慶長16年(1611年)に、後陽成天皇の譲位と政仁親王(後の後水尾天皇となる、のちに秀忠の娘・和子と結婚)に即位の儀式が4月12日に執り行われる予定でした。
家康はこれに先立ち秀頼を二条城に呼び出し、会見を要請したのは徳川家康の方が豊臣秀頼より優位だという事を世間に認めさせたいと思ったからではないでしょうか。
先ず、初回の会見要請は、家康が関ヶ原の戦いに勝利し征夷大衆軍となり、慶長10年(1605年)に三男の秀忠に将軍職を譲った、この時秀頼は13歳でした。
秀頼に二条城に上洛させて、賀詞を呈するよう促したが、母・淀殿が「強いて求めるなら秀頼を殺して自害する」といい放し断固拒んだ、今回の会見要請も淀殿は拒んだが、加藤清正らが尽力して実現したのだ。
スポンサーリンク
家康と秀頼と会う
慶長16年(1611年)3月28日春、二条城において家康と秀頼の面会が行われ、家康にとっては4年ぶりの上洛だった。
▲二条城正門
ここに至るまで両者の面会はなかなか叶わず、加藤清正ら豊臣秀吉恩顧の大名らが淀殿を説得を行うことで実現したという経緯がありました。
▲豊臣秀頼(イメージ)
大阪城から秀頼は伏見城で泊まり二条城に辰の刻(午前8時頃)に到着すると、家康自ら庭中に出向き丁寧に秀頼を迎え入れた、秀頼は慇懃※に礼をします。
※慇懃(いんぎん)とは、人に接する物腰が丁寧で礼儀正いしいこと。
『当代記』に記されている通り家康は秀頼と対等な立場で礼儀を行うよう促したが、秀頼はこれを斟酌(しんしゃく)して秀頼が家康に礼をする形となりました。 ▲徳川家康(イメージ)
それは、家康が御成りの間※1に上がると、秀頼は先に礼をおこなったのであり、先に礼をしたというのは、秀頼が家康を上位とみなしたから、これにより家康が秀頼の上位に立ったのである。
※1.御成の間とは、将軍などが家臣の私宅へ渡るとき、その接待のために臨時に設けられた座敷のこと(浄瑠璃・本朝二十四孝※2)
※2.本朝二十四孝とは、浄瑠璃及び歌舞伎、日本舞踊の演目の一つ。全五段の時代物。明和3年(1766年)1月14日より大阪の竹本座にて初演。
家康は関ヶ原の戦いを制し、征夷大将軍に任命されても豊臣家の家臣なので、一般的に秀頼を二条城に呼び出すこと事態が、豊臣家にとっては大きな屈辱でした。
しかし、家康の丁寧な応対ぶりからして秀頼に臣従を強制したとは考えがたい。
また、挨拶が秀頼の自発的な行為であり、もともと家康の孫であって秀頼の正室・千姫の大舅である、また、朝廷官位で下位にある秀頼の従一位の家康に対する謙譲の礼※3であって、臣従の礼ではないという思われるが、首肯※4しがたい。
※3.謙譲の礼とは、自分や自分に関することをへりくだることで、間接的に相手に敬意を表すときに使う。自分側を低くすることで相手側を高める。
※4.首肯(しゅこう)とは、うなずくこと。もっともだと納得し認めること。
饗応の場では、高台院(秀吉正室寧々)も相伴しました。この後、秀頼は豊国社を参詣し、大坂城へ戻りました。大坂や京都では会見が無事に終わった事を悦んだと伝えられています。
▲京都・豊国神社
会見後 家康は豊臣滅亡に傾いた
会見後、家康は諸大名に、将軍に忠誠を誓う内容の誓紙に連署をさせていますが、その中に秀頼の名前はありませんでした(つまり秀頼は別格でした)。
とは言え、この会見にあたっては、大阪方もかなり警戒していました。
『徳川実記』『翁物語』などによれば・・・加藤清正・浅野幸長に対し、家康は、褒美として刀を与えますが、その時、刀を拝領した加藤清正は、何やら空の一点見つめて、しばらく動かない・・・その方角をよく見ると、愛宕山の方角に・・・
また、会見の当日、福島正則は「病気になった」として大阪城に留まっていましたが、万が一二条城にて秀頼に何かあった時、清正と幸長は末代まで名を残すべく命賭けて働く一方で、残った正則が、大阪城にいる淀殿が徳川の手に落ちる事がないように、自らが手にかけた後、大阪城に火を放って、自身もその場で切腹するというのが、3人の約束事だった・・・そのために正則は仮病を使ったという事がわかったのだとか・・・
その事を知った家康は、「秀吉は、有能な人間を見極めて家臣にする能力を」感心したそうです。
スポンサーリンク
秀頼の成長
