どうして源頼朝が平家を倒す計画をたてたか?
平氏も源氏も同じ天皇が先祖です。
第50代天皇・桓武天皇には34人の子供がいて、あまり多いので東の方を治める仕事を任されるのが平家、これを桓武平家といいます。
次に、第56代・清和天皇にも子供が19人いたので武士の家系ができ、これが清和源氏です。
源氏というと清和源氏が有名ですが、◯◯源氏が21もあり、これを源氏二十一流といい、どの天皇から生まれた源氏かではなく、天皇を祖先としてるのは間違いない。
▲桓武天皇からの平家・源氏の系図
例えば嵯峨源氏・村上源氏などがあり、平氏の方も4つあります。
その後、源氏が多く誕生して武士家系と公家家系に分かれ。武士家系の方は平氏と一緒に軍備を担当して行った。
ところが朝廷内でいざこざがあり、源氏と平氏に分かれて対立したのが、「平治の乱」で源義朝が殺害され、頼朝は伊豆へ流された。
頼朝は東国の方で兵を挙げ、最初は負け次第に勢力を拡大鎌倉を拠点にしたことから、東の源氏、西の平家となった。
虎視眈々と仇を討ちを狙っていた頼朝は、治承4年(1180年)8月17日の夜、後白河天皇の第三皇子・以仁王の令旨を受け、伊豆目代・山本兼隆の屋敷を襲う計画をたてました。
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側近・加藤景籠の活躍一部始終
加藤景廉は“源頼朝”の挙兵以来の御家人として活躍し、頼朝の厚い信任を受けました。
源頼朝から遡ること4代前の河内源氏の棟梁、“源頼義” に祖父・藤原景道が仕えて以来の累代の家系でもあります。
この藤原景道が加賀介となり、加賀の藤原を「加藤」と略したことから加藤氏が始まったといわれています。
『吾妻鏡』の記述により山木館襲撃を詳しく説明。
その日は快晴。三島社の神事があり、安達盛長が奉幣の使者を務めまもなく帰参した。
未の刻(午後1時〜3時)に佐々木定綱・経高・盛綱・高綱の四兄弟が到着、定綱と経高は疲れた馬に乗り、盛綱と高綱は徒歩であった。
頼朝はその様子みて感涙し「汝らが遅れたために今朝の合戦をすることができなかった。この遺恨は大きい」と仰った。
洪水のためにやむなく遅れたことを佐々木定綱らが頼朝に謝罪した。
戌の刻(午後7時〜9時)安達盛長に使える童が釜殿において雑色の男を生捕りにした。
この男は最近北条館の下女を嫁としており、夜な夜な通っていた。
今夜は、武士たちが集まっており、それをみて気がついてしまうだろうと考え、男を捕らえさせたものだった。
頼朝急ぐ
頼朝は「明日を待ってはいけない。早く山木に向かい雌雄を決せよ。この戦いによって障害の吉凶を決めるだ」と仰った。
また、合戦の際には、まず、火を放つように命じた。
特にその煙をご覧になりたかったためという。
武士たちはすでに奮い立っていた。
時政が申し上げた。
「今日は三島社の神事があり、道は人であふれているでしょう。牛鍬大路※1を経由すると往来の人々に咎められるでしょうから、蛭嶋通りを行くのがよいでしょう」。
※1.牛鍬大路(うしくわおおじ)、『吾妻鏡』によれば治承4年8月、源頼朝が伊豆国の目代・山木兼隆を襲撃すべく通った道が牛鍬大路とされています。
頼朝は答えた「思う所はその通りだ。しかし、大事を始めるのに裏道を使うことはできない。それに蛭嶋通りでは騎馬で行くことができない。だから大通りを使いなさい」。
また、住吉昌長を軍勢に付き従わせた。
これは、船上で祈禱をさせるためである。
佐々木盛綱と加藤景廉は留守を守るように命じられ、頼朝の近くに残った。
その後、頼朝の軍勢は棘木(ばらき)を北に行き肥田原に到着し、北条時政は馬を止めて佐々木定綱に言った「山本兼隆の後見、堤信遠が山本の北におり、優れた勇士である」。
