景勝は「上杉謙信公の義の教えをもってすれば、上杉家に退却する敵を追い討ちする戦法はない」と許しませんでした。
そして、天下分け目の戦い関が原の合戦が始まります。
このとき上杉軍は山形城主・最上義光を打つべく、山形攻めを開始。
その激戦地となったのが長谷堂でした。
激しい戦闘が半月ほど続き、上杉軍も3回ほど総攻撃を仕掛けますが城は落ちません。
そうこうしているうちに、関が原の合戦は西軍敗戦となり上杉軍も撤退を余儀なくされてしまい、最上義光、伊達勢を中心にした東軍の猛攻の中、殿(しんがり)を勤めたのが前田慶次でした。
慶次は三間柄(5.4m)の大槍を持って、群がりくる最上勢の中に縦横無尽に分け入って戦っては退き、戦っては退くという見事な戦いぶりで、味方の将兵を誰一人傷つけなかったといわれています。
▲前田慶次(イメージ)
関が原の合戦敗戦後、上杉家は会津百二十万石から米沢三十万石に減移封させられてしまいます。
慶次は米沢に残り、堂森山近くの清水のほとりに庵(無苦庵)をかまえ、風化吟月を友とし、近隣住民と交流を深め、悠々自適の生涯を送ったといわれています。
そのころ親しかった住民に贈った慶次所録の品々が、米沢市堂森の地で代々引き継がれています。
慶次が残した「無苦庵記」には、「抑も此の無苦庵(慶次)は孝を謹むべき親もなければ憐むべき子も無し。
こころは墨に染ねども、髪結がむづかしさに、つむりを剃り、足の駕籠かき小者やとはず。
七年の病なければ三年の蓬も用いず。
雲無心にして岫を出るもまたをかし。
詩歌に心なければ月花も苦にならず。
寝たき時は昼も寝、起きたき時は夜も起る。
九品蓮台に至らんと思う欲心なければ、八幡地獄におつべき罪もなし。
生きるだけ生きたらば、死ぬるでもあらうかとおもふ」
と書かれています。