岩村城は、そんなに有名人を出してる?
全国的にみると凄い!
あの桜吹雪が有名な遠山の金さんと鳥居耀蔵
名奉行と言われる遠山の金さんと妖怪といわれる鳥居耀蔵は岩村城と関係があったのです。
遠山の金さんは、鎌倉時代に築城を決めた加藤景廉の子孫、一方鳥居耀蔵は岩村城主・大給松平乗薀の三男の子儒学者・林 述斎(養子にいったため苗字が林になった)の子供鳥居耀蔵(こちらも三男)。
ご存知、遠山の金さんこと遠山左衛門尉景元は寛政5年(1793年)〜安政2年(1855年)63歳で没。
▲中央線の「恵那」駅で明知線に乗り換えて終点「明智」駅で下車。
遠山景元のルーツは美濃国・岩村城祖の加藤景廉の子孫で明知遠山城の系列。
▲遠山金さんの家紋
知行※1 500石の明知遠山氏の分家の6代目、父は長崎奉行を務めた遠山景晋(かげくに)、母は榊原忠寛の娘、父遠山景晋は永井家から遠山家に養子入りしたが、後に養父の実子景善が生まれたため、景晋は景善(義弟)を養子にしていた。
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景元出生時には、未だ景善の養子手続きをしていなかったため、景元の出生届はその手続きが終わった、誕生の翌年9月に提出された。
文化6年(1809年)父の通称であった金四郎に改め、青年期はこうした複雑な家庭環境から、家を出て町屋で放蕩生活を送っていた。
※1:知行とは、①職務を執行すること。②平安・鎌倉時代、与えられた知行国の国務を執り行うこと。③中世・近世、領地や財産を直接支配すること。④近世、幕府や藩が家臣に俸禄として土地をしたこと。また、その土地。⑤俸禄。扶持(ふち)。
一方鳥居耀蔵は寛政8年(1796年12月22日)〜明治6年(1873年10月3日没)の実父は、大学頭を務めた江戸幕府の儒者の林 述斎で、林述斎の弟子には佐藤一斎がいた。
▲鳥居耀蔵と鳥居耀蔵の家紋
また、林 述斎の父は美濃国・第3代岩村城主松平乗薀(のりもり)松平乗薀、実父は徳川吉宗の下で亨保の改革を進めた老中松平乗邑である。
上記の2人は毛並みもよく、務めた時期が時の将軍第11代将軍徳川家斉(隠居)→から第12代徳川家慶の時代である。
第11代将軍徳川家斉の子が、尾張名古屋城の第12代城主徳川斉荘(なりたか)は家斉の12男、第12第将軍徳川家慶は次男、すなわち兄弟である。
何が言いたいかと言うと、その尾張名古屋城の徳川斉荘の娘、釣姫(ちょうひめ)様と岩村城最後の城主松平乗命と結婚したのである
※上記の釣姫をクリックしていただくと、釣姫のブログに飛びます。興味のある人はクリックしてください。
信じられますか尾張徳川家62万石のお姫様がわずか3万石の岩村城へお輿入れとは?
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天保の改革で北町奉行の金さんと南町奉行鳥居耀蔵が衝突。
金さんが北町奉行を拝命されたのが天保11年(1840年)、方や鳥居耀蔵は天保12年(1841年)目付より江戸南町奉行に異動、在職中従五位下甲守に叙任。金さんの方が鳥居耀蔵より3歳年上となる。
第11代将軍徳川家斉が隠居して第12代徳川家慶が将軍となり、老中である水野忠邦の「天保の改革」の下、目付や南町奉行として市中の取り締まりを行う。
渋川敬直、後藤三右衛門(13代目後藤庄三郎)、鳥居耀蔵が水野忠邦の三羽烏と呼ばれる。
天保9年(1838年)江戸湾測量を巡って江川英龍と対立、この時の遺恨に生来の保守的な思考も加って蘭学者を嫌悪(けんお)するようになり、翌年の蛮社の獄で渡辺華山や高野長英ら蘭学者を弾圧する遠因となった。
だが、これについては、鳥居耀蔵は単なる蘭学嫌いではなく、天保14年(1843年)多紀安良の蘭学書出版差し止めの意見に対して「天文・暦数・医術は蛮夷(ばんい)の書とても、専ら御採用相成」と出張して反対するなどした。
その実用性はある程度認めていたこと、また、江戸湾荀子の際に鳥居耀蔵と江川英龍の間に対立があったのは確かだが、もともと耀蔵と江川は以前から昵懇(じっこん)の間柄であり、両者の親交は江戸湾巡視中や蛮夷の獄の後も、耀蔵が失脚する弘化元年(1844年)まで続いていた。
鳥居耀蔵は江戸湾巡視や蛮夷の獄の1年も前から花井虎一を使って渡辺崋山の内偵を進めていたことを指摘し、蛮夷の獄は『戊戌夢物語』の著者の探索にことよせて「蘭学にて大施主」と噂されていた渡辺華山を町人たちとともに「無人島渡海相企候一件」として断罪し、鎖国の排外的閉鎖性の緩みに対する一罰百戒を企図して起こされたとする説がある。
天保12年(1841年)目付の時、鳥居耀蔵は南町奉行の矢部定謙を讒言(ざんげん:事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げる)により失脚させて、その後釜として南町奉行となった。
