大河ドラマ「どうする家康」では、松重豊さんが石川数正役を演じています。
小牧・長久手の戦いの戦後処理をする為に秀吉と交渉していた折、秀吉にヘッドハンチングされたのかどうかわからぬが徳川家を出奔してしまった。
石川数正の先祖は、累代の松平氏に仕えてた家臣、家康の先祖・松平親忠のときから、家老として仕えた石川家。
松平親忠とは、家康の系列の4代目で、家康は9代目で天下を取った。
天下を取ったことは事実です。
でも源氏の系列とは、眉唾者で、勝てば官軍で系図を書き変えて征夷大将軍になってしまった。
※上記の眉唾者をクリックしてもらうと、家康の先祖・松平親氏が、乞食坊主で全国を歩いているうちに松平郷に辿り着いて養子になって松平を名乗った記事があります。興味ある方は読んでください。
それに比べて石川家は元を正せば、河内源氏の流れをくむ由緒正しい家の武将の出である。
それがどうして小牧・長久手の戦い後に、家康の元を逐電したのかは謎です。
※上記の小牧・長久手の戦いをクリックして記事を読んでください。
出奔の理由は諸説ありますが、これといった確証は、本能寺の変と同様真相は不明です。
先ず、数正が出奔したことは家康を大きく動揺させたに違いない、家康は軍制の改正を余儀なくされている。
秀吉が軍を整えて徳川に攻め込んでくる可能もあるからだった。
ドラマでどいう風に描くのか見ものですが、数正は秀吉と交渉してるうちに、秀吉の器量に惚れ込んで自ら投稿したという説と、秀吉が得意とする恩賞による籠絡※1に乗せらたという説がある。
※1.籠絡(ろうらく)とは、人をうまく丸め込んで、思い通りに操ること。巧みに言いくめること。
その他、色々あるが謎である。
国宝・松本城の基礎を築く
秀吉から深志城(松本城)に転封を命じられた。
数正と息子・康長の二代にわたり松本を治め、国宝になるまで松本城天守の建築に大きく携わりました。
松本城になる以前の周辺の山城
松本城天守が建築される以前に、松本盆地を囲む山々に山城が築かれていました、代表的な城を紹介。
▲松本市内の山城・平城跡
①林大城・小城
松本市山辺地区にあって、信濃守護であった小笠原氏が平地にあった井川城から、この山城を造って移りました。大城と小城が馬蹄形に存在しています。
規模は大城の方が大きく、小城の本廓には石積みが見られます。
天文19年(1550年)に武田信玄に攻められて、小笠原長時はここを放棄し信州から撤退しました。
②桐原城・山辺(中入)
松本市・山辺地区にあって、林大城より奥まった所にあります。
桐原城は桐原氏の居城で武石峠を越えて小県郡へ繋がる道筋を押え、山辺城は山辺氏の居城で2.5メートルの高い石積みを見ることができます。
③埴原城
松本市中山地区にあって、大規模な山城ですが、城主関係は不明です。
④稲倉城
松本市岡田地区にあって、後庁氏の居城です。
⑤虚空蔵山城
松本市会田地区にあって、会田氏の居城です。
虚空蔵山中に多くの石積みを残し、戦国時代末期には北の上杉氏と深志に入った小笠原氏との接点になった所です。
⑥平瀬城
松本市島内地区にあって、平瀬氏の居城です。
武田氏に追われた小笠原氏が勢力の回復をここに籠り反撃を試みました。
⑦城山
松本市城山にあって、犬飼氏の居城です。
ここには南北朝時代から砦が設けられいました。
市民から城山と呼ばれ桜の名所として親しまれています。
⑧井川城
松本市井川地区にあって、小笠原氏が信濃へはいり、松本に定着した時以来、林城に移るまで居館があった場所です。
ここは山城ではありません。
⑨清水城
松本市鳥立地区にあって、小笠原氏の一族の島立氏がいたといわれています。平地に造られたしろです。
松本城の前身の城
深志城の辺りには①〜⑨の山城・平城があった。
深志城についてはハッキリしない部分が多く、松本城築城にどのように引き継がれたか分かってはいません。
