16世紀半ばに入ると戦国時代における日本各地の主役たちがほぼ出揃います。
あなたもご存じの、信長・秀吉・家康ら、鉄砲が伝来したことで、戦術も一段と高度化していきます。
戦国乱世を通じて一つの中心舞台となる中部では、尾張の織田氏が信秀、信長父子の代になり、近隣国の盟主である今川氏や斎藤氏に多大な影響を与え始める。
小国主の織田信長は、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元に勝利し、戦国大名の主役として名乗りを上げた。
今川氏の人質なっていた徳川家康を解放して三河国の領主として一本立ちした。
武田信玄・上杉謙信と川中島で合戦計5回戦ったが決着つかず、謙信は同時に、関東の雄、北条氏とも何度も闘いを繰り広げましたが、なかなか戦況は芳しくなく関東への本格的な進出は果たせませんでした。
中国地方では大内氏が巨大な軍事力と経済力を誇示してが、大内義隆を討ち気勢が上がったが、急速に台頭してきた毛利氏が厳島の戦いで陶晴賢を破り一気に盟友に躍りでます。
京都では、室町幕府内で権勢を奮っていた細川晴元が江口の闘いで三好長慶に敗れて弱体化、その後、長慶が政権を握りますが長続きしません。
こうして中央権力はますます形骸化の度を深めていき戦国時代に突入していきます。
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種子島に鉄砲伝来し兵法に多大な影響
長享2年(1488年)にアフリカ大陸南端「喜望峰」を発見たポルトガル人は、スペイン人と並んで大航海時代の担いつつ、香辛料貿易の独占とキリスト教布教を目指して東洋に進出してきました。
貿易の中継地だったマラッカを占領し、東南アジアや東アジアに貿易網を拡大しようとしました。
こうした中、天分12年(1543年)にポルトガル人が種子島に漂着してしまいます。
その時地元民が最も興味を引かれたものは、異人たちが携帯していた鉄製の峰のような鉄砲(火縄銃)でした。
この時、ポルトガル人は、種子島の領主種子島時堯(ときたか)の前で、鉄砲の試し撃ちを披露したと伝えられています。
鉄砲は銃口から弾薬を入れる先ごめ式で、長さは約3尺(約90cm)、鉄筒の片方の端はふさがっていました。
中には火薬を詰め、小さな鉛玉を込めて構え、的を狙って撃つと、大音響がこだまし、見事に的を打つと、種子島時堯は鉄砲の不思議な威力に興味を抱き、大金を積んで2挺を買った。
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堺・紀伊・伊豆へ伝来
種子島時堯は、家臣の篠川小四郎に命じ鉄砲の火薬の超合法を学ばせ、さらに、地元の鉄職人を集めて鉄砲の製造法を研究させます。
苦心の末製造法が確立し、量産が可能になると同時に鉄砲は島外に広まり、鉄砲は「種子島」と呼ばれ、わずか数年の間に、九州・堺・近江・国友・紀伊根来など各地に鉄砲製造の技術が伝わっていきます。
この頃、日本国内は群雄割拠※1の戦国の世の最中でした。
※1,群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)とは、多くの英雄が各地で本拠地を構えて勢力をふるいお互いに対立すること。転じて、同じような実力や勢力を持つ者が、互いに対立して争っていくこと。「群雄」は、多くの英雄や実力者。
当然、鉄砲は新型兵器として評判を呼び、大名たちが是非とも手に入れたいと躍起となり始めたのです。
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鉄炮伝来の時の武将たち
織田信秀が美濃に侵入
信長の祖父が基礎固め
尾張統一に乗り出し三河・美濃を再三攻撃し宿敵斎藤道三と和睦を結ぶ、織田信長の家系は、尾張守護代織田氏の支流で身分の高い方ではなかった。
祖父の織田弾正忠信定が上昇志向の強かった人物で、尾張で栄ていた伊勢湾の港湾商業都市の津島を攻略し商人や職人集団を支配下に置き、勢力拡大の基礎を築いた。
家督を継いだ信秀も好戦的な武将で、更なる野望を抱いていて尾張平定に乗り出します。