その讒言のおかげで、矢部家は改易、そして矢部定謙は伊勢桑名藩に幽閉となり、程なく絶食して憤死(ふんし:激しい怒りのうちに死ぬこと)。
天保の改革における鳥居耀蔵の市中取り締まりは非常に厳しくて、囮捜査を常套(じょうとう)手段とするなど権謀術数(けんぼうじゅっすう)に長けていたため、当時の人々からは『マムシの耀蔵』あるいはその名を文字って『妖怪』(官位と通称の甲斐守を「耀蔵・甲斐守」と反転させた上省略した)とあだ名され、忌み(いみ)嫌われた。
▲妖怪(イメージ)
また、この時期に北町奉行だった遠山景元(金四郎)が改革に批判的な態度をとって規制の緩和を図ると、天保12年(1841年)に始まった天保の改革の実施に当たっては、12月に町人達を奉行所に呼び出して贅沢と奢侈(しゃし:とは、度を過た贅沢なこと)の禁止を命令していて、風俗取締りの町触れを出したり、寄席の削減を一応実行しているなど方針の一部に賛成していた。
しかし、町人の生活と利益を脅かすような極端な法令の実施には反対、南町奉行に矢部定謙と共に老中水野忠邦や目付の鳥居耀蔵と対立した遠山の金さんでした。
▲水野忠邦の画
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「金さん」老中と鳥居耀蔵に徹底的に立ち向かう。
天保12年9月、金さんこと遠山景元は老中水野忠邦に伺書を出しているが、その内容は町人への奢侈を禁止していながら武士には適用していないことを挙げ、町人に対しても細やかな禁止ではなく分相応の振る舞いをいていれば、それで良いとする禁止令の緩和を求めた。
これを受け取った老中水野忠邦は、伺書を第12代将軍になった徳川家慶に提出下が却下、金さんの意見は採用されず贅沢取締りの法令を遠山景元は町中に出した。
同年に鳥居耀蔵による策略で矢部定謙は過去の事件を蒸し返され、翌天保13年(1842年)に罷免・改易となり伊勢桑名藩で死亡、恐るべき鳥居耀蔵は後任の南町奉行になり、金さんは1人で老中と鳥居耀蔵に立ち向かうことになった。
寄席の削減についても老中水野忠邦と意見が対立、当初金さん(景元)は禁止項目に入っていた女浄瑠璃を出している寄席の営業停止を水野忠邦に伺ったが、水野忠邦は全面撤廃を主張、景元(金さん)は芸人の失業と日雇い人の娯楽が消える恐れから反対した。
結果として水野忠邦の方針より大幅に緩和してではあるが、寄席は一部しか残らず、興行も教育物しか許されなかった。
天保12年(1841年)11月老中水野忠邦が鳥居耀蔵の進言を受けて芝居小屋を廃止しようとした際、金さんはこれに反対して浅草猿若町への小屋移転だけに留めた。
▲北町奉行跡
この遠山景元の動きに感謝した関係者達が、しきりに景元を賞賛する意味
で、『遠山の金さん』ものを上演した。
これによって鳥居耀蔵や老中水野忠邦との対立が「遠山は正義、鳥居
は悪逆」という構図を作り上げた(但し、鳥居耀蔵は前から江戸っ子らの評判は悪かった)。
他にも株仲間の解散令を町中に流さず、将軍へのお目見え禁止処分を受けたり、床見世(現在でいう露店に相当)の取り払いを企てた水野忠邦を牽制したり、人返しの方にも反対して実質的に内容を緩和させるなど、ことごとく改革に抵抗する姿勢を保った。
しかし天保14年(1843年)2月24日に鳥居耀蔵の策略によって北町奉行を罷免され、大目付になった。
栄転であり地位は上がったが、当時は諸大名への伝達役に過ぎなかったため実質的に閑職だった。
在任中の12月29日に分限帳改を兼ね、翌天保15年(弘化元年、1844年)2月22日に朝鮮使節来聘使御用取扱を担当した。
同年11月に寺社奉行青山幸哉の家臣岩井半兵衞に依頼した甲冑「紺糸威胴丸」が完成している。
天保14年閏(うるう)9月13日に老中水野忠邦が天保の改革の失敗により罷免され、鳥居耀蔵は反対派に寝返って地位を保ったが、翌弘化元年6月21日に水野忠邦の復帰で鳥居耀蔵は失脚、後任には水野忠邦の弟の跡部良弼が南町奉行となった。
弘化2年(1845年)3月に跡部良弼も水野忠邦の老中罷免の煽りを受ける形で小姓組番頭に異動され、再び遠山景元(金さん)が今度は南町奉行として返り咲いた。同一人物が南北奉行の町奉行を務めたのは極めて異例のことです。
南町奉行在任中は株仲間の再興に尽力(株仲間再興令)、床見世の存続を幕府に願い出て実現させた。
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遠山景元就任前には、寄席も制限を撤廃され復活した。水野忠邦の後を受けて政権の座についた阿部正弘からも重用され、寛永4年(1851年)の赦律編纂にも関わっている。
寛永5年(1852年)に隠居して家督を嫡男の遠山景纂(かげつぐ)に譲ると、剃髪して帰雲と号し、3年後に63歳で死去した。