美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

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南北朝期に足利尊氏が開いた室町幕府だが守護大名の統制に四苦八苦

投稿日:2024年7月27日 更新日:

 鎌倉幕府が滅亡し、室町幕府が名実と共に始まったのは、二人の天皇が並立し、北朝方、南朝方と分かれて戦った。

 

 

時の天皇・後醍醐天皇からの倒幕の命管が下ったことを機に、源氏の棟梁だった足利尊氏は、弟・直義、高師直らと旗揚げして北条氏を征討した。

 

 

しかし。その後、武士の流儀を守る武家政権を目指した尊氏と、親政を企む天皇が対立する。

 

 

幕府開設へ熾烈な戦いが始まることになります。

南北朝時代の延元3年(1338年)、北朝方の足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられたときでした。

 

 

理想の武家政権樹立を目指した室町幕府創設者である足利尊氏である。

その後、天正元年(1573年)に第15代室町幕府将軍・足利義昭が織田信長に追放されるまで続きます。

 

 

席権が比較的安定したのは3代将軍・足利義満の時代で、京都室町に「花の御所」を造営し、歴代将軍もそこで幕政を執ったことから、室町幕府、室町時代と呼ばれるようになりました。

 

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地方に強大な守護大名

この時代、中央政府である室町幕府の権力は弱く、各地で力を伸ばしていた有力守護大名による連合政権でした。

 

 

幕政は原則的に合議制で行われ、将軍であっても守護大名の意見を無視することはできませんでした。

 

 

職制自体は、日本の歴史上初の武士政権となった鎌倉幕府のものを踏襲していますが、将軍の下には管領※1という職が置かれ、三管領と呼ばれた再有力守護大名が、強い発言力を持つ補佐役として政権を担当。

※1.管領(かんれい)とは、室町幕府の役職で、足利将軍に次ぐ立場です。鎌倉幕府で北条氏が独占した「執権」に相当し、将軍を補佐しながら政務全体を統括する役割を担いました。

 

 

地方では、鎌倉府が東国10ヵ国を統括し、その長官に鎌倉公方を足利基氏の子孫が世襲した。

 

 

九州には博多を本拠とする九州探題※2が置かれ、今川了俊のあと渋川氏が世襲した他に、奥州探題※3なども置かれました。

※2.九州探題とは、室町幕府の軍事的出先機関である。当初は鎮西管領とも称された。

※3.奥州探題とは、室町幕府の陸奥国統治機関で、地方行政府の一つです。
足利氏が、斯波家長を鎌倉府執事、石塔義房を奥州総大将に任じて、奥州掌握に着手し、正平元年・貞和2年(1346年)に奥州管領府を樹立。

 

 

 

吉良貞家と畠山国氏を初代ちとして、原則原則として2名が任命されたが、観応の擾乱※4以後の政権分裂によって、同時に4名以上の者が管領を称する事態が続いた。

 

 

足利義満政権下の幕府管領・細川頼之のとき、奥州探題制に改組。

元中8年・明徳2年(1381年)に一時廃止され、奥州両国は鎌倉府の配下に置かれたが、応永7年(1400年)に、まず斯波大崎氏に探題の称号の復活が認められ、稲村・篠川両御所の滅亡後、足利義政政権下で、探題制の機能も回復した。

 

 

しかし、応仁の乱以後、府の昨日は形骸化した。

なお、当時の大崎関係文書をも素材にして留守氏が書き上げたといわれる『余目氏旧記』1514年は、奥州探題中心の奥州秩序が描写された記録として重要です。

※4.観応の擾乱(かんのうのじょうらん)とは、南北朝時代、観応元年/正平5年にかけて正平7年にかけて、足利政権の内紛によって行われた戦乱。

 

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室町時代の守護大名

室町幕府が成立すると、鎌倉幕府の守護制度を継承し領国を支配した武将をいう。

 

 

当初、守護の職権については、鎌倉期と同じく大犯三ヶ条の検断に限定されていたが、国内統治を一層安定させるため、南朝:正平元年、北朝:鄭和2年(1346年)幕府は苅田狼藉※5の検断権と使節遵行※6権を新たに守護の職権へ加えた。

※5.苅田狼藉とは、土地の所有を主張するためには田の稲を刈り取る実力行使であり、武士間の所領紛争に伴って発生した。

※6.使節遵行とは、幕府の判決内容を現地で強制執行する事である。

 

 

これらの検知権を獲得したことにより、守護は国内の武士間の紛争へ介入する権利と、司法執行「の権利の2つを獲得することになった。

 

また、当初は現地の有力武士がs任じられ事が多かった守護お人選も、次第に足利将軍家の一族や譜代、功臣の世襲へと変更されていく。

 

 

南朝;正平7年、北朝:文和元年(1352年)、観応の擾乱における軍事兵粮の調達を目的に、国内の荘園・国衛領から年貢の半分を徴収する事のできる反済の権利が守護に与えられた。

