「 未分類 」 一覧
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源氏累代の御家人・加藤景廉が初戦で山木兼隆を討ち武功を挙げる
2022/01/21 -未分類
我が故郷の岩村城の祖である、加藤景廉は源頼朝の挙兵以来の御家人として活躍、頼朝から遡(さかのぼる)ること5代前の河内源氏の棟梁・源朝義②に祖父・藤原景道が仕えて以来の累代の家来の家系でもあります …
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岩村町の浄光寺は徳川の世なって初代藩主と共にやって来た武士だった
岩村町は城下町なのでお寺さんが多くさんあります。 まず、松平家乗と共に岩村の地へやって来たのが、浄光寺と盛巌寺と本町五丁目にある浅見家の事です。 松平家乗 …
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2021/10/16 -未分類
清和天皇は、先代・文徳天皇の第4皇子として誕生、3人の兄達をすっ飛ばして皇太子になったとき、わずか8ケ月、いくらなんでも無茶すぎますが、当時、藤原氏の時代、母が一族の姫だっため、母方の祖父・藤原 …
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2021/10/08 -未分類
渋沢栄一は、明治に入って経済や商工業の面で我が日本を近代国家にすべく奔走した人物、「日本の資本主義の父」と言われる。 ではどうして栄一は経済に強くなったか? …
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鎌倉幕府は三代将軍・実朝亡き後突如藤原頼経を第四代将軍にしたのか
2021/10/05 -未分類
朝廷政治から武家政治にしたのが、ご存知源頼朝。 今まで武士という者は、朝廷の飼い主で、武士は番犬の如く働いてきたのだったが、それを頼朝が源平合戦後勝利して、朝廷から幕府を創って政治を樹立したのが鎌倉 …
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2021/09/30 -未分類
明治になって日本を代表する実業家となった渋沢栄一は、最初の妻・尾高千代がコレラに罹って亡くなったのが明治15年(1882年)、後妻は伊藤兼子で明治16年(1883年)で、二人の間に七人の子に恵まれ多 …
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2021/09/28 -未分類
明治2年(1869年)渋沢栄一は、妻子を静岡に呼ぶ寄せ、商法会所の頭取として経営を指摘していた。 思えばヨーロッパ留学で学んだ資本主義の仕組み、先進的な化学技術を目の当たりにして日 …
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渋沢栄一の前半生の年表!ちょんまげ頭からざんぎり頭の波乱万丈の人生
2021/09/18 -未分類
渋沢栄一は血洗島で生を受け、尊王攘夷に明け暮れ、従兄の喜作と共に京都へ出て、平岡円四郎に出会った事により道が開けて行った。 一農家の人間が、一橋家の家臣になって慶喜公に謁見できるなんて …
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日本三大仇討の一つ伊賀で二十九年目に親・兄の仇を討った石井兄弟
2021/09/16 -未分類
明治以前は許されていたが、今の世は仇討ちは許されていない。 仇討ちで超有名な話は、浅野内匠頭が殿中で刀を抜いて吉良上野守に切りかかった話などは大方の国民が知っています。 …