美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

人たらし術

豊臣秀吉の人たらし術とは?天才的な人心掌握エピソード5選

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豊臣秀吉「人たらし術」エピソードは、歴史上の人物の中でも群を抜いて豊富ですよね。

軍師や側近たち以外にも、秀吉の凄みが伝わるエピソードはたくさんあります。

秀吉の凄さは、単に「優しい」だけではなく、相手の自己承認欲求を最大化させる技術にあります。

 

尾張国中村の足軽の子から天下人となった秀吉。

頂点に上り詰めるまでの過程で振るった最大の武器は、刀でも鉄砲でもありません。

 

 

それは「人の心を掴む力」でした。

敵対した相手を味方に引き入れ、一度従えた者の心を決して離しません。

 

 

戦国乱世において、武力以上に強力な武器となったのが秀吉の「愛嬌」「知略」でした。

 

 

 
竹中半兵衛・黒田官兵衛や堀尾吉晴・長宗我部元親らの名だたる猛将たちが、なぜ彼のためなら命を懸けられると考えたのか。

 

 

そこには、単なる優しさではない、計算し尽くされた「人心掌握の極意」が隠されていました。

 

 

今回は、戦国一の成り上がり者が、いかにして人の心を動かしたのか?

 

 

天下を掴む原動力となった数々の「人たらし術」伝説を徹底検証。知られざるエピソードから、彼の素顔に迫ります。

 

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竹中半兵衛の勧誘

「三顧の礼、栗原山の軍師を訪ねて」

美濃国随一の軍略家・竹中半兵衛重治

永禄7年(1564年)、わずか21歳の半兵衛は、義父・安藤守就(大河ドラマでは、秀吉の弟・小一郎が結婚した相手が安藤守就の娘・名は不明ですが、小一郎半兵衛婿兄弟になると連携し、主君・斉藤龍興の居城である稲葉山城を奪取しました。

天才軍師・竹中半兵衛の知略 ! 織田信長が恐れた稲葉山城奪取の真実

※.上部に竹中半兵衛の記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

 

半兵衛が名乗りを上げるためではなく、主君・龍興の怠惰※1(たいだ)を諌めるための凶行でした。

※1.怠惰(たいだ)とは、やるべきことを放置し、なまけてだらしない様子や性質のことで、意欲の低下や、面倒くさがりな性格に起因し、習慣的な行動を指すことが多いです。

一方、心理的な回避や休息の側面も持ち、無気力やうつ状態のサインとなることもあります。

 

 

半年後には、半兵衛は稲葉山城を龍興に返還し、半兵衛は美濃と近江の国境付近にある栗原山に身を隠しました

 

 

それから数年後、稲葉山城を陥落させて美濃を平定した織田信長は、この類まれな軍略家・竹中半兵衛の噂を聞き自らの陣営に引き入れたいと考えた。

 

 

その勧誘の使者に選ばれたのが、当時まだ一介の足軽大将のに過ぎなかった木下藤吉郎秀吉でした。

 

 

永禄4年(1561年)11月の坪内文書※2「木下藤吉郎秀吉」と署名されています、

※2.坪内文書とは、美濃国(現・岐阜県各務原市周辺)の武将・坪内利定に、織田信長や木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)らが知行を安堵した記録をはじめとする、坪内家に伝来した一級史料群です。

特に、1565年(永禄8年)の秀吉の最古の発給文書を含み、戦国期~江戸期の貴重な歴史資料とされています。

 

藤吉郎秀吉は、山深い栗原山の閑居に何度も足を運びました。

江戸時代の軍記物『絵本太閤記』には「栗原山中七度通い」と記され、『三国志演義』三顧の礼になぞられて語り継がれています。

 

 

これらは後世の創作の色が濃いものの、藤吉郎秀吉が身分を気にせず、自ら半兵衛のもとへ通い詰めた事は事実じゃないでしょうか。

 

 

半兵衛殿、織田家のためとは申しません。

どうか、この藤吉郎秀吉のために、その知恵をお貸してくだされ板間の冷たい床に手をつき、泥にまみれた頭を下げる藤吉郎秀吉、それをみて半兵衛は静かに言葉を返した。

 

 

足軽から身を立てた御仁が、随分と大言を吐かれる。

私を引き入れて何をするおつもりか?
天下の政(まつりごと)を正すため、殿をお支えしたく、儂には兵を動かす才が足りませんのであなたの力が必要なのです。

 