室町時代に深志郷を統治していたのは坂西氏※1でした。
坂西氏の居城(きょじょう)があって、その周辺には人々が生活する場があったのではないかとみられています。
そこに城を築いたのは、小笠原氏※2の家臣・島立右近貞永で、永正年間(1504年〜1520年)に深志城を造ったと言われますが、以前に国衛在庁官人の犬甘氏※3の古い館があったらしいともいう。
※2.小笠原氏とは、甲斐源氏・加賀見遠光の次男・加賀見長清が、甲斐国小笠原村に移り、小笠原を称したのが始まり、その後、信濃国を本拠として全国に小笠原一族を分出した。
源頼朝による信濃国支配は、源氏の有力御家人を送り込む支配方式を取り、小笠原氏も源氏一門として甲斐から信濃へ勢力を拡大して行った。
そして、文治元年(1185年)源頼朝の推挙で信濃守に任じられている。
※3.犬甘氏(いぬかいし)とは、 犬甘氏は大伴氏流と伝え、その本貫を信濃国の国府近くにおいて、国衙侍所に勤仕した武士であったといわれている。
ところで、『信濃史源考慮』の犬飼(犬甘)氏の項の記事によれば、「犬甘の地は犬飼の字を用いられる。
松本城の西14・5町、蟻ケ崎村に古城跡あり、(中略)昔し犬甘、平瀬一党の人々犬飼八ヶ村並びに木曽川より東岡田組、庄内組の西辺まで領知せしころ築きし城と云ふ。」とみえ、犬甘氏の出自について、安曇犬養氏があり、犀川を隔てて筑摩郡にも犬飼の地があって、辛犬甘といい、帰化族の人らが住んでいたとある。
そして、犬甘氏は時平大臣の末裔なりと記し、小笠原古系図には、犬甘、平瀬は島の一党なりと記されている。
戦国時代の武将で、信州小笠原氏の家臣。信州国安曇郡犬甘城主。
※1.坂西氏とは、」のち同じく小笠原氏の家臣の坂西氏が城代として置かれた。▼
武田信玄は林城にいた小笠原長時を追い出すと、次の目標である北信州への侵攻の拠点として、平地にあった深志城に城代を置き、統治が32年間続きた。
しかし、天正10年(1582年)織田信長によって武田氏は滅びました。
木曽から入った木曽義昌、それを追って上杉景勝の後ろ盾を得て入った小笠原洞雪と城主が変わりました。
小笠原長時の嫡子・貞慶は信濃に帰って旧臣の支援を取り付け、深志城を奪還して深志を松本と改めました。
秀吉の家臣になった石川数正
天正10年(1582年)に織田信長が明智光秀の謀反により死去し、その後に信長の重臣であった羽柴秀吉が台頭すると、数正は家康の命で秀吉との交渉を担当した。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参戦、この戦いにおいて家康に秀吉との和睦を提言した。
石川数正は、天正13年(1585年)突然岡崎城を脱し豊臣秀吉に仕えはじめます。
秀吉は和泉国(現・大阪府南西部)を与え大名として迎え入れました。
どうして秀吉に走ったか謎ですが、家康の方は大きな打撃を受け警戒するようになった。
天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅亡し、家康が関東に移ると秀吉より信濃国松本10万石に加増移封された。
目的としては家康がいる江戸を見張るための要の城であったとされていわれています。
数正の松本在城はわずか3年間であったが、数正は松本に権威と実戦に備えた雄大な松本城の築城と、街道につないで流通機構の経路を掌握するための城下町の建設、天守閣の造営など政治基盤の整備に尽力して初代・松本城主になった。
数正は文禄元年(1592年)の朝鮮出兵に従って同年の末に亡くなっていますので、関ヶ原の戦いには出ていない。
家督は長男・石川康長が継いだが、遺領10万石のうち8万石、次男・康勝に1万五千石、三男・康次に5000石とそれぞれ分割相続された。