いわむら
昔ばなし余話を基に記事を書いています。
伝説と民話より
姫塚
上飯羽間に姫塚と呼ばれる塚があります。
もともとは五輪塔(上から空・風・火・水・地をあらわす石塔)であったと思われますが、いまは塔身(水の部分)のみを残し、左右に立派な供養塔が建ています。
姫塚の由来は二説あります。
一説には→天正二年(1574年)武田信玄軍の攻撃により飯羽間城は落城しました。
その城主に幼い姫がいましたが、里人たちはこの娘(姫)を憐れんで武田軍から匿いましたが、間もなく姫は父の死悲しみ抜いて死んだので、ここで葬ったそうです。
もう一説には→木曽義仲に菊姫という妹がいましたが、義仲の死後遠山荘の一寒村に隠れて住みましたが。
菊姫はは美しく、妖艶で有名な武将の妹ということで里人は大切にしました。
菊姫が亡くなると塚を築き丁重に弔ったと言います。
どちらにせよ、美しい姫を供養する塚です。
▲飯羽間城の頂上
飯羽間城(別名飯狭城)築城年代は未定ですが、鎌倉時代に岩村遠山氏によって築かれたと云われている。
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「遠山七家」(岩村・明照・明知・飯羽間・串原・苗木・安木)の一つ、戦国時代の城主遠山友勝は織田信長の命によって苗木城へと移り、子の遠山友忠が城主となった。
その後、友忠も後阿寺城へ移り、子の遠山友信が城主となった。
天正3年(1575)武田勝頼の明知城攻めで遠山友信が、武田方へ寝返り明知城は落城した。
これは信長公記が出典であるが、武田方の甲陽軍艦では武田軍が飯羽間城を攻め落とし、土蔵に隠れていた遠山友信を生け捕りにして連れ帰ったと記しってある。
▲正面に見えるのが飯羽間城跡
この近くに創作五平餅「かんのん屋」があります。
一休みにして腹ごしらえをするには、ちょうどいいかもしれません。
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⬛本洞のうわばみ
(※うわばみとは→大きな蛇のこと漢字では蟒蛇と書くこともある特にボア化のヘビを指す伝説上の大蛇(おろち)を指すこともある)
(※大きな蛇をさす日本語としては、古代の「をろち(おろち)」に代わって15世紀ころから使われるようになった) 富田村の富田川の上流に本洞(別名お太鼓谷)という谷があります。
富田川の上流に本洞(別名お太鼓谷)という谷があります。
昔ここに大きな堤があり、その岸に欅の大木が立っていて、その根元には大きな穴がありました。
この穴にうわばみ住み着いいていました。
ある時、「うわばみ」は山津波による堤の決壊を予知して岩村川の上流の谷に移り住みました(この谷を蛇抜と言います)。
この谷にも元の棲み家の本洞と同じように水溜りと欅の大木ががあり根元に穴もあったので、ここを第二の棲み家とした。
元の谷川の水が恋しくて何十年も不動の滝に通っていました。
あり日、不動の滝に来て帰ろうとしましたが突然の暴風雨ど第二の棲み家に帰るに帰れなくなり、さらに、寄る年波に勝てずに遂に不動の滝で死んだのです。
その後村人が「うわばみ」の白骨を見つけ、滝の左上の高所に庵を建てて骨を納め冥福を祈りました。
ある時、庵主の枕元に「うわばみ」が現れ「岩村城内の清水が飲みたい」。
城内にある井戸へ連れてってほしい。
もしこの望みを叶えてくれれば、「城に事ある時は必ず城兵をお守りしする」と言って消えたと言いました。
そして、事あった時、城内の井戸の水面にその蛇骨を映すと、不思議なことに今まで晴れていた空が一転、俄かにかき曇り、忽ちにして曇霧が湧き出て全山を覆い一寸先も見えなくなったと言います。
だからこの井戸を「霧ヶ井戸」と言い、今でも清水がこんこんと湧き出ています。 岩村城(別名霧ヶ城)とも言います。
※「霧ケ井戸」をクリックすると岩村城案内のページに行きます。
⬛霧ケ城
井戸全山が城廓であって険しい坂道を備えています。
登城口から藤坂、一の門跡、土岐門へは急な坂道の連続です。
この坂道の連続です。
この坂道が城を堅固なものとし、鎌倉幕府の東美濃の支配の拠点として遠山荘の地頭に加藤次景廉を配し、その子景朝によって山城が築かれました。
菰高の山ですが各所に井戸があり霧が立ち込めやすく、昔からの伝説によると、敵陣の攻撃を受けたとき、城内の秘蔵の蛇骨を霧ヶ井戸に沈めるとたちまち城山すべてを覆うほどの霧にが湧き出るので、敵の兵士は攻めあぐみ、その間に勝手を知ってる知ってる城兵が敵を討つ事ができるというのです。
この言い伝えから「霧ヶ城」と名付けられました。 戦国時代は守りに強い天下の名城として武田兵と織田氏の間で争奪の場となりました。
この時代に「女城主」いわゆる「おつやの方」の活躍があったと言われていますが、平成29年12月17日で放送が終わった、「女城主直虎」とは前後すると思いますが、こちら岩村の女城主は敵将と結婚したため、信長が怒って2人と家来3人を大将陣で処刑したと言われています。
NHKの放送(歴史秘話ヒストリア)では、信長が岐阜まで連れて行って処刑したと言ってました。 どちらが正しいのやら?