 

自らの弱みを隠す事なく晒し、ただ一人の男として教えを乞う。

 

 

武士の面目や体面を重んじる戦国の世において、底辺から這い上がって藤吉郎の「下から入る」姿勢は異質でした。

 

 

半兵衛は目の前に平伏する男の度量に己の才を預ける価値を見出した。

 

 

元亀元年(1570年)の夏、藤吉郎は信長「美濃国人竹中兵衛重治」を与力に加え許可を求め、正式に承認されます。

 

 

以後、「半兵衛は黒田官兵衛と共に藤吉郎秀吉の両翼」と称され、天正7年(1579年)に陣中で病没するまで、9年間に渡り羽柴藤吉郎秀吉の対毛利戦略の根幹を支え続けました。

 

 

羽柴への改姓は、その後、天正元年(1573年)頃、羽柴姓に改名する。

 

 

身分を持たない男が、己の頭を下げることだけを対価にして、稀代の軍師を手に入れた最初の瞬間(人たらし)でした。

 

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四国征伐後の長宗我部の処遇

天正13年(1585年)、土佐の国人領主から身を起こした長宗我部元親は、阿波、讃岐、伊予を次々と切り従え、四国統一をほぼ手中に収めていました。

 

 

天下の覇権を握りつつあった。

秀吉は元親に臣従を求めますが、元親はこれを拒絶します。

 

 

同年6月、秀吉は容赦のない武力行使に踏み切り、阿波方面へは弟・羽柴秀長豊臣秀次約6万の軍勢、隠岐方面へは宇喜田秀家・蜂須賀正勝・黒田官兵衛らの約2万3千の軍、伊予方面へは小早川隆景毛利勢約3万の軍を出した。

 

 

総兵力およそ11万という、四国を一気に飲み込む大軍勢を11 方向から同時に進行させた、元親の兵力では到底防ぎ切れるものではなく、阿波と隠岐の防衛線は瞬く間に崩壊します。

 

 

長宗我部の本陣では、重臣の谷忠澄が床に膝を突き、血を吐くような声で進言し、「殿、もはや戦いになりません。

 

 

押し寄せるは11万の大軍。土佐の民と長宗我部の血を残すため、ここは矛を収めてくだされ」、元親は奥歯を噛み締め、深く息を吐き出しました。

 

 

「‥‥無念だが、これまでか。降伏の使者をだせ」。

天正13年(1585年)7月25日、元親は降伏を受け入れます。

戦国の常識に従えば、大軍に抗戦した末に降伏した大名は、領地を全て没収されるか改易か、最悪の場合は当主の切腹を命じられます。

 

 

元親自身も、己の命と引き換えに家名を残したいと覚悟を決めていたはずです。

しかし、秀吉が提示した処分は、元親の予想を大きく裏切るもので、阿波、隠岐、伊予の三国は没収し、それぞれ蜂須賀家政、仙石秀久、小早川隆景らに分配しました。

 

 

一方で、長宗我部元親の命を奪う事なく、本拠地である土佐一国をそのまま安堵したのです。

 

 

さらに、三男の親忠を人質として差し出させる事で、長宗我部家を一国の大名として存続させました。

 

 

圧倒的な武力を持って手も足も出ない状態にまで叩き潰した上で、命と家名を保証する。

 

 

この処置により、長宗我部元親は豊臣秀吉に深く頭を垂れることになり、翌年の天正14年(1586年)、秀吉が羽柴から豊臣に改名した年に九州征伐の軍を起こすと、元親は誰よりも早く先陣を切り、忠実な配下として海を渡りました。

 

 

秀吉は、11万の大軍で元親の誇りを打ち砕き、一国の安堵で心を繋ぎ止めた。

秀吉の計算し尽くされた手口でした。

 

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小田原征伐の降伏勧告

天正18年(1590年)秀吉は関東の覇者・北条氏を討つべく、約22万の大軍で小田原城を包囲しました。

 

 

開戦の引き金は、北条の家臣・猪俣邦憲が真田領の名胡桃城を奪取したことでした。

 

 

秀吉が発布していた私戦禁止の掟「惣無事令」への明確な違反で開戦をそいた。

 

 