まず、今川氏親が築城した那古野城を手に入れた後、天文六年(1539年)それまでの居城だった勝幡城から古渡城に移り、そこを拠点に尾張の東方の三河をめぐって今川氏と闘い、北側の美濃の侵攻も開始します。
濃姫を信長の嫁に
美濃の守護は、もともと土岐氏だったのですが、この頃、既に土岐氏だったのですが斎藤道三が土岐氏を追い出し勢力を誇示※2していました。
※2.誇示(こじ)よは、誇らかに示すこと。自慢してみせるること。
信秀は土岐氏や越前の有力大名朝倉氏と手を結び道三攻略を試みましたが、道三勢は手強く、打倒することがは出来ませんでした。
天文17年(1548年)、道三の娘・濃姫を信長の嫁に貰うことをで、和睦が成立します。
信秀はその後も、尾張統一のための闘いを繰り広げましたが、天文20年(1551年)末森城で没します。
この時、信長は、兄の信広らなどの候補を押しのけて家督を相続した。
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武田信玄が信濃に侵入する
武田氏は、既に信玄(晴信)の父・信虎の代で甲斐統一を果たし、戦国大名として確立していきました。
信玄は長男でしたが、弟の信繁が生まれると、父の寵愛は信繁に移り、そして、徐々に父・信虎と対立するようになった信玄は武田家の重臣の板垣信方や甘利虎泰らと共謀して天文10年(1541年)、父・信虎を駿河に追放して隠居させた後、武田家19代となった。
その後、信玄は板垣や甘利らと共に基盤を固めながら、信濃平定に乗り出していきます。
信濃は山がちな甲斐と違い、豊かな水を湛えた湖がある魅力的な土地で、この地の攻略は信虎時代からの念願でした。
苦戦しつつ続々と攻略
信玄は、天文11年(1542年)、伊那の高藤頼繼と手を組んで諏訪頼重を攻め、上原城、桑原城を落とし諏訪を平定します。
その後、領土問題から高遠頼繼と対立したのをきっかけに、頼繼らを滅ぼして南信濃を制圧、さらに信玄は、佐久に強大な勢力持つ村上義清※を攻めます。
※村上義清とは、戦国時代の武将、北信濃の戦国大名。父は左衛門督村上顕国(頼平・頼衛)。母は室町幕府三管領家の斯波義寛の娘。家臣の出浦国則の妻を乳母とする。正室は信濃守護大名としての村上氏最後の当主。信濃埴科郡葛尾城主で、武田晴信(のちの信玄)の侵攻を二度撃退してる。家督相続時には佐久郡・埴科軍・小県郡・水内郡・高井郡など信濃の東部から北部を支配下に収め、村上氏の最盛期に当主となた。実質的には戦国大名としての村上氏最後の当主です。
それでも信玄は、武田家が衰退したとみて攻め込んできた西信濃の豪族・小笠原長時を打ち破った後、強敵・村上義清を攻略し、信濃の平定へと突き進みます。
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伊達晴宗が米沢に移転し勢力拡張
養子めぐり対立しそして幽閉
伊達家15代当主伊達晴宗は永正16年(1519年)、父・伊達稙宗の長男として誕生、晴宗は天文11年(1542年)から6年間、父・稙宗との対立を背景とした「天文の乱(洞(うつろ))の乱」を引き起こします。
発端は、稙宗が伊達晴宗の弟である実元を越後上杉家に養子に出すといい出したことでした。
晴宗は、精兵100騎を実元に随行させて養子に出すことは、伊達家の戦力が弱体化しかねないかと、これに反対し、稙村を幽閉したのです。
これに対し、稙村の家臣の豪族たちは稙村の救出に成功、父子の合戦に突入、全奥州を巻き込む激しいお家騒動は稙村が隠居し、晴宗が家督を継ぐことでようやく終結しました。
父・稙村の後子と対立する晴宗
晴宗の乱の収拾の過程で、天文17年(1548年)、居城を桑折の西山城から米沢城に移した。
さらに、天文22年(1553年)には領国家臣団に対し知行判物※3をいっせいに再交付、知行を改めました。
※3.知行物とは、大名が家臣に与えた土地のこと。知行判物とは、大名たちが家臣や従者に宛てた、知行に関する公式文書のようなもの。
その後、伊達晴宗は、乱後に権勢を強めた家臣中野氏の扱いなどを巡って子・輝宗と対立深め、永禄7年(1564年)頃には杉目城(福島城)に隠居に追い込まれ、伊達輝宗が家督を継ぎました。
