岩村町の秋祭りは、五穀豊穣と町民の安泰を願い、江戸時代の大給松平宗家7代の第2代岩村藩主・松平乗寿が、岩村城の祖の頼朝の重臣・加藤景廉公と岩村城を築き、遠山荘の地頭で恵那地方を治めてた遠山景朝を対面させることを考案したんじゃないかと推測します。
▲武並神社の本殿
▲加藤景廉が祀られている八幡神社
いつ頃からこの対面行列を始めたかわからないが、松平乗寿というお殿は、信仰深いか寛永9年(1632年)岩村城の鎮護と領民の安泰繁栄を祈願して石室千体仏を建立したりしています。
詳しくは石室千体仏のブログを見ていただくと詳しい記事があります。
※上記の石室千体仏をクリックすると詳しい記事があります。
▲石室千体仏公開の風景
また、本町五丁目と西町一丁目の境の枡形地形にある、祥雲寺・庚申堂も築きました。
▲祥雲寺・庚申堂と高札場跡
華やかな行列が終わった夜に、路上で岩村城跡の上に昇った月の明かりの照明で獅子舞が本町5と西町1の枡形地で下記の演目を披露します。
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獅子舞の発症
獅子舞が郷土芸能として、岩村町に定着したのは明確ではないですが、文書資料として嘉永5年(1852年)※1の山上家文書『武並宮御祭礼規定』に秋祭りの神輿供奉行列之次第が書かれており、「第四 獅子頭 入若き者残らず揃い伴天股引 道筋 笛太鼓打ち囃子」とある。
※1.この時の殿様は、岩村藩主6代の松平乗喬、乗政流大給松平家7代、なぜかというと、この殿様は生まれたのが文政4年(1821年)〜安政2年(1855年没)だからです。
※山上家は古い家で現在も現存しています。ここにURLを載せますから詳しい議事を読んで頂けると分かると思います。
※上記の山上家をクリックしてもらうと、山上家の関連記事を読んでください。
岩村町秋祭り行事(県指定重要無形民俗文化財)で述べたが、岩村町下町の農産部を“入り”と呼び、“入り”の若い衆を“入り”と云う。
現在の岩村町内の一色・領家・大通寺・山上の4町内の人々であります。
“入若”によって打ち囃は伝承されたきたが、獅子舞もまた、“入り”地区の人々によって伝承されてきたが、獅子頭を奉持して行列に加わっていることから、獅子舞の源流は江戸時代からという説があります。
一方、獅子舞は三河獅子(愛知県三河地方)の流れを汲んでおります。
恵南の他・町村の獅子舞は岩村獅子の分流とわれいるが、起源は明確にできないです。
路上で行う獅子舞の演目
獅子舞の演題「阿部晴明記の内、葛の葉・姫子別れ」は、「葛の葉」と略称され、これを筆頭に「箱根霊験記」「妹背山」「関取千両幟り猪名川内の段」「鏡山のお初」等があります。
獅子舞を使わない「おかめ」「数え歌」等も獅子舞の一つとされている。
獅子舞の代表的芸術である「蔦の葉」を紹介する。
信太(しのだ)の森の白狐が安倍保名と契って陰陽師・安倍晴明が生まれたという伝説を集成、脚色したもので、原作は竹田出雲作『蘆屋道端大内鑑』という五段からなる義太夫の四段目である。
▲獅子の舞
▲ひょっとことおかめ
享保19年(1734年)初演、歌舞伎は寛延元年(1748年)です。
天文博士・加茂保憲の養女榊の前は、父の高弟・蘆屋道端と安倍保名のどちらかに譲るべき家伝の秘書を盗まれて自殺した。
彼女を恋しいと慕う安倍保名は発狂するが、榊の前と瓜二つの妹・蔦の葉会って正気に復した。
以前保名に助けられた白狐が恩返しに蔦の葉に変身し、同棲するうちに童子をもうけた。
やがて本当の蔦の葉の父の訪れに、化身が発覚するのを恐れて狐・蔦の葉が童子に別れを告げる四段目を獅子で舞うものです。
吾子に心を残す狐・蔦のはは、涙と共に障子へ「恋しくば尋ねきてみよ和泉なる篠田の森に恨み蔦の葉」の歌を獅子が口に加えた筆で書く。
舞い手は、この歌を右手、左手、そして圧巻は獅子頭が筆をくわえて書いたり足で書く至芸です。
▲獅子が口に咥えて字を書く
囃方は歌い手1人、太鼓1人、笛若干で構成されています。
ぜひ、機会を作ってみてください。