遠山氏になってのは、初代・遠山景朝に始まった。
景朝の父・加藤景廉が岩村を統治する前に、この岩村の地に来て、現・岩村町山上の邑長の山上元岩村町長の先祖に頼まれて山賊・野武士を退治したという伝説があります。
恵那市岩村町山上の加藤景廉との伝説
治承年間の頃、美濃国遠山荘では、盗賊が野に充ちて里人が困っていた。
遠山荘の山上邑の邑長(むらおさ)は、伊勢神宮を訪れ盗賊の難を免れるよう祈った。
するとその夜、神が偉人に命じて悉く盗賊を誅する夢を見た。
翌日、宇治橋上に一人の壮士を見たので名を尋ねたところ、壮士は自分は伊勢国の住人で加藤景廉と称し、これから関東へ赴き託する処を求めていると言った。
邑長は喜び、神が偉人に命じて悉く盗賊を誅する夢を見たことを伝え、遠山荘へ招いて盗賊を退治してもらった。
景廉は、その後暫く遠山荘の山上邑の邑長の家に滞在していたが源頼朝伊豆国で立ち上がったことを聞き馳せ参じて従った。
そして功を挙げて、領地を貰う際に遠山荘を請いて認められた。
景廉は山上邑へ戻り岩の上に座り城の場所を定めた。
その岩を腰掛岩といい、その丘を祖父峯(ちちがね)という。
▲加藤景廉が座ったとされる巌
今も岩村町の山上家(元岩村町長宅)には景廉が使用したと伝わる大きな飯椀があるという。
▲山上家の裏山に祀ってある腰掛け巌
加藤家は累代の源氏で、これから東国へ出かけ頼朝公に参戦し武功を挙げて、当遠山荘の守護・地頭として治める。
※上記の加藤家累代の源氏をクリックして貰うと詳しい記事があります。興味のある方は読んでください。
景廉は頼朝の重臣のため鎌倉に住み、岩村の地は嫡男・加藤景朝に託し遠山姓に代えて、遠山景朝初代の始祖となった。
遠山景朝の子達が明知・苗木・飯羽間を築
諸本には、苗木城の創築年代は天文初年(1532年)、創築者遠山直景と書いてあるが、最初は、遠山景朝の長男・遠山景村が、仁治2年(1241年)に、遠山荘の木曽川以北の所領を統治するために、木曽川南岸の西山戸から北岸の那木に進出。
▲岩村十八城(今回は苗木城)
そのため三男の弟の遠山六郎景員が岩村遠山氏を継ぐことになった。
次男の遠山三郎兵衛景重が、宝治元年(1247年)に、明知城を築き明知遠山氏の始祖となる、末裔にあの有名な遠山の金さんがいる。
元弘年間1331年〜1334年、遠山一雲入道昌利、遠山景長親子が、高森山(現・中津川市苗木町)に砦を築いた。
また、元弘〜建武年間1134年〜1336年の頃、遠山景利が恵那郡福岡村植苗木に広恵寺城を築いた、広恵寺城を本拠地として遠山荘の木曽川以北と、蘇原荘を支配していた遠山昌利が天文元年(1532年)に美濃国恵那郡高森(現・中津川市苗木)に館を移した。
しかし、昌利の子・遠山景徳に世継ぎがいなかったため、本家の岩村遠山氏から遠山直廉を養子として迎えた。
遠山直廉は苗木城を築き活躍するが、飛騨の三木氏と大威徳寺の戦いを行った時に矢傷がもとで死亡した。
その後は、飯羽間遠山氏から遠山友勝を養子に迎えて織田信長・徳川家康側に付いて戦った。
※上記の飯羽間遠山氏をクリックすると関連記事があります。興味ある方はご覧になってください。
その孫の遠山左近は江戸幕府が成立すると初代藩主となり、子孫は明治維新後に子爵となる。
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遠山直廉か遠山昌利の誰が創築者か
現・中津川市は平成の合併で苗木城が手に入った。
元は恵那郡の領域であった福岡村の広恵寺城と苗木城。
中津川は、かつて東山道※1の難所神坂峠越えを擁した※2坂本駅(現・中津川市 / 合併前は恵那郡でした)が置かれ、近世以降は中山道木曽十一宿への出入り口として、また、東美濃から飛騨に通じる飛騨街道の分岐点として、これら交通の要所として栄えてきた。
※1.東山道(とうざんどう)とは、畿内から北東方へ山間の諸国を連絡した道。近世のほぼ中山道に相当。また、これらの諸国をいい、8世紀初めまでは近江・美濃・飛騨・信濃・上野(こうずけ)・武蔵・下野・陸奥の8カ国をいう。
※2.擁したとは、だきかかえる▲
この中津川の北西、木曽川右岸にそそり立つ高森山(431m)に、中世から近世にかけての遠山氏の居城苗木城があった。
▲苗木城の頂上から木曽川を撮ったものです。
この苗木城の築城については、諸記録によって一定しない。