晴宗は父・稙村と同じように生涯を通して、岩城、留守、国分、二階堂、といった各家に対して自分の子を養子縁組や入嫁させ、伊達家の地位を不動のものにします。
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上杉謙信が越後国主に就任
越前守護代として成長、還俗した謙信が兄と対立し上杉家の家督と役職を継ぐことになる。
上杉家の家臣として権勢ふるう
代表的な戦国武将である上杉謙信は、桓武平氏の流れをくむ長尾氏の家系で、上杉氏が支配していた土地のうち越後で守護代として権勢をふるっていました。
後に上杉謙信と名乗る長尾景虎は、享禄3年(1530年)に長尾為景のことして春日山城で誕生、父・為景が没すると、景虎(謙信)の兄・晴景が家督を継いだのですが、病弱だったために越後守護代としての領地支配に支障をきたすようになり、弟・景虎を還俗※5させます。
※5.還俗(げんぞく)とは、出家した僧侶や尼が再び俗人に戻ることを意味します。
上杉家の弱体化を利用
栃尾城主となった長尾景虎(上杉謙信)は14歳という若さでしたが、戦いに長けており、有能で守護代候補と目されるようになります。
長尾景虎と長尾晴景の兄弟が対立したため、天文17年(1548年、越後の守護・上杉定実が仲裁に入り、景虎が家督を継ぎ、晴景が隠居することで収拾をつけ天文19年(1550年)には定実が死去したため景虎が足利将軍家の命により越後国主となった。
安土桃山時代の永禄元年(1558年)には、関東管領の山内上杉家の上杉憲政が、急速に力をつけきた北条氏を頼って越後に逃げきた、その後、長尾景虎は上杉憲政一族の保護と上杉家の所領回復に努める代償として、上杉家の家督と関東管領の職を受けることになったのです。
三好長慶の政権誕生
実力者細川晴元に攻撃し実権を握るも安定になくて一族を失い三好政権は衰退します。
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父・元長の復習果たす
足利将軍家の弱体化に乗じた形で、幕府内での権勢を強めようとした細川晴元は、享禄4年(1531年)にライバルの細川高国を攻略した際、阿波で絶大な力を誇っていた重臣・三好元長の力を借りました。
ところが、天文元年(1532年)、細川晴元は、三好元長の底知れぬ力に危機感を感じて、功労者であったにもかかわらず三好元長を殺害してしまう。
その後、細川晴元は京都を中心に安定政権を築きましたが、天文19年(1549年)、細川晴元が支持する三好政長が細川高国の子・細川氏綱と三好元長の子三好永慶に討たれると、足利義晴、義輝父子と共に近江に逃れていきました。
父の復習を果たした三好長慶は、足利義輝を将軍に、細川晴元と対立していた細川氏綱を管領にそれぞれ形式的に据えておき実権を握りました。
さらには貿易拠点である堺の経済力をも獲得すること出来ました。
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三好三人衆も活躍
細川晴元は、永禄4年(1561年)には、三好長慶と和睦して隠居の身となり、隆盛※6を極めた細川氏本家は、歴史の表舞台から消え去ることになりました。
※6.隆盛(りゅうせい)とは、勢い盛んに栄えること、を意味する表現。ご隆昌ともいう。
三好長慶の飛躍の背景には、「三好三人衆」※7と呼ばれる三好長逸(ながゆき)、三好宗渭、三好友通の活躍がありました。
※7.三好三人衆とは、三好長慶の時代は、それぞれが軍を率い一族の重鎮として活躍していた。一説によれば、三好長逸は三好一族の長老、三好岩成は松永久秀と並ぶ家臣団の代表、三好宗渭はもともと細川勝元陣営出身で旧細川氏家臣団や堺とのパイプ役として位置付けられいた。永禄7年(1564年)の三好長慶の死後、甥で後継者の三好義継は年若すぎ、長慶の弟達も死去していたため、義継の後見役としてこの3名が台頭※8した。
※8.台頭(たいとう)とは、頭を持ち上げること。勢力を得てくること。
