元亀3年(1572年)8月14日、平安時代末期から美濃国東部を支配していた、遠山氏の宗家岩村城主・遠山景任が病死した。
岩村遠山氏は以前は信玄に臣従していたが、織田信長が叔母のおつやの方を遠山景任に嫁がせ、子がない二人に養嗣子として信長の息子・御坊丸を送り込んで、まだ幼い御坊丸の代わりに女城主として織田側になってしまった。
元亀3年(1572年)10月3日信玄が西上作戦を開始、同年11月に秋山虎繁は武田軍を率いて岩村城を包囲して開城させてしまう。
その時の条件は、城中の兵を助け御坊丸も助ける女城主のおつやの方は秋山虎繁と結婚することで話はまとまった。
元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄は上洛半ばで病死、武田家の家督は4男の勝頼が継いだ。
天正3年(1,575年)5月21日、武田勝頼は長篠において織田信長・徳川家康連合軍に挑んで大敗し、山県昌景・馬場信春ら多くの重臣を失った。
そのため、この連合軍に対して武田反攻が始まる。
そして信長は、嫡男・信忠に軍を預け岩村城を侵攻させた、これに対して武田勝頼軍は援軍に向かおうとし、勝頼の動きを聞いた信長も11月14日に京から東美濃の岩村へ向かった。
上村合戦で武田(秋山軍)で生き残った苗木遠山氏の一族・郎党達は織田・徳川方に付いたが、明智遠山氏と付知遠山氏の一族・郎党達は織田・徳川方に付く者と武田方に付く者に別れた。
これより半年前から、織田・徳川方に付いた側は、中津川に遠山左衛門、竹折に土岐三兵衛、大川に小里内作、上村に遠山與介が駐留して、各方面から岩村城への補給路を断った。
岩村城内は飢餓状態となり、この窮地を脱するために、隣の水晶山に回りこんで織田・徳川軍に対抗したが、河尻慎吉(後の岩村城主となる)・毛利秀頼・浅野左近・猿萩甚太郎等に反撃されて、武田方についていた遠山氏の一族・郎党達の遠山五郎友長・澤中左忠太光利・飯妻新五郎・小杉勘兵衛らが討死し大将格21人に籠城兵3000人の内1100人を失ったため武田方は戦意を喪失した。
そのため、窮地に陥った秋山虎繁は、塚本小太郎を使者に立て、信長に降伏を申し出して織田方に受け入れられた。
こうして岩村城は信長の手に落ち、秋山虎繁と妻・おつやの方は岐阜長良川河川敷で逆さ磔にした。
そのときの、秋山信繁とおつやの方を磔にした時の、家康に宛てた黒印状が出てきた。
これまでは、岩村町教育委員会は大将陣で処刑したと言って今なを表札が立っている。
岩村町郷土読本編集委員会の西尾精二さんとの意見が違うか‥?
直すのが面倒なのか、いや、岩村町教育委員会の方が正しいのか?
何故だろうと、不思議に思う。
岩村町を岩村城主女城主で町興しをやるんなら、真実を伝えるべきである、頼みます。
疑問に思う人あれば、岩村在住(令和五年に死去)西尾精二さん(090−2610ー2354)までお問い合わせください。
何ぜかと言うと歴史を調べて詳しいから、落城したときの女城主夫妻の事です。
スポンサーリンク
【黒印状】
何よりも真実が語る。
ここに信長の黒色の印肉で押した印影のある文章があります。
室町時代以降、武将の発行する文書に、従来の花押(かおう)に代え、黒印または朱印が用いられ、花押しのある御判物(ごはんもつ)※に対し、それぞれ黒印状、朱印状と呼ばれた。
※室町時代以降、将軍・守護・大名が発給した時状(じきじょう)形式の文書で、発給者みずから花押(かおう)を据えたものをいう。
所領の給与・安堵(あんど)、特権の付与などを行う場合に用いられた。
江戸時代には、将軍が10万石以上の領地を大名に与える場合や、その安堵に用いられた。
◀︎織田信長
▲これが、信長が家康に送った黒印状
江戸時代には、一般に朱印は将軍の発するものとされ、(私的な文章には黒印を用いた)、黒印は諸大名が用いた。
上記の黒印状を分かりやすく解説します。
【信長が徳川家康に出した手紙】
岩村城を落城させたいうことを知り、喜んでいる。
城主の秋山信友は岐阜に移送させ、今日、磔に処した。
その他のの籠城衆も残らず首を刎ね、近ごろ鬱積している思いを発散させる事ができた。
駿河と遠江の国境の城のことについては、そちらの意向は承知した。
東西南北の状況が落ち着いたので、吉良あたりの鷹野へ鷹狩りに出かけるついでにお目にかかり、直接相談したいと思っている。
その時もう一度その件は聞くことにしよう。
なお、詳しいことは小栗大六に伝えておく。謹言。天正3年11月28日
『信長黒印状を入手した経緯について』
これは、西尾精二さんの「歴史掘りおこし読本・第2卷」より引用。
平成22年の夏に瑞浪市陶待町在住・青木本吉氏(前瑞浪市陶磁資料館長:岩村町氏出身)から、近江八幡市安土城考古博物館での「信長と安土城」の展示を見学した折に、「信長黒印状」に岩村城のことが書かれてあること、その内容のコピーを届けていただきました。以下省略。
スポンサーリンク
●上洛を目指し、天下統一を進める信長の背後を脅かす最大の勢力が、武田信玄でした。
その備えもあって、信長は早くから三河の徳川家康と同盟を結ぶのですが、元亀三年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは大敗を喫し、翌年には信長は、美濃・信濃・三河の接点に位置する拠点「岩村城」を失うことになります。
※上記の「岩村城」をクリックすると案内が出てきます。
▲岩村城跡 ▲櫓太鼓
天正元年(1573年)に死去した武田信玄の跡を継いだ勝頼に対して、同三年五月に信長と家康が巻き返しを図ったのが、長篠の戦いでした。
▲設楽原戦場馬防 ▲長篠城跡
鉄砲隊を用いた戦略で有名なこの「長篠の戦い」の後、両者の勢力は逆転し、信長は東へ向けての攻勢も視野にいれた戦略を展開させていくことになります。
手始めに、嫡男・織田信忠にかっての岩村城の奪還を命じ、半年後にはこれを陥落させることに成功します。
織田信忠が秋山夫妻と戦うために、岩村城の西北に陣を張った所が大将陣(現大将陣公園)、この付近は侍屋敷(岩村町馬場・新市場・日の出町・江戸町・新屋敷)があった所で、この時分の城下は富田にあったはずです。
※上記の大将陣をクリックして読んでください。
▲織田信忠
岩村城の守城であった秋山信友を、召し捕った後に岐阜へ移送させて磔にし(『信長公記』では、他の武将二人と共に長良の河原で磔にした旨が記されています)、他の籠城衆も残らず首を刎ねたと記されています。
その後、武田兵に長年煮え湯を呑まされたきた信長の悔しさと、戦勝の喜びを知る事ができます。
上記にも書いた通り、駿河・遠江の境目の城のことなどは、ようやく余裕ができたので、吉良(今の西尾市)に鷹狩りに行った際に直接会って相談しようも行ってます。
※上記の西尾市をクリックすると、岩村城と西尾城との関係がわかると思います。
スポンサーリンク