創建には、二説あって『高森根元記』(中津川遠山家所蔵)は天文年間1532年〜1555年に遠山直廉が創建したとし、『遠山由来記』には、大永年間1521年〜1528年、一説に大永6年(1526年)遠山一雲入道昌利が、恵那郡福岡町植苗木(うえなえぎ)の城を苗木高森山に移築したとある。
この二説の依拠するところは、はっきりしないがこの地方は、文明5年(1473年)信濃国松尾城(現・長野市飯田市)の城主・小笠原家長の侵略を受け、以降その支配下にあった。
しかし大永・天文年間になると、小笠原家族が信濃・飛騨に備える交通の要所苗木高森に、戦国期初頭の動乱に備える必要から城を築き、これに拠ったものと思われる。
これによって大永・天文年間頃の創業と考えてさしつかえないと思われる。
創築者が誰かについては、遠山直廉と遠山一雲入道昌利の二説となるが、はっきりとした書き付けがない。
遠山一雲入道昌利については『明叔語録』(増田郡荻原町禅昌寺蔵)に、「天文八年(1539年)妻病死」の記録がある。
遠山直廉は、直接史科として永禄12年(1569年)広恵寺(恵那郡福岡町)に出した禁制が現存しており、二人とも実在した人物としての裏付けは十分である。
したがって築城者はこの二人に間違いないが確たる証拠がない。
しかし遠山家の系譜では、遠山一雲入道は別系になっている。
こうした事実から、苗木城はこの期に軍事上劣る福岡の広恵寺城から昌利によって苗木城に移築され、その後なんらかの事情によって、近世遠山氏の直系の祖である遠山直廉が入城し、実質的な草創者となったと推考することが自然かもしれない。
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戦国時に苗木遠山氏を挟んで信長・信玄との固い絆
遠山昌利の子・遠山景徳に世継ぎがないため、本家の岩村遠山氏から遠山直廉を養子として迎えた。
直廉は勘太郎・左近助ともいい、岩村城主・遠山景友の次男で遠山景前(岩村城主・左衛門尉)の弟であった。
『甲陽軍鑑』には、苗木勘太郎で知られていた。
直廉の室(正室)は、織田信長の妹、二人の間に一女をもうけたが、信長の請いにより信長の養女となった。
その養女は永禄8年(1565年)武田信玄の4男・武田勝頼に嫁ぎ、一男・信勝をもけてまもなく死亡した。
苗木勘太郎の娘を通じて武田・織田の和議は成立したが、この政略結婚も、悲しいことに天正10年(1582年)織田攻略にあい武田氏滅亡で幕を閉じた。
織田氏と深い結びつきを持った直廉は、永禄8年の桶狭間の戦いには、「七騎」の一人として活躍し、信長岐阜入城後はもっぱら木曽口の守備にあたった。
その後、元亀3年(1572年)飛騨国増田郡荻原城城主・三木治郎右衛門尉と同国威徳寺(増田郡下呂町)「で戦い、流れ矢に当たり帰陣後その傷がもとで病死した。
直廉には嫡子がいなかったので、信長の命によって一族の、飯羽間城(現・岩村町飯羽間)の城主・遠山友勝が苗木の家督を継ぎ、飯羽間城は嫡子・友忠に譲った。
のちに友忠は飯羽間城を長子・友信に渡し、自らは阿寺羅城(阿寺・阿照とも書く、中津川市手賀野)へ移った。
しかし友勝は早く病死したので、没後は三男・友政と共に苗木城に移った。
また、友忠の妻は信長の姪であったと言われている。
天正2年(1574年)2月、突如甲斐の武田勝頼軍が東濃に入り、各地の城・砦を相次いで落としていった。
信長の援軍到着またず、東濃は大打撃を受けた。
中世近世からこの地域に大きな勢力をもった、岩村遠山氏をはじめその一族の多くは戦死し、遠山氏で残る者はわずかに苗木遠山友忠と明智遠山利景の二氏となった。
大正3年信長の命を受けた嫡男・信忠の勢力下に入ったのです。
天正9年(1581年)には、武田方であった木曽義昌が、遠山友忠の仲介により織田信忠に通じた。
このため勝頼は義昌征伐を検討を計画、そこで義昌は信長に援助を求めた。
翌年信長は信忠を伊那口から、金森長近を飛騨口から、また苗木城主・遠山友忠_友政父子と木曽義昌を木曽口から信濃へ進発させた。
友忠・友政軍は途中長居峠で武田軍を破り、されに進んで諏訪において信忠の本隊と合流した。
同年3月武田氏滅亡によって遠山友忠父子は苗木へ帰った。天正10年(1582年)6月本能寺の変で信長急死。
当時、信濃海津城(源・長野市松代町)にあった、可児郡金山城城主・森長可が急遽帰国の途についた、遠山友忠や木曽義昌は暗殺計画をし、事前にバレて失敗する。
のちに森長可に攻められ妻籠城に逃れる。