とわいえ、家康は秀頼とは、慶長8年(1603年)の”新年の賀“以来を最後に会っていませんでしたので、8年の歳月が過ぎて秀頼は19歳の立派な成人となっていました。
家康からしてみれば、わからずやの淀殿の息子で、しかもあまり風貌がよくなく、信長には猿と呼ばれるほどの秀吉の子供というイメージがあった。
しかし、御輿から降り立った秀頼は、予想を大きく裏切る偉丈夫※4、大きな身体の青年で、一説には身長は6尺を有に越えていた。
※⒋偉丈夫とは、身体が立派で優れた男。
秀頼を見た誰もが驚きを隠せなかったようで、その響めきをもろともせず落ち着いて威風堂々と太刀を家臣・木村重成に持たせ歩を進めた。
ちなみに、太刀を受け取った木村重成も、いまでいうイケメン武将であった。
大阪城に仕える女官たちから毎日ラブレターを貰らう程であったと言われます。
秀頼たちの姿に驚きつつも家康は庭先で出迎え後、先に館に入り秀頼を二条城の最高の座敷である御成の間へ通し対等な挨拶を交わそうとします。
しかし、淀殿と違い「家康は年長者であり大舅である」ことから、自らの立場わきまえており固辞しました。
こうして家康が上座に入り挨拶が行われました。」
会見は、質素なもので、家康は秀頼が気を使わないようにと吸い物のみとなりました。
また、「三献の祝い」が行われ、家康の近習・秋元泰朝が媒酌を務め、家康から秀頼に盃が注がれ、大左文字の刀と脇差が贈られました。
秀頼も返杯して一文字の刀と左文字の脇差を贈り、会見は2時間程で終了しました。
加藤清正は宴席の場には着かず、隣の部屋で控えていた、2人の仲を取り持った高台院は、秀頼の傍らで同伴したとされています。
御成の間での会見・宴席では、多少のゴタゴタがあったようですが、秀頼は動じる事のない立ち振る舞いをみせたそうです。
この立ち振る舞いをみた家康は、二言、三言しただけで秀頼は天下人だけが自然と身にまとえる悠揚迫らぬもの※5を持っているとわかった、その賢さに舌を巻き、さすがの家康も気圧された。
※5.悠揚迫らぬもの(ゆうようせまらぬもの)とは、「事態の変化があった時に慌てずゆったりと構えているさま」を表す慣用句。
と語っていました。
会見が無事終わると大阪や京都や堺あたりの畿内の住民らも、何事もなく終わったことに喜び、天下泰平を祝ったといいます。
立派に成長した秀頼を前に、家康は一体何を思ったのか?
この二条城会見直後、家康は西国大名に江戸幕府に対する起請文※6を出させている。
※6.起請文(きしょうもん)とは、神仏に呼びかけて、もし己の言が偽りならば、神仏の罰を受ける事を誓約し、また、相手に表明する文章です。多くの武将間で用いられ、鎌倉中期以降は、諸社の発行する牛王宝印の裏面を用いて書くのが通例となりました。
なお、翌年には東国大名にも起請文を出した。
成長した秀頼を目の当たりにし、その才を感じ取った家康、二条城会見は、まさに豊臣一族の運命を決めるものとなったのである。
それは、二条城会見で成長した秀頼をみたからではない、秀頼に期待する周囲の目であった。
その頃、京の町には、ある落書きがなされて有名になったいた「御所柿は、ひとり熟して、落ちにけり、木の下にゐて、拾う秀頼」の文章。
家康は70歳を越えていた、もう、既に次の世が見える頃合い、一方秀頼は19歳 で若武者である、家康は馬鹿ではない、そんな事ぐらい分かっていたが、周囲がそこまで熱狂しているとは思ってはいなかかった。
いまだ、豊臣一族の人気は衰えていない、そんな事実を突きつけられた家康だった。
その期待は、戦国大名の中にもある。
スポンサーリンク
もう一つの見方
『名将言行録』には、二条城の後、後日談が記録されています。
実は、二条城会見の日、家康は付き従っていた加藤清正に刀を与えている、このとき、清正は虚空に目を向けて頂戴したというのだった。
これに気づいた家康は、その方向に「愛宕山」があることに思い至り、板倉勝重に、その理由を調べさせる。
すると清正は密かに「二条城で秀頼に災難がないように」と、17日間護摩を焚いて祈願していたというのだ、その中儀に家康は感心した。
と、同時に危機感を募らせたのでだろう。
秀頼にその気がなくても、周囲がそれを許さない、祀り上げられる存在は徳川家にとっては不要である。
こうして家康は豊臣家を滅ぼす事に舵を切った。