北条義時が元仁元年(1224年)6月13日に62歳の生涯を閉じた。『吾妻鏡』によると‥
【原文】前奥州病痾已及獲麟之間。以駿河守爲使。被申此由於若君御方。就恩許。今日寅尅。令落餝給。巳尅〔若辰分歟〕。遂以御卒去〔御年六十二〕。日者脚氣之上。霍乱計會云々。自昨朝。相續被唱弥陀寳号。迄終焉之期……
【意訳】義時の病気が重く、いよいよ臨終を迎えたため、北条重時(駿河守。義時の三男)を使者に派遣して嫡男の北条政村(義時の五男)と正室・伊賀の方(いがのかた)にそのことを伝えさせました。
寅刻(午前4:00ごろ)に臨終出家、巳刻(午前10:00ごろ)か辰刻(午前8:00ごろ)に亡くなりました。享年62歳。
かねて脚気の持病があったところへ、急性腸炎(暑気あたりとの説も)を併発したとのこと。前日の朝から息絶えるまでずっと念仏を唱え続けたとのこと。
▲北條寺 CC 表示-継承40
2代執権となった北条義時の、側室は長男・北条泰時を産んだ阿波の局(八重姫)と藤原北家ともつながりある伊佐朝政の娘である。
そして正室・姫の前(比企朝宗の娘、子に北条重時)との結婚、比企氏との関係悪化したため離婚、その後、鎌倉幕府の御家人・伊賀朝光の娘を継室・伊賀の方を迎え、子に第七代執権・北条正村・実泰・時尚がいる。
その継室・伊賀の方の夫・北条義時の死因に絡んでいるといわれています。
果たして、どういうふうに絡んでいるのか?いないのか?
伊賀の方の行動
姫の前の後釜として入ったのが、藤原秀郷に系譜が繋がるという、鎌倉幕府の御家人、関東の豪族・伊賀朝光の娘・伊賀の方でした。
伊賀朝光の妻は、13人の合議制の一人二階堂行政の娘、その娘が北条義時の継室となる。
伊賀の方は、婚姻から2年後の、元久2年(1205年)に北条正村を出産、続いて承元2年(1208年)に北条実泰を出産、他一男一女をもうけている。
夫婦仲はいいようだった。
ところが、それに異を唱えるような記録が残っている。
義時の死後
突然、義時が亡くなったのは、承久の乱を鎮圧したおよそ3年後の、元仁元年(1224年)6月13日旧暦、衝心性脚気で62歳の急死でした。
義時の墓は、現・伊豆の国市に鎮座する「北条寺」の境内に、3代執権・北条泰時が建立したといわれています。
ところが、義時の死に異を唱えるような記録が残っている。
死の一年前の義時
義時は、承久の乱の翌年に、陸奥守と右京権太夫を辞職し無官となっている。
貞応2年(1223年)、将軍御所であった大倉幕府が手狭であることから拡張することが議論された。
承久元年12月に発生した火災で、三寅(摂関家・藤原(九条)道家の三男、幼名が三寅、(のちに第4代鎌倉殿)の邸宅とされた大倉御所と政子の邸宅である。
▲三寅(藤原頼経)第4代鎌倉殿
▲北条政子
亡き実朝の私邸が共に焼失したため、三寅・政子共に大倉御所の東隣の義時邸にて生活し、義時は大倉御所の西の大路を挟んだ反対側にある在京中の息子・泰時に譲った
※ここに上記の三寅の記事があります。興味ある方は読んでください。
邸宅(三浦義村の南隣)に住んでいた。(貞応2年当時、大倉御所に建物が再建されていたか?)
義時はこの計画自体に賛同して、姉・政子を勝長寺院内に建てた御所に移しながら、最終的には陰陽師の判断を理由に先送りにした。
移転計画を利用して発言力を強めようとした三浦義村への牽制を意図していたと考えられている。
当初の計画では大倉御所の敷地を西方に拡張する予定であったが、その場合には通りの反対側にある三浦義村・北条泰時(義時居住)両邸にも影響を与える計画であったが同時に義村としては三寅との関係性を誇示することにもなり、義時には不都合な側面もあった。
また、政子の義時邸からの退去は引き続き義時邸を仮御所とする三寅のための空間拡張の敷地を確保すると共に、政子が三寅を擁することで得ていた義時に対する優位を解消することになった。
元仁元年(1224年)になると、義時は自分の健康長寿などを願って3月19日から100日間の泰山府君祭※1を開始した一方で、同じ日に甘縄山麓の南側で大火があり、千葉稙綱邸まで類焼している。
▲※1.泰山府君祭(たいざんふくんさい)とは、陰陽が行う祭りの一つで、泰山府君は中国古代からの神であるが、仏教の閻魔大王と習合し、人間の寿命と福禄を支配し、その侍者司令神が冥府の戸籍を管理すると信ぜられた。▲
また4月27日には、九条道家の要望を受けて、三寅の手習始の儀が行われて、義時は娘婿の一条実雅と共に中心的な役割を果たすなど、精力的な活動を続けていた。
義時突然の急死
『百錬抄』や『明恵上人伝記』では譲状を書く間もないまま頓死したとされている。
6月13日享年62歳で急死した、『吾妻鏡』では、脚気と暑気あたりのためで、かねてより体調不良に苦しんいたとされている。
自然死か毒殺かの2通りの意見があります。
義時の死を受けて、鶴岡八幡宮では神事を延期したが、これは将軍以外の死を原因としたものでは前例のないものだった。
また、京都の朝廷も天下触穢※2を発し、洛中は30日間の触穢となった。
▲※2.天下触穢(てんかしょくえ)とは、天下触穢期、関中は朝廷による諸行事と京都を中心とした神社の祭礼が停止あるいは延引となるとしてる。▲
これは源頼朝以来の出来事であった。
義時の没後まもなく伊賀氏の変と呼ばれる政変が起こり、継室・伊賀の方や一族の伊賀氏一条実雅が排除される事態が起きる。
義時の死は自然死ではなく、継室・伊賀の方が毒殺したという説があります。
なにを根拠にというと、藤原定家の日記『明月記』安貞元年(1227年)6月11条では、承久の乱の京方首謀者の一人で、一条実雅の実兄であった尊長※3が捕らえられ、尋問された祭のことを記述している。
※3.尊長とは、一条実雅の実兄で延暦寺の僧であったが、その智謀と武芸を認められ、後鳥羽上皇の側近となった。
院近臣に加えられた尊長は法勝寺及び蓮華王院の執行に任じられ、長渕荘、宇土荘を始めとする寺領の支配を任される。
上皇の鎌倉幕府打倒計画には首謀者の一人として参戦、兄弟の一条信能と共に芋洗方面の守備に就くが、敗戦が明らかになると乱軍の中から脱出し行方不明となる。
一条信能は捕らえられ岩村城主・遠山景朝の手によって、美濃国岩村の相原で処刑される。
※上記の一条信能をクリックして頂くと詳しい記事があります。
『明月記』によると、尊長は鎌倉幕府に捕縛された際に自殺し損なった「早く首を切れ。さもなければ義時の妻が夫・義時に飲ませた毒で早く自分を殺せ」と叫び、問い詰める武士たちに「今から死ぬ身であるのに、嘘などいわん」とも述べたといい、探題の時氏・時盛らを驚愕させたという(『明月記』安貞元年6月11日条)。
嘘か誠か真意の程は???
第3代執権は義時と八重姫の子・北条泰時に決まった。