細川ガラシャは(結婚前は明智珠または玉:たままたはたまこと言ってました)で
父親が明智光秀だということは、ひろく知られています。
▲細川忠興と細川ガラシャの銅像
ガラシャという名に呼ばれるようになったのは明治期にキリスト教徒などが彼女の洗礼名をとって「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でもこのように呼ばれることが多いと思います。
細川ガラシャは父・明智光秀と煕子(ひろこ)の間に出来た娘
永禄6年(1563年)に越前で誕生した。
細川珠は、慶長5年7月17日(1600年8月25日)関ヶ原の戦いのため石田三成に人質にされるのを夫・細川忠興に迷惑がかかると思い人質を拒み自ら屋敷に火を放ち自害した。
明智珠は明智光秀の妻で妻木城※1主の妻木広忠の娘(妻木煕子:つまぎひろこ)の間に出来た娘です。
▲妻木城跡と散策図、ここで光秀と煕子はデートしていた。
※1:妻木城とは、岐阜県土岐市南部の標高409mの山頂に築かれた山城です。
妻木城は明智氏の所領であったが、のちには明智氏一族とされる妻木氏の居城となって、次第に整備されていった。
妻木城主は代々陶器の生産を奨励し、織部焼、志野焼などに代表される美濃焼の基礎を作った領主として知られています。
そのガラシャと細川忠興の間に出来た子6人は
▲細川ガラシャのイメージ絵
1579年に長女・於長誕生:1596年受洗(おちょう:前野景定の正室)
1580年に長男・忠隆誕生
1583年に次男・興秋誕生、
1587年に三男・忠利誕生:1587年受洗、
1588年に次女・多羅誕生:1595年受洗(たら:稲葉一通室)
1598年に三女・萬誕生
長男・細川忠隆は前田利家の娘・千世を正室に迎えのちに離縁する。のちに継室※2 喜久を迎える。
※2 継室(けいしつ)とは、最初の正室との死別や、離婚を受けての当主の正式な再婚により迎えられた後妻を指す。
光秀にとっては曾孫(ひまご)ですが、ガラシャの孫で細川忠隆の子で後妻に入った喜久との間に生まれた細川忠恒(ただつね)、細川忠春(ただはる)がいます。
2人は熊本城主・細川光尚(みつなお)光尚をもガラシャの孫で、熊本藩主の系譜、細川光尚の招きで熊本藩の一門家臣になります。
ガラシャにとっては孫の細川忠春の子細川忠季(ただすえ・別名忠重)は、内膳家といわれ、代々熊本藩の一門家臣首座に列したとされています。
長岡姓を名乗っていたため、長岡内膳家(細川内膳家)といわれ6,000石を得て、明治時代に細川家に復し、明智光秀の血脈をガラシャを介して現代に伝えています。
内膳家の家紋は、細川家の細川九曜紋の他に、裏紋として明智家の血統を意味してる土岐桔梗紋を使用しているそうです。
▲細川九曜紋と土岐桔梗紋
光秀の子はガラシャの子長岡忠春(光秀の曽孫)の子→忠季(別名・忠重)→季規→忠英(ただふさ:藩校時習館※3 の初代総長)→忠昌→忠虎→忠寿→忠顕(贈従四位)→忠穀(男爵)→忠雄(男爵)→忠督(男爵)→忠幸
※3 藩校時習館とは、熊本藩主・細川重賢(しげかた:光秀・ガラシャの子孫)が設立した藩校。
政治評論家で元衆議院議員の細川隆元(たかちか)や甥の細川隆一郎(政治記者、評論家)は細川忠隆の子孫(すなわち光秀やガラシャの子孫)
細川隆一郎の娘さんの細川珠生氏は政治ジャーナリストで、キリスト教の信者で洗礼名はガラシャとのことです。
ガラシャの長男細川忠隆と忠隆の先妻千世※4の娘・徳(ガラシャの孫)は、西園寺実晴(さねはる:左大臣)の正室になり子に西園寺公満、西園寺実尚に恵まれています。
※4:千世とは、加賀百万石前田利家の娘
西園寺実尚には実子がなく叔父が相続したため、西園寺での光秀の子孫は途切れました。
西園寺公満(きんみつ)の娘は、久我道名(こがみちな)の正室になって、広幡豊忠を産む、豊忠の養父・広幡忠幸は旧皇族であり、従一位・内大臣の官位を持ち、あとを継いだ豊忠も従一位・内大臣、この広幡豊忠から、孝明天皇へと繋がり今上天皇へ辿り着きます。
今上天皇は光秀、ガラシャの子孫で、また前田家の娘・千世が産んだので
前田家と同じ子孫となります。
細川ガラシャの子供 6人の内の三男忠利
肥後熊本城主になったガラシャの三男細川忠利は江戸時代前期の大名で、豊前小倉藩の第2代藩主だったが、転封により肥後熊本藩の初代藩主となります。
2代細川光尚、3代細川綱利、4代細川宣紀、5代細川宗孝、6代細川重賢、7
代藩主細川治年(はるとし)の代にて実子がなく細川齊茲(なりしげ)を
養子と迎えたため細川本家での光秀の血脈は途絶えてしまいました。
しかし、熊本城主4代の城主細川宣紀(のぶのり)の娘・八代は讃岐国(さ
ぬきの国)高松藩の第5代藩主・松平頼恭(よりたか)の正室となり子孫
は明治まで続き光秀、ガラシャの血脈は続き細川家は続きます。
肥後熊本城の第18代当主の殿様・細川護煕
いわずとも日本国第79代内閣総理大臣細川護煕氏は、系図上は肥後熊本藩主の子孫でありますが、8代から養子を藩主にしたため光秀、ガラシャの血脈は途絶えています。
定かではないですが細川護煕の祖母・細川博子氏が光秀の血筋ではないかという説もあります。
次女多羅の子
豊後国臼杵藩第3代藩主・稲葉一通(かずみち)の正室になり、第4代藩
主・稲葉信道を産みます。
4代城主稲葉信道の正室には、織田信良の次女・光浄院を迎えます。
織田信良とは、織田信長の次男・織田信雄の四男ですってことは信長の曽孫の娘ということになります。
稲葉信通は、正室に先立たれ継室を迎えますが、継室も織田信良の三女・天量院です。
天量院も信長の曽孫に当たります。
まとめ
光秀が信長に謀反を起こし自刃に追い込んだ張本人。
ガラシャの子孫が信長の子孫と結婚したりしてるとはビックリ。
光秀の子供於寉丸(おづるまる)の子孫で日本歴史学会会員・土岐会会員・情報システム学会員の明智憲三郎氏いる。