平家を倒しせっかく鎌倉幕府を築いたのに、当の本人が馬から落ちて亡くなってしまう。
これは予期せぬ出来事、2代目の頼家は伊豆国修善寺に幽閉され暗殺、3代目の実朝も、武士として初めての右大臣の昇任を祝うため鶴岡八幡宮へ出向き、その帰り甥の公暁によって暗殺された。
暗殺者は頼家の子・公暁、実朝には子供がいなかったので、これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。
ところが、頼朝の愛妾・大進局が男子を産んでいた。
その大進局の子・貞暁は、実朝を暗殺した公暁の師だった。
最悪の事態を考慮して、もっと頼朝の子を残しておけばよかっただろうにそうはいかなんだ〜まさか頼朝がこんなに早死にするとは?
そうすれば比企氏も北条氏も野心剥き出しには出来なかったはずで歴史も変わっていただろうに、頼朝が密かに愛妾・大進局に産ませた子供の行く末を見てみよう。
それには政子の理解が必要だった
頼朝の子として、この世に生まれたのは八重姫との子・千鶴丸(祖父によって殺される)、正妻・政子の子、次男・頼家(幽閉後暗殺)、正妻の子、三男・実朝(暗殺)、愛妾・大進局の子四男・貞暁(庶子)です。
貞暁の生誕
貞暁は、文治2年(1186年)2月26日に頼朝の子(四男・庶子)として誕生。
幼名・亀王丸と名付けられた。
この年は、正室・政子は次女・三幡を出生した年でもあります。
のちに、貞暁は鎌倉時代初期の真言宗の僧侶になる。
政子は高野山に出向いて貞暁を口説きに行っています。(後の方に記述してあります)
母・大進局の生涯
大進局は、平安時代末期の女性で鎌倉幕府の御家人・常陸入道念西の娘(常陸介藤原時長の娘)とされています。
常陸入道念西という武将は、諸説ありますが藤原光隆(中村光隆)の子で、源為義の娘が産んだ、伊達朝宗のことだと考えられていますが、詳しくは不明。
これが正しいと大進局は、伊達朝宗の娘ということになります。
この父・伊達朝宗は1189年の奥州合戦にて、佐藤基治を生捕りした功績があり、常陸国伊達郎を賜り、以後、伊達姓を称し、のちに伊達政宗を輩出して伊達宗家の初代当主になった次第です。
そんな娘が、鎌倉幕府の大倉御所に使える女房でしたが、秘かに源頼朝の寵愛を受けていました。
『吾妻鏡』によると
大進局は、正室・政子に気兼ねして、岩村城主・加藤景廉の一族である長門景遠(長門江七景遠)の別邸にて出産したとあります。
※上記の加藤景廉の記事を読んだ頂くと、どいう人物か分かります。興味ある方はクリックしてください。
この事が露見すると、政子は「はなはだ不快」であるとして、出産の儀式は全て省略され、乳母のなり手もなかなかいなかった。
そんな中長門景遠は、政子の勘気※1を蒙り、鎌倉・深沢の辺りに隠居してしまいました。
※1.勘気とは、主君・主人・父親などの怒りに触れ、咎めを受けること。
そして、追われるように、長門景遠の子・長門景国によって、大進局と亀王丸も深沢に移った模様です。
建久2年(1191年)1月23日、政子の怨みが激しいため、頼朝から上洛を促され、京に近い伊勢国三ヵ山の所領を与えられた。
翌3年(1192年)4月11日、頼朝から七歳のなる男子の乳母父を命じられた小野成綱、一品房昌寛、大和守・藤原重弘らは政子の嫉妬の激しさに恐れをなして、ことごとく辞退したため、長門景国に任じられ、翌月母子共々上洛するよう定められた。
5月19日亀王丸は仁和寺の隆暁法範(一条能保の養子※2)の弟子として上洛、供には、長門景国、江内能範、土屋宗光、大野藤八、由井家常が従った。
※2.一条能保とは、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけた公卿。藤原北家中御門流、藤原通重の長男。坊門姫(源義朝の娘で同母・頼朝の妹)。
子に一条信能がいるが、承久の乱の後鳥羽上皇の近臣の一人で京で捕らえられ、岩村の相原で岩村城主・遠山景朝に処刑された。
※上記の一条信能をクリックしていただくと、後鳥羽上皇の命令で出兵して北条泰時軍に捕らえられ、岩村城主・遠山景朝に連行され、岩村の相原で処刑された記事があります。興味ある方はクリックして読んでください。
由井の邸から出発の前日の晩、父・頼朝は密かに邸を訪ねて亀王丸に太刀を与えた、亀王丸は出家してのちに貞暁と名乗る。
その後、大進局は出家して尼僧となり、法印行寛(源行家の子)の世話で摂津国で老後を送っていたが、寛喜3年(1231年)2月、貞暁は病で46歳で亡くなったという知らせを聞く。
政子の虫のいい話4代将軍に
亀王丸は修行に励み、18歳になって、仁和寺7世・法親王から伝法灌頂を受け、仁和寺の勝寳院・華蔵院4世となりました。
承元2年(1208年)3月3代将軍・源実朝が天然痘に感染します。
伊達氏2代・伊達宗村は、密かに貞暁(23歳)を次期将軍に就けようと画作しました。
▲伊達宗村は、貞暁を第4代将軍に据えようとした。
還俗※3すれば、将軍になる資格がありました。
※3.還俗(げんぞく)とは、僧侶になった者が、戒律を堅持する僧侶であること捨て、在俗者・俗人に戻ることをいう。
しかし、3代将軍・実朝の病は治り、伊達宗村の謀も執権・北条義時に露見したため宗村は身を隠し、貞暁は、やむなく高野山に逃れ、五坊門主・行勝のもとに匿われると、法名を貞暁に改めています。
建保5年(1218年)2月、北条政子は弟・北条時房を従えて熊野参詣に貞暁を訪ねており、高野山の麓・天野で面会して3代将軍・実朝に手を焼いてた政子は、次期将軍に要請したとされます。
貞暁は、父・頼朝から授かった短刀で、自らの右眼を潰して、不具であるとし政子の要請を丁寧に辞退したといいます。
翌年、承久元年(1219年)、実朝を暗殺した公暁は、貞暁の弟子だった。
翌年、承久2年(1220年)、公暁に与したという嫌疑で、仁和寺に入っていた2代将軍・頼家の遺児・禅暁が、北条義時によって京都・東山で誅殺されています。
結果的に、鎌倉幕府4代将軍には、源頼朝の遠縁で摂関家・九条道家の子である九条頼家(藤原頼家)が就任してます。
寛喜3年(1231年)、高野山にて46歳で死去(自害したという説もある)。
これにより、頼朝の男系男子の子孫は断絶した(男系女子も3年後の竹御所死去により途絶え、頼朝の直系子孫は完全に断絶、同時に政子の血筋も途絶えた)。
まとめ
妾の存在は陽の目が見られないように見えます。
特に頼朝の場合は正妻・政子がヤキモチ焼だから、そのように映るけど家康然り多くのトップにいる侍は子孫を残すことが本能だと思います。
頼朝ももっと子供を残しておけばよかったのに源政権も何代も続けられたと思います。