 

 

当初、反済「は戦乱の激しい3国(近江・美濃・尾張)に限定して認められいたが、守護たちは反済の実施を幕府へ競って要望し、半済は次第に恒久化され、各地に拡がっていく。

 

 

南朝:正平23年、北朝:応安元年(1368年)に出された応安の半済令は、この後、守護による荘園・国衙領への侵出が著しくなっていった。

 

 

さらに、守護は荘園領主らと年貢納付の請け負い契約を結び、実質的に荘園への支配を強める守護請も行うようになった。

 

 

この守護請によって、守護は土地自体を支配する権利、すなわち、下地進止権を獲得していく。

 

 

また、朝廷や幕府が臨時的な事業(御所造営など)のため田の面積に応じて賦課した段ぜにや、家屋事ごとに賦課した棟別銭の徴収は、守護が行うこととされた。

 

 

守護はこの徴収権を利用して、独自に領国へ段銭・棟別銭を賦課・徴収し、経済的機能をますます強めていった。

 

 

守護は以上のように強化された権限を背景に、それまで国司が管轄していた国衛の組織を吸収し、国衛の在庁官人を被官(家臣)として組み込むと同時に、国衛領や在庁官人の所領を併合して、守護直轄の守護領を形成した。

 

 

また、これと並行して、守護は強い経済力をもって、上記の在長官人の他、国内の地頭・名主といった有力者(当時、国人と呼ばれた)をも被官(家臣)にしれいった。

 

 

この動きを被官化というが、こうして守護は、土地の面でも人的面でも、国内に領域的かつ圴一な影響力(一円支配)を強めていった。

 

 

こうした室町期の守護のあり方は、軍事・警察的権能のみを有した鎌倉期守護のそれと大きく異なることから、室町期守護を指して守護大名と称して区別する。

 

 

また、国内の支配体制を守護領国政という。

守護大名による領国支配は、後生の大名領国制と比べると必ずしも徹底したものではなく、畿内を中心に、国人層が守護の被官となることを拒否した例も実際には多く見られる。

 

 

また、幕府も荘園制度の解体や守護の権力強化は望ましいちは考えておらず、有力守護大名に対して度々掣肘※7。

※7.掣肘(せいちゅう)とは、そばから、あれこれと干渉して、自由に行動させこと。「ーを加える」

 

 

室町中期までに、幕府における守護大名の機能は肥大化し、幕府はいわば守護大名の連合政権の模様を呈するようになる。

 

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当時の有力な守護大名には、足利将軍家の一族ある斯波氏・畠山氏・細川氏をはじめ、外様勢力である山名氏・大内氏・赤松氏など数ヶ国を支配する者がいた。

 

 

これら有力守護は、幕府に「出仕するため継続して在京することが多く、領国を離れる場合や多くの分国を抱える場合などに、守護の代官として国人や直属家臣の中から守護代を置いた。

 

 

さらに守護代も小守護代を置いて、二重三重の支配構造を形成していった。

 

 

なお、東国の守護は京都ではなく、鎌倉府のある鎌倉に出仕していた。
これを在倉制と称する。

 

 

これに対して幕府の将軍も自らの側近を従来の奉公衆・奉行衆とともに守護大名の庶流にも求め、庶流出身の側近に宗家とは別箇に守護職の地位を与える場合もあった。

 

 

彼らの補佐のもとに将軍の新裁権を高めるとともに守護大名家の分裂と弱体化を誘った。

 

 

この路線は守護大名の強力な後ろ盾の下に足利将軍家を継いだ足利義持の頃から見られその後継者に継承されるが、守護大名家の分裂と弱体化には一定の成果がみられるものの、肝心な将軍の新裁権強化は有力守護大名の抵抗を前に困難を極め、室町幕府の権力基盤を弱めたばかりではなく、嘉吉の乱や応仁の乱の原因の一つとなった。

 

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室町幕府創設〜3代足利義満将軍就任

◇延元1年(1336年)
足利尊氏が室町幕府を創設

◇延元4年(1339年)
南朝の後醍醐天皇天皇が吉野で死去死する。皇子義良が後継として即位(後村上天皇)

◇1347年
吉野に復帰した南朝の北畠親房らが攻勢

◇1348年
四乗畷の戦い、南朝軍の楠木正行が北朝の高脂直・師泰兄弟とと戦い、敗死。高兄弟は吉野を攻め、後村上天皇は賀名生に逃げる。

◇観応1年(1350年)〜1352年
観応の擾乱:足利尊氏・直義兄弟の抗争。一時的に和睦が成立し擾乱は終わるが、のちに直義は差害される。

◇延文1年(1358年)
足利尊氏死去

◇応安1年(1368年)
足利義満、3代足利将軍に就任。細川頼之が管領となって足利義満補佐する。

 

 

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