ところが、勇敢かつ有能な長慶によって運営された三好政権も長くは続きませんでした。
十河一存(そごうかずまさ)、三好義賢、三好義興と一族が相次いで死亡し、衰退を余儀なくされます。
三好長慶は晩年、次第に家臣・松永久秀に操られるようになりました。
永禄7年(1564年)松永久秀の讒言を受けて弟・安宅冬康を誅殺した直後、自身も後をおうようにこの世を去りました。
尾張・美濃で力を伸ばしてきた織田信長が上洛する直前の出来事です。
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陶氏が大内氏を破り下克上
若き陶晴賢が主家に反旗をあげ甥を大内家当主に据えて君臨、当の大内義隆は文人となり自滅した。
代々の大内家家臣
陶氏は中国地方を中心に勢力を張った大内氏の一族であり家臣で、現在の山口市にあった陶村を本拠とした陶弘賢が始祖といわれています。
南北朝時代には既に、大内氏の有力家臣として活躍していました。
陶弘賢から数えて8代目となる陶興房は16世紀前半、西国の有力武将として隆盛を誇った大内義興、義隆に仕えて軍功を上ます。
天文8年(1539年)に陶興房が没すると子の陶晴賢(隆房)が19歳若さで家督を継ぎました。
晴賢は父祖から受け継いだ大内氏内部での地位と天才的な知謀を駆使して力を伸ばし、ついに下克上、つまり大内氏征伐の道を選ぶことになります。
16世紀半ばのことです。
大内義隆が戦意喪失
この頃、大内氏、小弐氏ら有力武将と戦って九州北部を制圧。
さらに安芸の毛利氏や石見氏と結んで出雲と戦闘を重ねていました。
しかし、子の大内義房を戦いで失うなどすると次第に戦意を減退させ、軍事を家臣に任せ、自らは京風の学問や出版事業、芸能に没頭するようになっていきました。
同時に大内義隆は家臣からの信任をも失いつつあったのです。
陶晴賢(隆房)は、天文20年(1551年)ついに反旗を翻し、山口の大内邸を激しく攻め立てました。
大内義隆は長門の深田大寧寺で自刃し、山口にいた二条良豊ら公家達も殺害されました。
翌年、陶晴賢(隆房)は甥の大友晴英に大内家の家督を継がせ、大内義長と名乗らせました。
ただし、これは名目上の主家であり、あくまでも実権は陶晴賢が握ったのです。
こうして下克上の目論見は見事に成功を収めました。
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毛利元就が厳島の戦いで勝利する
信仰と交通の要所が舞台となり奇策で陶氏の軍勢に大打撃を与え小勢力から一転して名将になる
権謀術数を駆使
中国地方では、天文20年(1551年)隆盛を誇った山口の大内義隆が陶晴賢に自刃させられて殺されて大内氏は衰退した、
その後、陶氏に加えて、安芸の毛利氏、出雲の尼子氏らによる割拠の時代に入りました。
その中でも、比較的勢力の小さかった毛利氏が権謀術数することで、急速に勢力を伸ばしていきます。
毛利元就は、三男隆景を水軍で有名な小早川家に、次男元春を安芸Iの名門吉川家にそれぞれ養子に入れ、両家を事実上、支配下においきました。
そうして弘治元年(1555年)同盟関係にあった陶氏を相手とする厳島の戦いに臨んだのでした。
厳島は周囲約30Kmの小さな島ですが、瀬戸内有数の信仰の場である厳島神社があった上、内航海運の要所でもあり、戦略上重要な拠点でした。
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不意打ちで壊滅
毛利元就は、謀略をめぐらせ、デマを流すなどして、陶晴賢の大軍を狭い厳島に誘き寄せ、閉じ込める形にしました。
その上で、夜、暴雨風をついて厳島に上陸し、陶軍の陣地へ背後の山から奇襲攻撃と合わせて挟み撃ちにしたのです。
不意をつかれた陶軍は大混乱に陥り、ほとんど反撃らしい反撃もできないまま壊滅し、陶晴賢は自害に追い込まれています。
この戦いの兵力は、陶氏の約2人に対し、毛利氏は1000人程度でした。
厳島の戦いの後、勢いに乗る元就は、出雲の有力大名である尼子氏をも富田月山城(月山富田城)での戦いで打ち破り、中国地方のほぼ全土を手中に収めたのです。