北条方の兵力は、約3万五千から5万、北条氏は難攻不落を誇る小田原城に立て篭もり、長期戦に持ち込む構えをみせました。

 

 

しかし、秀吉は力攻めを行いませんでした、代わりに仕掛けたのは、敵の精神の内側から削り取る途方もない心理戦でした秀吉は小田原城を見下ろす石垣山に約80日をかけて本格的な城を築城します。

 

 

作業は山頂の林の中で秘密裏に進められ、完成した6月26日、秀吉の命により、周囲の樹木が一斉に切り倒されます。

 

 

さらに塀や櫓の骨組みには白紙を貼り巡らせ、遠目には白壁のように見せかけ、翌朝、小田原城の将兵が見上げた先には、昨日まで存在しなかったはずの巨大な城が聳え立っていました。

 

 

「あれは幻術か‥‥。一夜にして城が湧き出たというのか」北条氏政が城の物見櫓から呆然と呟きます。

 

 

兵たちの間に動揺が走り、士気は音を立てて崩れたいきま、秀吉の盤外戦術はそれだけに止まりません。

 

 

千利休を招いて茶会を主導し、能役者を呼んで舞台を演じさせ「小田原城茶会」を開催させた。

 

 

さらに淀殿らが側室を大阪から呼び寄せ、陣中を見物させた後に箱根の温泉へ慰安に向かわせました。

「利休、見事な手前だ。この茶の湯気が、小田原の城内にも届くと良いだな」秀吉は笑い声を上げ、悠然と茶をすすります。

 

 

この「いくらでも包囲を続けられる」という圧倒的な余裕の演出は、北条家内部に決定的な亀裂を生みました。

 

 

城内では、籠城を主張する松田憲秀らと、和睦を探る当主・北条氏直らの間で意見が対立し、連日連夜、結論の出ない軍議が延々と繰り返されました。

 

 

後に「小田原評定」と呼ばれる内部分裂です。

天正18年(1590年)7月15日、ついに抗戦の意志を折られた北条氏直が降伏を申し出をし、秀吉は、主戦派の氏政(氏直の父)氏照(叔父)には切腹を命じたものの、当主である北条氏直の命は奪わず、高野山への追放にとどめました。

 

 

そして翌年には、北条氏直を赦免し、1万1千石の領地を与えています。

 

 

武力で血を流すのではなく、22万の兵力と茶会という「雰囲気」で敵を懲らしめています。

 

 

敵の当主の命まで「奪わない、このやり方は、秀吉の人心掌握の一つの到達点でした。

 

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備中高松城の水攻め交渉

「農民に破格の報酬をを配り、敵将の最期を『武士の鑑』と称した男」。
豊臣秀吉は、天正10年(1582年)の春、毛利氏の拠点である備中高松城(岡山県)を攻めます。
織田信長の命令による中国攻めの一環で、黒田官兵衛の献策※3により、城の周囲に堤防を築いて水を引く「水攻め」という奇策を用いて清水宗治が守る高松城を孤立させ、落城させました。

※2.献策(けんさく)とは、計略・計画などを上の者に申し述べること。

 

 

足守川東岸の蛙ヶ鼻から門前村まで、全長およそ一里、高さ約7mから8mにも及ぶ巨大な堤防を築くという大工事でした。

 

 

問題は、それをいかに早く完成させるため、秀吉は武力「で近隣の領民を脅すのではなく、破格の報酬を提示しました。

 

 

「土俵一俵につき、銭百文と米一升じゃ。
持ち込んだ者から順に、即座に払ってやる」という秀吉の呼びかけに、近隣の村々から農民たちが殺到しました。

 

 

通常ならば一ヶ月はかかると見込まれた大規模な土木工事は、わずか12日ほどで完成します。

 

 

足守川の水を堰き止められた高松城は、またたく間に孤立した湖上の城と化しました。

 

 

農民が何を一番欲しがっているかを見抜き、即座に銭と米をばらまく事で莫大な労働力を買い取ったのです。

 

 

城の命運が尽きかけた頃、秀吉は毛利方との講和交渉に入ります。

 

 

当初は毛利領5ケ国の割譲と城主・清水宗治の切腹を要求していましたが、毛利側が清水宗治の命乞いをした為、秀吉は領地割譲を3カ国(備中・美作・伯耆)に緩和します。

 