西尾清二さんの調べたところ、ちゃんと古文書が出てきてNHKの放送の通り岐阜長良川で処刑されました、 ならば岩村町に設置させている案内文は撤去されるべきである。
ええ加減な恵那市教育会と思われても仕方ない。
⬛打杭のうなぎ
八幡様というと富田には郷中八幡様と上野八幡様の二つの宮がありあます。
郷中八幡様の氏子は今でも「うなぎ」を食べません。
それも「打杭のうなぎ」だけですが‥‥。
それには村里にこんな言い伝えが残っています。
祭りの時、阿木から使者が白い馬に乗って郷中八幡様に向かってきました。
峠を超えて打杭川の畔まできた時、うなぎが馬の脚に巻きついて動きが取れなくなって八幡様までこれませんでした。
川の生き物は弁天様のお使いといい、そのうなぎを郷中八幡様の側の弁天様へ持って行き、逃してやったと言います。
それ以来「うなぎを食うな」「うなぎを食うと祟んが書いたりがある」「蟹にも祟りがある」と言う言い伝えが残りました。
恵那市方面から岩村に登ってくるときに阿木川ダムがありす。
⬛湯平温泉
阿木川ダムの底に沈んだ小沢の集落に温泉がありました。
正徳三年(1713年)可知善次郎茂勝という人が書いた「湯平温泉略記」には次のような事が書かれています。
遠山左衛門尉は代々岩村で城主でありましたが、ある殿様の夫人は幼少より病気がちで子供に恵まれませんでした。
このことを心配して城内の春日明神に「一人の男の子を授け給え」と日夜祈願されました。
すると、ある夜明神の霊が夢で、「汝に名湯を授けよう。城の西方に不思議な霊湯がある」。
ここで「湯治すれば病も治り健康になり、子供も恵まれるだろう」と告げました。
殿様が小沢の方へ温泉を探しに出かけたとき、谷底の間に鹿が二匹水に浸かっていました。
追っても逃げないので川まで降りてみると、霊湯の匂いがしました。
「これこそが我が妻に授かった名湯である。鹿は神の使いである」と合掌礼拝して帰り、すぐに夫人を連れてきて湯治をしました。
すると、夫人は顔色はよくなり、食欲もすすみ今までとは違って明るい性格となりました。
これは胃を温め、血液の循環をよくするからです。
翌年、めでたく男の子に恵まれ遠山氏が続くことになりましたので殿様は薬師様の石像を建立して祀りました。
しかし、人家から遠く、途中に広い淵もあり、樹木も繁っていますので「妖怪が出没する」「龍神がでる」と言われて湯治をする人はありませんでした。
ある時、阿木の可知秀成という人が妖怪を鎮めるために名僧を依頼しました。
その僧は淵に立って、法華経を読唱し、戒法を授けましたので妖怪の心配はなくなりました。
その後の川の氾濫によって遠山の殿様の建てた薬師の石仏も流され、湯治をすることは長い間中断していました。
が、阿木の長、可知太兵衛の倅で佐平治という人が里人の病を治そうとして、この湯平を開発しましした。
川の東岸を掘ると温泉が出て病もたちまちに治りました。
善伯という医者も持疾であったが湯治にきて数日で治ってしまった。
霊湯の効能を書き記し、病者の助けになるように父佐平次の言っていたことを永く子孫に伝えるものです。
効能:痔疾・くさけ・積・虫症・婦人無子症・脚気・労咳・うつ病
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