山木兼隆と同じく誅しておかなければ後々の煩いとなろう。佐々木兄弟は信頼を襲撃するように。案内をつけよう」。
定綱らは子の刻(午後11時〜午前1時)には、牛鍬大路を東に行き堤信遠邸宅の近くに集まった。
佐々木定綱・高綱は。案内についた北条時政の雑色。源藤太を連れて堤信遠邸宅の背後にまわった。
佐々木経高は前庭へと進み矢を放った。
これが平氏討伐の源氏の最初の一矢となった。
▲月明かりの夜(イメージ)
その時、月は明るく光り(深夜にもかかわらず)昼間と変わらない程であった。
堤信遠も太刀を取り、北東に向かって戦い、堤信遠、佐々木経高どちらの勇者も際立っていた。
敵方の放った矢が佐々木経高にあたったが、佐々木定綱・高綱が邸宅の背後から加わり堤信遠を討ち取った。
北条時政らの手勢は山木兼隆館前の、天満坂辺りまで進み矢を放った。
山木兼隆の郎党の多くは三島社の神事参詣に出かけて、黄瀬川宿に泊まり遊んでおり留守だった。
山木館に残っていたのは、わずかな手勢で抵抗してきたが時政らは戦いを挑んだ。
この間に定綱ら佐々木兄弟は堤信遠を討ち取った後、時政の軍勢に加わった。
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加藤景廉が山木兼隆の首を取る
頼朝は、軍勢を送り出した後、館の縁側に出て合戦のことを見守っていた。
また、火を放った煙を確認させるため、御厩(みうまや)の舎人・江太新平次を木に登らせたが、しばらく煙を見ることができなかったため、警護にあたっていた加藤景廉・佐々木盛綱・堀親家らを呼び「すぐに山木に赴き合戦に加わるように」と命じた。
手ずから※2長刀を取って加藤景廉に与え、山木兼隆の首を討って持ち帰るようよくよく命じた。
※2.手ずからとは、自分の手でのこと。
そこで3人は馬にも乗らず蛭嶋通りの堤を走った。
佐々木盛綱と加藤景廉は厳命通り、その館に討ち入り山木兼隆の首を取った。
兼隆の郎党たちも討ち死にした。
そして屋敷に火を放ち全て燃え落ちた頃には朝になっていた。
帰ってきた武士たちは頼朝の館の庭に集まり、頼朝は縁で山木兼隆主従の首をご覧になった。
功績により頼朝より岩村遠山荘を貰う
遠山荘は美濃国恵那郡の大部分で中心地は岩村、こんな伝説がある。
治承年間の頃、美濃国遠山荘では盗賊・野武士が出て里人が困っていた。
遠山荘の山上邑(むら)の邑長は、伊勢神宮を訪れ盗賊の難を免れるように祈った。
するとその夜、神が偉人命じて盗賊を誅する夢を見た邑長は、翌日、宇治橋上に一人の壮士を見たので名を尋ねたところ、壮士※3は自分は伊勢国の住人で加藤景廉と称し、これから関東へ赴き託する処を求めているといった。
※3.壮士(そうし)とは、勇壮な男子。血気盛んな男。壮年の男子。
邑長は喜び、神が偉人に命じて悉く盗賊を誅する夢を見たことを伝え、遠山荘へ招いて盗賊をを退治してもらった。
景廉はその後暫く遠山荘の山上邑の邑長の家に滞在していたが源頼朝が伊豆国で立ち上がったこと聞き馳せ参じて従った。
そして功を挙げて、領地を貰う際に遠山荘を請いて認められた。文治元年(1185年)に源頼朝が山木兼隆を討ち取った功績により拝領(美濃国諸旧記)。
「美濃国恵那郡遠山荘事 右為勲功之賞遠山加藤次景廉所充行也者 早令領知可被専所務之状如件 建久六卯年三月三日頼朝判」。
景廉は山上邑へ戻り巌の上に座り城の場所を定めた。
その巌を腰掛巌といい、その丘を祖父峯(ちちがね)という。
今も山上家の裏丘に現存している腰掛巌
恵那郡岩村町の山上家(前岩村町長宅)には景廉が使用したと伝わる大きな飯碗があるという。
また、裏の丘に腰掛巌があります。
▲山上家の裏にある腰掛け巌