美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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美濃国岩村町の歴史ーなぜ?約830年も前に城が築かれたのか?

投稿日:2017年11月9日 更新日:

源頼朝重臣・加藤景廉遠山荘地頭になり、嫡男・加藤景朝築城したのが始まり。

 

                                 ▲記者である隆太郎が案内をします。

 

まず岩村へお越しの皆様に一言、平成16年10月25日に恵那市と岩村町が合併してしまいました。

 

 

合併する前は、岐阜県恵那郡岩村町でした。
人口が減ったおかげか? なんだか知らないけど合併してしまった。

 

 

合併はするんじゃなかっと思う。

 

 

なぜ、こんなこと言うかというと、もっと町長たる人物は歴史を重視して欲しかった。

 

 

恵那郡というところは、加藤景廉が頼朝から地頭を任された広大な地域なのに、結果的に町長はあっさりと手放してしまった。

 

 

 

美濃国巌邑の山上邑に加藤景廉こと加藤次現れる

ときは平治の乱(1150年)※1保元の乱※2の頃(1156年)東濃地方野武士や盗人が奔放※3に振舞っていました。

 

 

山上邑 (現・岩村町飯羽間山上)の邑長は、この状態を憂に神廟※4に参籠しに行きました。

※1.平治の乱とは、1159年保元の乱の後に対立が深まった平氏と源氏の間で起こる争いです。

※2 .保元の乱とは、1156年(保元元年)7月に起こった,皇位継承問題などの朝廷内の内紛から起こったもので、後白河天皇と祟徳天皇の分裂によって源氏と平氏の武力が加わった政変です。

※3.奔放とは常識や規範にとらわれないで、自分の思うままに振る舞うこと。

※4. 神廟とは神を祭る御霊屋、伊勢神宮の異称。

 

 

邑長「今、私共の邑人は盗賊に苦しんでいます。
願わくは神様の哀れみによって、これらの盗賊を一掃してください」
と一心に神様にお願いしました。

 

「そうすれば邑人も安心することができましょう」と一心に祈りました。
(邑は「むら」と呼んでください)

 

 

すると、その夜邑長(むらおさ)は不思議なことに夢の中に神様が現れ「汝の願いを叶えて強い武士に盗賊をことごとく征伐することを命じよう」と告げました。
次の日、邑長はある橋の上で、腰に長い刀を差した一人の武士に出会いました。


                                   ▲加藤景廉(腰掛岩に腰掛けている絵)

 

背も高く、その風貌は大変強そうであったので、夢で告げられた武士は、この人だと思い、袖を握って「恐れながら、あなた様はどなたでしょうか?」と尋ねると、「拙者は伊勢の生まれで加藤次」と申す。

 

 

我が家は代々武人で、「これより関東に赴き託する人を探そうと思っている」と答えました。
これを聞くと邑長は神のお告げは嘘ではなかったと喜びました。

 

 

昨夜の話を,邑長は思い切って武人に話し、山上邑に案内し、邑人と一緒になって盗賊を征伐して欲しいと頼み、じゃぁ一緒に退治しようといって貰って、邑人は大変喜び、みんなで退治しました。

 


 

邑人加藤次東濃の主になってもらうことにしました。
加藤次は巌上に座った時、東を望み巌邑山(いわむらやま)を本拠と定め、岩村城を築きこうと思ったのです

 

その時に座ったとされる巨大な巌(いわ)が、いまでも山上邑長(むらおさ)の家の裏山にある。

下記が、その写真です。

 

 

 

その後、源 頼朝伊豆にて旗揚げの時、加藤次頼朝下臣として従い、平家の山木館※5の襲撃で戦功を挙げました。

 

                ▲『山本館の月』(月岡芳年「月百姿」)兜を囮にして山木義兼に斬りかかる加藤景廉

 

月岡芳年とは、幕末から明治中期にかけて活動した浮世絵師。

 

 

その恩賞として、加藤次の所望する東濃地方を彼に託し、地頭に任じました。

 

 

※5.山木館とは,1160年(平治2年)「平治の乱」の戦に敗北したため伊豆国に流され、頼朝がが20年後の、1180年(治承4年)に伊豆国で源 頼朝が挙兵した年です。

 

頼朝が最初に標的に選んだのは伊豆国の目代山木兼隆でした。
山木兼隆は、父和泉守信兼の訴えによって伊豆国の山木郷に配流された流人でしたが、伊豆の目代(目代:もくだいとは、日本の平安時代中期から鎌倉期に、遙任国司が現地に私的な代官派遣した家人などの代理人のことで,(眼代)ともいう。

 

転じて本来なら役職上、現地に下向して執務しなければならない人物の代理として派遣された代官などの役人の事を指す)になって郡郷を支配してました。

 

