武田信玄があの時死ななかったら、天下を取っていただろうか?と記者は自問自答した。
嫌がる希庵和尚を無理やり自分の菩提寺の僧侶にしようと思ったことが運の尽き、希庵は頑として断ったため信玄は殺せと命じたため。
希庵玄密(生年不詳で元亀3年(1572年)12月30日)戦国時代末の臨済宗妙心寺派の高層です。
京都妙心寺の管理職を5度勤めて、快川国師※1とともに臨済宗二大徳と並び称された人物です。
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希庵玄密は京都の出身で、建仁寺の月谷禅師に従って出家し、各地を巡って修行した。
愚渓寺(岐阜県可児郡御嵩町)の明叔慶浚禅師の高徳に心うたれて参禅し、ついにその法を嗣義、明叔禅師の命に従って京都妙心寺の塔頭のひとつである大心院に入った。
ここから希庵玄密は遠山氏とかかわってくる、もちろん女城主も。
天文12年・13年(1543年・1544年)頃、美濃国の大圓寺の従侍であった明叔慶浚※5の後任として遠山荘の地頭の遠山景前に招かれて大圓寺に入った。
▲遠山氏の家紋 ▲岩村城本丸に入る長局埋門
当時、希庵和尚は臨済宗(現在:恵那三十三観音霊場では→第十番の天徳山 東光院・第十三番の飯高山 萬勝寺(通称 飯高さん)・第十八番の瀧坂山 観音寺・第十九番の九昌山 安住寺・第二十一番の瑞鳳山 徳祥寺・第二十三番の龍遊山 常九寺・第二十五番の白峰山 威代寺・第二十九番の雲嶽山 長楽寺・第三十番の聳林山 高徳寺)あります。
希庵に手厚い保護を与えていた武田信玄とも懇意であり、武田信玄と遠山景前との仲介役の立場にあった。
弘治2年(1556年)7月に遠山景前が死去し、遠山景任※8が跡を継ぐと織田氏から妻を迎え(おつやの方)織田家との関係が深まり初めて行った。
希庵は飛騨国の禅昌寺※6へ移り、その後、永禄3年(1560年)勅を奉じて大本山妙心寺に入り管理職を5度も勤め、名声は高まった。
希庵は雪江※7の定めた一住三年の制を一住一年に改めて同門出世の道を開いた。
大圓寺は永保寺(多治見市)、愚渓寺(岐阜県可児市御嵩町)とともに東濃三名剎と呼ばれ、美濃の国岩村城の遠山氏一族の菩提寺です。
▲愚渓寺(東濃三名刹の一つ) ▲永保寺(東濃三名刹の一つ)
禅昌寺は天下の十剎古禅寺として知られている。
永禄7年(1564年)武田信玄が武田家の菩提寺恵林寺に、礼を尽くして希庵を迎え、信玄の生母大井夫人の十三回忌法要を営んだ。
山梨県南部町の円蔵院には伝わる穴山信友※11の肖像(穴山信友は永禄3年・1560年に死去)には希庵玄密の賛分※9が寄せられている。
▲穴山信友の肖像画
賛文は永禄10年(1567年)のもので、永禄9年(1566年)の信友七回忌に際して信友の子穴山信君により発注されたという。
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希庵玄密は恵林寺から再び妙心寺に戻り、さらに大圓寺へ再度迎えられた。
元亀3年(1572年)秋山虎繁が率いる甲斐と信州の武田勢が、遠山氏の本拠地である岩村城を攻撃し、岩村城※12の戦いが行われた。
その結果、敗れた遠山氏は武田に臣従(しんじゅう)することになった。
信玄は大圓寺に居る希庵に対し、武田の菩提寺恵林寺へ戻るように何度も使者を送り要請したが、希庵は頑として拒絶したので、ついに怒った信玄は、秋山虎繁に命じて希庵の殺害と大圓寺の焼討ちを命じた。
岩村城開城から約2週間後の11月26日、希庵と大圓寺に対して武田勢が攻撃するとの噂を聞いて身の危険を感じた希庵は、伴の者と寺から逃亡した。
