豊臣秀吉は、息子・豊臣秀頼の将来を、徳川家康に託して死去した。
この他人任せの状況が、豊臣一族滅亡の大きな要因となった。
それはなんでしょう?
秀吉の親友であった前田利家の死、また、関ヶ原の戦いでの西軍の敗北。
そして豊臣方の家臣が一枚岩となれなかったのも少なからず影響をしているのでしょうが、託された徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利を収め、江戸幕府を開いた徳川家康が主君の豊臣家を滅ぼした戦いが「慶長19年の大阪冬の陣・とどめを刺したのが、翌年20年の大阪夏の陣」です。
戦国最後となる、この大戦は江戸時代に入ってから行われ豊臣家を滅亡させました。
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大阪攻めの大義名文をつくる家康
家康が豊臣家を滅ぼす決意を固めたのは、慶長16年(1611年)の二条城での秀頼との対面会見以降であった。
立派に成長した秀頼の姿をみて、徳川の将来に不安を覚えたためともといわれます。
記録によれば、この日にみた秀頼は、身長六尺五寸(約197cm)・体重四三貫(約161Kg)とまさに巨漢であったともいわれます。
対面後、家康は謀臣の本多正信に「秀頼は愚鈍な赤子のようだと噂に聞いていたが全く違うし、賢く、庶民の人気も高く人の命令に従うような人間ではない」と述べたという。
家康は、以後、豊臣家を討つために着々と手を打って行きます。
この頃の豊臣家は摂津・河内・和泉三国の他、小豆島や山城、近江・備中・信濃・美濃などなどに点在する蔵入地などの知行地からなる65万7400石を領有。加えて、どの大名家も及ばないほどの莫大な金銀を抱えていった。
そうした豊臣家に対し、家康は慶長10年(1605年)3月より江戸城の大規模改修をはじめ、天下普請として全国諸大名を動員し、駿府城・丹波亀山城・彦根城・名古屋城などの城郭群を築造整備し、大阪の包囲を目的とした城郭網を構築していった。
さらに、息子・秀忠への将軍職継承によって徳川の天下を世に示す一方、関白職を近衛信尹※1に与えて秀頼の権威を否定してみせる。
そうしたなかで、二条城の会見後、浅野長政、加藤清正ら豊臣恩顧の大名が次々と没するという家康にとって僥倖※2も加わった。
※1.近衛信尹(このえのぶただ)とは、公家であるが武士に憧れて、天正5年(1577年)、元服した。
加冠の役を務めたのが織田信長で、信長から一字を賜り信基と名乗るが、また信尹と改名する。
慶長5年(1600年)9月、島津義弘の美濃・関ヶ原出陣に伴い、枕崎・鹿籠7代領主・喜入忠政(忠続・一所持格)も家臣を伴って従軍したが、9月15日に敗北し、撤退を余儀なくされる。
そこで京の信尹は密かに忠政・家臣らを庇護したため、一行は無事枕崎に戻ることができました、
また、島津義弘譜代の家臣・押川公近も義弘に従って撤退中にはぐれてしまったが、信尹邸に逃げ込んでその庇護を得、無事薩摩に帰国した。
信尹の父・近衛前久も薩摩下向を経験しており、関ヶ原で敗れた島津家と徳川家との交渉「を仲介し、家康から所領安堵確約を取り付けた。
慶長6年(1601年)7月23日、念願の関白となるも、翌11年11月11日に関白を鷹司信房に譲り辞する。
この頻繁な関白交代は、秀吉以降滞った朝廷人事を回復させるためであった。
※2.僥倖(ぎょうこう)とは、偶然に得るしあわせ。
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開戦の口実作りを模索
あとは、「開戦の口実」のみである。
家康は豊臣家が建立した方広寺に注目していた。当初この寺では、秀吉の17回忌の8月3日に大仏の開眼供養及び堂供養が行われる予定であったが、家康は7月26日に難癖をつけ延期を申し渡した。
さらに、すでに完成している釣鐘に記された銘文について、京都五山の僧侶たちに解釈を命じると、僧たちは「国家安康」の一語を、家康の名を分断するもであるという見解をもたらしたのだ。
一連の流れは、家康は謀臣たちと共に周到に練り上げた、豊臣家追討の大義名文づくりであったとことは想像に難くない。
かくして、片桐且元に駿府の家康が東西新和の策を立てるよう命じていた頃、江戸には徳川に忠誠を誓う西国大名の誓書がもたらされ、開戦への準備が整ったのである。