当時、伊豆国の知行国主は「平家にあらずんば人にあらず」と言い放った平 時忠です。
時忠は一族の時兼を国主としますが、時兼は赴任せず、山木兼隆を目代とし、堤権守信遠がその後見をしていました。

 

頼朝が挙兵した8月17日は、尊崇(意味:祖先を尊崇する)していた三嶋大社の大祭の日で、頼朝は祭りの雑踏を利用して山木館を襲撃しようとしたのだと伝えられています。

 

山木館は要害の地にあって、攻めるのに困難を極めると推測されていました。
そこで頼朝は、藤原邦通を密偵として山木館に送り込んで、館図や地図を作らせていました。
その出来映えは、まるで現地にいるかのようなものだったと言われています。
一方、平氏も頼朝討伐のために動いていました。

 

8月2日には、平氏の大庭景親をはじめとする東国武士が京都から戻って来ています。
しったがって、頼朝の行動も火急を要していました。
山木館襲撃の前日(8月16日)は雨でした。

 

源 頼朝が頼みとしていた佐々木四兄弟は、この日到着するはずでしたが、洪水のため遅れ、到着したのは合戦当日(8月17日)の午後になってからでした。

そのため、朝方に山木館を襲撃する予定が変更され、その晩に頼朝は加藤景廉と佐々木盛綱を傍に残し、山木館を攻めさせます。

 

まず、佐々木定綱、軽高、高綱の三人が、山木兼隆の後見役堤権守信遠を討ちます。
この時、軽高の放った鏑矢が、平氏を征伐するための最初の矢となりました。
その後、佐々木兄弟は、山木兼隆襲撃の軍に加わります。

 

頼朝「戦いが始まったら火をつけるように」と命じていましたが、その火がなかなか見えないので、留守の加藤景廉佐々木盛綱、堀親家らを山木館に向かわせました。

 

景廉には、長刀を与え「兼隆の首を討って持参すべし」と命じています
そして、盛綱景廉山木館に入り、見事に」山木兼隆を討ち取りました

 

 

               ▲源 頼朝から加藤景廉(長刀を受け取る)

 

邑人たちは、かって加藤次が座った巌を祭り、「加藤次座石(腰掛岩)というようになりました。

 

 

加藤次は巌上に座った時、東を望み巌邑山(いわむらやま)を本拠と定め、岩村城を築きました。

 

 

加藤次とは加藤景廉のことである。

 

 

 

加藤景廉と遠山景朝を祀った岩村町秋祭りについて

 岩村の秋祭りは、毎年10月の第1土曜日と日曜日に行われる。
昨年(平成29年)は10月7日(土)・8日(日)に開催されました。

 

 

先ず, 秋祭りについて。(岩村町では加藤景廉と景朝を神として祀っている)
そのため八幡神社に祀ってある加藤景廉(源頼朝の重臣)のもとに子である遠山景朝が年に一度の親子対面のために行う行事です。

 

 

武並神社から景廉の子景朝の御神体を神輿に乗せ、時代衣装を着た子供から大人まで総勢約300人余の行列が西町・本町・上町と城下町を通って八幡神社まで延々と続きます八幡神社で一夜を過ごし何を語り合うんだろうか?

※上記の八幡神社をクリックしていただくと、詳しく書いてあります。

 

           ▲八幡神社で親子対面しての帰還行列、武並神社に向かう。

 

五穀豊穣・家内安全・岩村町の発展と平和を祈っているんだろうか?
これが岩村城下の秋祭りです。
あくる日は八幡神社から武並神社に向かって帰路します。

 

 

行列の役割・内容などは嘉永5年の「武並宮御祭礼規定」にある記してある基本的に変わってはいません。
八幡神社は、明治5年10月(1872年)に現在の場所(上町の上)へ遷宮しました。

 


それまでは岩村城内にありました。

そのため民衆は場内に入ることが許されず、行列は藩主邸(現歴史資料館付近)まで行き、武士団に神輿を渡し、その武士団が場内にある八幡神社へ御輿を担いで奉納するために城内を登り八幡神社へ神輿を奉納しました。

 

 

この様子を殿様は藩主邸からご覧になり、行列を組んで来た人々に御神酒を振る舞われたので、人々は適当な場所へゴザを敷、持参したツマミで祝宴をし、能や狂言等を演じたりしたという。

 

 

※行列に御神馬を使用してる飾馬具は、天保の頃のものと言われています。
歴史ある行列です。
見所は衣装と神輿と御神馬
(残念ながら今はハリボテの馬です)

 

 

武並神社では弓矢の奉納と餅投げが行われます。
田舎の一大イベントの一つです。
若者は男女共着飾り大人は酒が飲めると皆楽しみに期待した祭りの1ページです。

 

 

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