美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

立花誾千代

秀吉の誘いを「武装姿で鉄砲」で謁見返した女 ! 天下人が唯一恐れた姫君

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立花誾千代「西国無双」※1と称された立花宗茂の妻、彼女自身が凄まじい「武」のオーラを纏った稀代の女性です。

 

 

彼女の人生は、単なる「武家の妻」に留まらない、誇り高き独立した魂の女傑です。

戦う姫から慈愛の女神として祀られます。

※1.西国無双とは、戦国時代から江戸時代にかけての武将・立花宗茂のこと。

豊臣秀吉から「西日本で並ぶものがないほど最強の武勇」と称賛された称号です。

「本多忠勝」と並ぶ評価を受け、生涯負けなしの武功を挙げた武勇として知られています。

 

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秀吉も恐れた誾千代

天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州平定に際して、その功を認められた立花宗茂(立花誾千代の夫)は南筑後三郡を与えられ、

柳川に城地を移し、本格的な城郭整備とりかかります。

 

 

このとき、12万石の柳川城主に任じられたのは立花宗茂。

天下統一を果たした豊臣秀吉は、文禄元年(1592年)、弟・秀長が亡くなった翌年無謀にも海の向こうの大陸への侵攻を試みます。

 

 

文禄の役と、5年後の慶長の役では、加藤清正と共に活躍した武将として知られています。

 

 

西国一美しい姫と称される美女であると共に、父親譲りの武勇に長けた姫という話しが多く伝わっています。

 

 

『大友文書』によると、「戸次伯耆守(べっきほうきのかみ)は誾千代の父は、大友宗麟の重臣なれど、矢傷にて脚がくさり衰えたりしてきたが、娘・誾千代は勇壮で城内の腰元女中、50名ほど集めて訓練し、戦初めに一斉射撃をなして敵の心胆を奪う」という記述があります。

 

 

鉄砲はもちろん、薙刀もかなりの腕前、夫・立花宗茂が文禄・慶長の役で不在の間、好色の秀吉誾千代を言葉巧みに名護屋城(現・唐津市)に呼び寄せ、手込めにしようとしたが、それを察知した誾千代はお付きの女中に鉄砲を構えさせて護衛させた。

 

 

また自らも武装をして乗り込んだため、それでおそれをなした秀吉「戦事である、戦い支度で来るとは立派な心構えだ〜」と褒めるより仕方なく、手も足も出なかったとされます。

 

 

夫・宗茂が不在の間、城の守りは妻である誾千代が任されていたので、そのため侍女たちと共に武装し、敵からの攻撃に備えていた。

 

 

関ヶ原の戦いでは、西軍に付いて負けたが、居館から甲冑を着て出撃、先に柳川西側に渡船口にて鉄砲隊を構え射撃して鍋島水軍を近づけず、そして南側へ往き、自分が別居中の宮永村にて攻め寄せる加藤清正軍を威嚇して、加藤軍の進軍を改道させたとされています。

 

但し、名護屋城の話しなど、確実な史料ではない裏付けが取れないものもあります。

 

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戦う姫・立花誾千代

立花誾千代の夫は西国で最強と称される名将・立花宗茂のという武将の正室で、自身も戦国時代の女性武将として活躍。

誾千代(ぎんちよ)と読む。

 

 

誾千代父・立花道雪は、大友氏※2の家臣(加判衆※3の武将で、「雷神」「鬼道雪」という異名でも呼ばれ猛将であった。

戸次鑑連=立花道雪の一人娘として筑後国山本郡(現・久留米市田主丸町竹野)問本(といもと)にて誕生し、名前に含まれる「誾」の字は「慎み人の話しを聞く」という意味合い含めて肥前の僧侶・増吟が名付けた。

 

 

傅役には、道雪の後妻・仁志姫との仲介を取り持つ縁で、城戸知正が命じられた。

※2.大友氏とは、ルーツとして、鎌倉時代に源頼朝の側近・大友能直が豊後守護に任じられて以来、同地を支配した名門です。

戦国時代に豊後国(大分県)を拠点とし、北九州を中心に最大6ヶ国を支配した名門戦国大名です。

21代当主・大友宗麟(義鎮)の時代に全盛期を迎え、南蛮貿易で経済力を持ち、キリシタン大名としても有名。九州の覇権をかけて島津氏と激闘を繰り広げました。

※3.加判衆とは、大友氏(大友宗麟)の家臣・戸次鑑連(べっきあきつら)=後の立花道雪が務めた、大友氏の最高幹部・宿老(大友氏の領国支配における最高意思決定機関のメンバー、主に領内の重要事項の会議に参加し、決定事項の文書に署名・判(判形)を押す宿老の地位です。)