 

しかし、清水宗治の切腹だけは絶対条件として譲りませんでした。

 

 

そんな折、天正10年(1582年)6月2日未明に本能寺の変がが起こり、翌3日の夜に信長の横死の報せを受け取った秀吉は、この事実を毛利方に秘匿したまま、講和を急ぎました。

 

 

6月4日、清水宗治「は小舟に乗り、秀吉の陣へ向けて舟を漕ぎ出し、首実験で侮られないよう髭を剃らせた宗治は、舟上で能「誓願寺」を舞い、辞世の句を詠んで見事に腹を切り、「浮き世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して」。

 

 

その凄絶な最期を見届けた秀吉は、陣幕の中で静かに手を合わせました。

 

 

「見事な最期よ。あれこそ真の武士の鑑である」といって、秀吉は、宗治を手厚く葬り、石塔を建てて冥福を祈らせたと伝わります。

(※小舟での能の舞や辞世の勾は、軍記物に記された逸話です)。

 

 

清水宗治※4が自らの命をもって和議の証としたことで、毛利側は後から協定を破棄できなくなりました。

※4.清水宗治とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、備中高松城主。

三村氏、毛利氏に仕えた。三村氏の有力配下・石川久智の娘婿でした。

 

 

秀吉が山陽道を急いで東へ引き返す「中国大返し」の途上、毛利方では追撃論が出ましたが、「誓紙を交わした以上は遵守すべき」との小早川隆景の声が勝り、秀吉の背後が突かれる事はありませんでした。

 

 

農民には莫大な銭を配り、敵将の命を奪う代わりに武士としての最高の名誉を与える。

 

 

相手が最も求めるものを差し出し、自らの望む盤面を作りあげる。

秀吉の交渉の手口が遺憾なく発揮された戦いでした。

 

 

 

清洲会議

天正10年(1582年)6月2日の織田信長が本能寺の変により、織田信長と嫡男・織田信忠と共に織田勝長(五男で岩村城主・御坊丸※5)が倒される。

※5.御坊丸とは、織田勝長、安土桃山時代の武将。織田信長の5男、幼名は御坊丸。

「勝長」は『甲陽軍鑑』において見られる名で、史料で確認できる実名は、津田源三郎、織田源三郎信房。法名は林庭宗松。

元亀3年(1572年)8月14日に美濃国岩村城(現・岐阜県恵那市岩村町)の城主・遠山景任が亡くなった後、養嗣子子として岩村城へ入府したとされる。

遠山氏は武田氏と織田氏の両方に服属していた。景任の妻・おつやの方は系図上、織田家から来た織田信定の娘で信長より年下の叔母であったため、遠山景任が嗣子なくして死去したため、遠山家内の織田方を支持する家臣派閥の申し入れにより、信長の子を貰い受け遠山氏を嗣がせた。
これにより遠山氏は織田陣営に組み入れられた。

女城主おつやの方は信長に政略婚に使われ挙げ句の果ては磔にされた絶世の美女

※.ここに岩村城の記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

秀吉は備中から京都の山崎まで、およそ五十里の道をわずか10日間で踏破し、6月13日の山崎の戦いで明智光秀を討ち取ります。

 

 

これにより秀吉は「主君の仇討ち」という最大の名声を独占しました。

 

 

一方織田家の筆頭家老・柴田勝家は、北陸で上杉軍と対峙していたため、この一連の動きに全く間に合いませんでした。

 

 

同年6月27日に尾張国の清洲城において、織田家の後継者と遺領配分を決める会議が開かれます。

 

 

集まったのは、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の四宿老です。

 

 

関東に出陣していた滝川一益は敗走中で姿がありませんでしたが、会議に臨むにあたり、秀吉はすでに周到な根回しを終えていました。

 

 

山崎の戦いを共に戦った丹羽秀長と池田恒興に対し、事前の密談で領地加増などの有利な条件を約束し、味方に引き入れていたため、会議室の襖が閉められた時点で、すでに秀吉側3人に対し、勝家側1人という構図が完成していました。

 

 

『川角太閤記』などの後世の記録によれば、会議は次のような展開を辿ったとされます。

 

 

「織田家の跡目は、すでに御成人なされた信孝様をおいて他におられぬ」、上座で勝家が重々しく声を響かせます。

 