これを知った秋山虎繁は刺客3人を送り、彼ら3人は岩村の西飯羽間村で希庵一行に追い付いて、飯羽間川にかかる橋の上で全員を殺害した(のちに希庵橋と名づけて今も残っています)。
▲この橋で希庵と共の者が殺された。(希庵橋)
▲飯羽間村の村民が葬ったとされる「希庵塚」
希庵は享年70歳前後であった。
殺害した3名は、半月もたたないうちに気が狂ったり、狂った馬から落ちて
命を落とした、それに留まらず、その5ヶ月後に信玄は死亡して
る。
希庵が元亀3年11月に殺されたことは、甲陽軍艦末書九品之九に『関山宗の名和尚希庵と申すを、甲州へ御呼び候へども御越なきとて、信玄公秋山伯耆守に被仰付(おおせつけられ)御ころし候。
元亀三壬申年十一月廿十六日に如此※13。
伯耆守申付候出抜は伊奈の松沢源五郎、小田切与介、林勘介是三人なり。
何れも十五日の内に狂気さし、あるいは癲狂※14(てんきょう)をかき落馬して死する也。
信玄公も其次の年、天正元年四月十二日に御他界也。
禅宗の名知識などに悪して御あたり有るべからず候、其のため有り様に書付申候也云々』とある。
殺害された希庵らは、飯羽間村の村人たちによって葬られ希庵塚と呼ばれ現存している。
大圓寺は東濃三大名刹(めいさつ)の一つと言われ、約15ヘクタール(いまでいうと一反が300坪×10倍が一町=3000坪それの15倍で450,000坪です)広大な敷地と常時100名を越す修行僧が居た大圓寺の建物群は、武田軍に焼かれて、仏像や庭園などの貴重な文化財、遠山氏累代の墓や過去帳をはじめとする書物や絵画もろとも全て焼失し、歴史の幕を下ろした。
今は恵那市岩村町富田に大圓寺という石碑があるだけ、これだけの寺があった所を何ら保存してほしい。
希庵には三法嗣があり、それぞれ発展したので希庵の法脈はいまも灯っている。
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※1:快川国師とは、「心頭減却すれば、火も自ら涼し」の言葉で知られる、快川国師(快川紹喜:かいせんじょうき)文亀2年(1502年)〜天正10年(1582年)は戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗妙心寺の名僧)で、出身は美濃国、今でいうと岐阜県です。
若い頃から俊才の誉れ高く、岐阜城(稲葉城)をいただく金華山を見上げる祟福字で修行を重ね、師である仁岫宗寿(じんしゅうそうじゅ)の法を嗣※2いで、南泉寺住職に、続いて京都花園の妙心寺に入寺。
武田信玄の招きにより恵林寺に入り、その後一度は美濃に帰って崇福寺の住職を務めるももの永禄7年(1564年)には、信玄の度々にわたる強い懇願に答える形で、再び恵林寺の住職に就任、この時、63歳でした。
快川国師の、この恵林寺再生にあたって信玄は寺領を加増して迎え、恵林寺を自らの廊所※3(びょうしょ)と定めました。
以後、都を目指しての征西※4(せいせい)の途中における信玄の早すぎる死(天正元年・1571年)に至るまで、快川国師と信玄とは深い信頼と友情に結ばれた親密な関係にありました。
信玄の死後、国師は引き続き嫡子武田勝頼の師となります。
信玄の遺言通り3年間の秘喪の後、天正4年(1576年)に恵林寺で盛大に営まれた安骨葬儀において、国師は大導師を勤めています(天正玄公仏事法語より)。