 

 

しかし、道雪に男子が生まれず、当時としては異例中の異例ながら、天正3年5月28日(1575年7月6日)、誾千代7歳の時に立花城城督※4・諸道具の一切を譲られています。

 

 

道雪ほどの武将が、大事な跡取りを私情だけで決めるとは考えにくく、誾千代に並々ならぬ才能を感じていたと思います。

 

 

先ほども言いましたが「誾」という一字には、“穏やか”や“和やか”という意味があります。

 

 

そして「誾千代」は成長すると“西国一”の美貌で、薙刀(ナギナタ)鉄砲といった武芸の腕も男性の武者に劣らない腕前になっていきます。

▲※4.城督(じょうとく)とは、主君の代わりに城を管理・防衛する家臣の長の警備の総責任者を指す言葉。

主に戦後時代から近世にかけて用いられ、特に毛利氏などの領国において城衆の指摘や命令の伝達、防衛を担当した役職です。

城代家老の略称として扱われます。

父・道雪は後継者となるべき息子がおらず、一人娘に城督を継がせるため、通常の男性当主の相続と同じ手続きを踏み、主家である大友家の許しを得た上で、同年6月26日(1575年8月4日)付けで大友宗麟・義統の安堵受け、姫を立花城の城督とした。

 

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誾千代13歳でっ婿養子を迎える

天正9年(1581年)、高橋紹運※5(大友宗麟の宿老・吉弘鑑理の次子)長男である宗茂(戸次弥七郎統虎)立花道雪の養嗣子(婿養子)に迎え、天正10年11月18日(1582年12月13日)御本丸西の城における御旗・御名字の御祝いをもって初めて立花姓を名乗ります。

※5.高橋紹運(たかはしじょううん)とは、豊後の大友氏の家臣。吉弘鑑理、後に大友宗麟の命令で筑後の高橋氏の名跡を継義、高橋鎮種と称した。

 

 

父・道雪は立花の姓を用いることを望んだが、大友本家は2度の離反をした立鑑載の姓を名乗ることを嫌ったとも云われ、道雪が立花姓を名乗るのは、元亀2年(1571年)、筑前国守護代に就任してからの事です。

 

永禄12年(1569年)、誾千代は大友宗麟の家臣・立花道雪(戸次)と問注所鑑豊の娘・仁志姫との間に誕生した。

 

 

戦国時代に輝いた女性

注目すべきは7歳で家督を継いだということです。

現代社会でも女性の活躍が目覚ましいですが、戦国時代も同じような活躍した女性がいました。

それが、立花誾千代という女性です。

 

 

では立花誾千代とはどういうい女性だったか?

道雪は37回の戦いで一度も負けた事がない猛将であったが、この時、すでに56歳という高齢になっていました。

 

 

誾千代は父・道雪の影響もあって幼い頃から文字を学び、剣術にも強い関心を示すなど優れた女性と評価されていた。

 

 

立花道雪には、後継ぎとなる男子がいなく、そこで誾千代を立花家の後継者に据えようと考えるようになった。

 

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あとがき 誾千代の死

立花誾千代という人物は、戦国時代という男中心の社会にあって、女性でありながら一大名家の当主として家と領民を守り抜いた稀有な存在であると思います。

 

 

父・立花道雪の意思を継ぎ立花山城から柳川城へと拠点を移しながら、島津氏の侵攻や朝鮮出兵、関ヶ原の戦いという荒波を乗り越えようとした誾千代の生涯は、時代の大きな転換点と重なっています。

 

 

残された史料からは、誾千代が単なる名目上の当主ではなく、実際に政務や軍事を取り仕切り、家臣団からも信頼を得ていたことが窺えます。

 

 

夫・立花宗茂との関係は必ずしも円満ではなかったと伝えられるが、それでも立花家の存続ということには共闘していた様子もみて取れます。

 

 

関ヶ原の戦いで西軍についたことにより、立花家は一時改易となったが、誾千代の死後、立花宗茂は、再び徳川家から元和6年(1620年)徳川幕府から柳川藩主として10万9000石を与えられ奇跡の復活を遂げた。

 

 

誾千代は、その再興を見ることが出来なく若干34歳で病死してしまいましたが、立花家の血脈と精神は、夫・宗茂によって脈々と受け継がれていきました。

 

 

立花宗茂は誾千代の菩提を弔うため良清寺(現・福岡県柳川市)に建立した。

 

 

-立花誾千代

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。