 

これに対し、秀吉は下座から穏やかに、しかし隙のない声で反論、「お待ちくだされ。亡き嫡男・信忠様には、れっきとした「嫡男・三法師様がおられます。嫡流の筋目を通すことぞ、我ら家臣の務めではありませんか」
池田恒興が即座に賛同し、丹羽長秀も静かに頷きます。

勝家は孤立しました。

 

 

わずか3歳の三法師を当主に据えれば、その貢献人として自分が実権を握れる「という秀吉の計算が、織田家の正論として通った瞬間です。

(※近年では、三法師への家督継承は生前の信長の方針であり、勝家が信長の三男(伊勢国北部を支配していた豪族(国衆)神戸氏の養子となり、第8代当主・神戸信孝とも名乗った)を推した話や、秀吉が三法師を肩に抱いて平伏させたという逸話は、後世の創作とする見方が有力です)。

続く遺領配分でも秀吉の老獪※6さが光りました。

※6.老獪(ろうかい)とは、多くの経験を積んでいて世慣れており、悪賢く抜け目がない様子を指す言葉です。

褒め言葉ではなく、主に悪い意味での「狡猾さ」「計算高さ」を年配者や熟練者に対して表現する際に使われます。

 

 

秀吉は、自身の旧領である北近江の長浜城を、筆頭家老である柴田勝家に譲るという形を撮りました。
勝家の面子を立てる譲歩に見せかけつつ、秀吉はちゃっかりと山城国や河内国といった畿内の要衛を獲得し、約28万石の加増を得ます。
実利の面では完全に勝家を逆転していました。
さらに同年10月15日に、「秀吉は大徳寺で盛大な信長の葬儀を執り行い、喪主を自らの養子である羽柴秀勝※7信長の四男)とし、沿道に約3万の兵を並べました。

※7.羽柴秀勝とは、安土桃山時代の武将、大名。

織田信長の四男で、家臣の羽柴秀吉が養嗣子として迎え入れ、幼名は於次(おつぎ)または於次丸(おつぎまる)。

なお、秀吉の子(養子を含む)には秀勝を名乗る者が3人おり、他の秀勝と区別するため、史家は便宜上、於次丸秀勝(または於次秀勝)と呼ぶことがある。
黒田基樹は次秀勝と呼ぶのが適切ではないかとしている。

永禄11年(1568年)、織田信長の4男として生まれ、生母は養観院と伝えられるが、素性は不明、童名は「次」。

天正4年(1576年)10月、石松丸秀勝を亡くした秀吉は、主家との養子縁組を願い出て、於次丸を貰い受けて羽柴家の跡継ぎとすることにした。

通説では、これは信長が血族を優遇していたことから、自己の地位擁護の意味もあったと考えられている。

他方で、宮本義己は、於次丸を養子に迎えることを希望したのは秀吉ではなく、秀吉の正室おねが信長に懇願した結果ではないかと主張し、実子を出産することができなかったおねが主筋の子を我が子として家中の安泰を図ったのです。

 

 

 

この時期を選んだのは、越前の北ノ庄城にいる柴田勝家が、深い雪に阻まれて上洛できないタイミングを見計らったためです。

 

 

葬儀を一人で取り仕切る事で、秀吉は天下に向けて「信長の後継者は秀吉である」と宣伝しました。

 

 

翌年、雪解けを待って挙兵した柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、秀吉は天下人への道を確定させます。

 

 

明文の確保、事前の根回し、相手への譲歩に見せかけた実利の獲得、そして世間への演出。

 

 

清洲会議から葬儀に至る一連の流れは、秀吉の人心掌握の全技法が擬縮された決定的瞬間でした。

 

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まとめ

竹中半兵衛の元へ何度も足を運んだ泥臭さ。

長宗我部元親の誇りを残して殺さなかった計算。

小田原城を大軍で囲みながら茶を点てた余裕。

高松城の水攻めで農民に銭を配り、敵将に敬意を払った立儀さ。

そして清洲会議で同僚を事前に味方に付けた政治力。

 

 

足軽の子が数多の武将を退け、天下の頂に上り詰めた最大の武器は、刀ではありませんでした。

 

 

秀吉は人間の欲と面子を誰よりも深く見抜き、敵すらも自らの盤面に組み入み込みました。

 

 

 

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