天正10年(1582年)武運につたなく、最後の当主勝頼と共に甲斐武田家が壮絶な滅亡を遂げたのち、山梨に侵入してきた織田信長の軍勢は恵林寺を取り囲み、国師以下、兵火を逃れて恵林寺に身を寄せていた老若上下、僧俗を問わず100名近くが、一説によれば120名ほどが山門の桜閣上に押し込められ、放たれた火によって焼き殺された。
安禅不必須山水(安禅は必ずしも 山水をもちいず)
減却心頭火自涼(心頭を減客すれば 火も自ずから漁師)
という言葉は、炎に包まれて落命する、この最後の瞬間に、国師が唱えたものだと言われています。
かつて、国師がまだ岐阜の崇福寺の住職をしておられたころ、岐阜の大守であった斎藤義龍と全面対決しなければならない事態が持ち上がりました。
「伝燈寺問題(別伝騒動:永禄3年・1560年)とよばれる事件です。
この時、国師は美濃の大守である斎藤義龍を相手に一歩も退くことなく「義龍は一国の主、衲僧(のうそう)は三界の師なり。
三界の広きを以て、あの一国の狭きに換えんや」といいたと伝えられれいます。
美濃の大守といえども、所詮はただ一国を治める者に過ぎません。
それに対して、僧侶というのは世界全体の、宇宙全体に連なる真の道を伝えるべき師匠なのだ。
ちっぽけな領土などと引き換えることなどできようか‥‥そんな気概と共に、国師の人となりの剛札さが伝わってくるエピソードです。
国師は、その声望が京都にまで轟き、信長による侵攻の少し前、天正10年1月に、正親町天皇(おおぎまちてんのう)から「大通智勝国師」という国師号を賜っています。
そんな国師の身は、最期を共にした大勢の人々の肉体と共に、儚(はかな)く炎の中に消え去りました。
こんにち、恵林寺では、かつて壮厳な山門の楼閣が聳えていたであろう、その場所に建つ現在の山門脇に、ささやかな供養塔がひっそりと佇んでいます。
あまり人の注目を集めることもない供養塔だけが、快川国師を偲ぶ唯一の遺構となっているのです。
この供養塔に刻まれる「天正亡諸大和尚諸位禅師諸喝食各々霊位」という刻字が、かつての恵林寺の悲劇と、従容として過酷な運命を引き受けた国師と弟子たち、大勢の僧侶たちの無言の願いを今に伝えているのです。
※2:嗣(つぐ・し)とは、相続する。つぐ。あとつぎ
※3;廟所とは、先祖や貴人の霊の祀ってあるところ。
※4:征西とは、西方に行くこと。西方の敵を征伐すること。
※5:明叔慶浚(みんしゅくけいしゅん)とは、生年不詳天文21年8月28日(1552年9月16日)は戦国時代末の 臨済宗妙心寺派の高僧。飛騨国の豪族三木直頼の兄です。諡(おくりな)は圓應大通禅師。希庵和尚の師と されています。
※6:禅昌寺とは、岐阜県下呂市荻原町中呂1089、宗派は臨済宗妙心寺派、本尊:釈迦如来・観世音菩薩・薬師如 来、創建年:1528年または1532年、開山:明叔慶浚、開基:三木直頼
※7:雪江(せっこう)とは:江戸時代の生没年不詳で大阪の浮世師。
※8:遠山景任(とおやまけいとう)とは、戦国時代の武将・大名。岩村遠山氏当主。美濃国恵那郡岩村城主、父 は遠山景前、妻はおつやの方(織田信長の叔母)
※9:賛文とは、漢文の文体の一。人や物を褒めたたえる際の文体多く四字一句とし韻※10(いん)を踏む。
※10:韻とは、論文で、同一もしくは類似の響きもつ言葉を、一定の間隔あるいは一定の位置に並べること。
※11:穴山信友とは:戦国時代の武将、甲斐の武田氏の家臣で御一門衆。
※12:岩村城の戦いとは、元亀3年(1572年)〜天正3年(1575年)に美濃国恵那郡で起った武田氏と織田氏 が岩村城をめぐる戦いのこと。
※13:意味は→かくのごとし。
※14:天京都は、精神の平衛を失う。癲癇(てんかん)。漢方で、精神疾患の意。