美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

渋沢栄一

渋沢栄一はフランス・パリ万博でベルギー国王と銀行家に経済を学ぶ

投稿日:2021年5月26日 更新日:

   渋沢栄一は、幕府のやり方に矛盾を感じ、次第に幕府のやり方に失望していった。

 

嫁の千代の兄さんである、従兄弟の尾高惇忠等と高崎城を襲撃して乗っ取り計画を立て、横浜にいる外国人を排除しようと、血気盛んな従兄弟の渋沢喜作と計画に参加したが、これも従兄弟の尾高長七郎の説得により挫折してしまう。

                                                                     ▲高崎城

 

幕府から追われる身になってしまった栄一と喜作は京都に逃亡する。
そんな二人を救ったのが平岡円四郎との出会い、慶喜に謁見まで面倒を見てもらって農民から武士になって、一橋慶喜に仕え徴兵や財政改革を実施していった。

 

だけど、次第に主君・慶喜が第15代・徳川将軍になることには反対だった。
何故かというと幕府を倒す倒幕派で燃えていたからで、やる気を失っていった。

 

 

渋沢栄一は運を味方した、それは昭武のお供でパリ万博行き

そんなおり将軍・徳川慶喜から、とんでもないない話が舞い込んできた。
パリ万博行きである。

 

 

慶喜の弟・昭武に同行させるのが相応しい人物はいないかと探していたところ、一橋家の財政をバリバリ盛り立てていた渋沢栄一を将軍・慶喜が推薦してくれたおかげでパリ万博へ。

 

 

若干14歳の徳川昭武のお世話係兼会計係として、慶応3年(1867年)正月、将軍・徳川慶喜の名代としてパリ万国博覧会に出席するに随行し、フランス郵船アルフェー号で横浜を発つようにと言われた。

 

思えば、ちょっと前までは横浜に行って外国人を叩き切るんだと粋がっていたけど、一橋家に仕えていたら段々と世の中のことも分かりはじめた。

 

 

一橋家にいるときに長州藩・薩摩藩の西郷さん等とか、いろいろの人物と話をしたりして、また、主君・慶喜と話をしていくうち、外国人を排除するのではなく、外国人を受け入れて外国人の強さの秘密を知るべきではないかと考えが変わりました。

 

 

栄一は家族に別れを告げる暇もなく、その話が来てから支度やらなんだかんだを整え一ヶ月後には、フランス郵船アルフェール号で目指すことになりました。

 

 

 

ちょん髷姿で二本差しがフランスに着いてビックリ

想像つくと思いますが、ちょん髷姿で刀を差した連中が、西洋文化を初めてみて、仰天するのも無理はなく勿論異国なんて初めてですからビックリ。

 

 

渋沢は早速ちょん髷着物をスッパリやめて洋装とちょん髷を断髪してしまった。

自慢げに写真を撮って奥さんに送ったらガッカリされたようです。

 

 

一行は工場見学や劇場を見たり、華やかなパリの人たちの生活はどんな生活をしてるんだろうかとか、病院は?街並みは?何か工夫があるのか、そいう社会政策をしっかりみたり聞いたりして学んできました。

 

 

栄一は、向山一履らに随行され、将軍の名代を務めた昭武は、このときフランス皇帝ナポレオン3世から任命されたレオポルド・ヴィレット中佐が昭武の教育係になります、中佐は当時45歳でした。

 

 

将軍・慶喜より「博覧会展示後、条約締結国へ巡歴して各国との友好を深めて、各国巡履後はフランスにおいて3年〜5年、さらに長期にわたって留学することを命じられていた」。

 

 

昭武は、パリにしばらく滞在して、ナポレオン3世に謁見したり、万博を見物したりした後でスイス、オランダ、ベルギーイタリア、イギリスなどを順に訪問予定でした。
もちろん渋沢も同行しています。

 

 

徳川昭武は本格的な留学生活に入り、そも間いろんな国々の皇帝や王様たちを親善訪問して巡った。

 

 

それは大事な仕事なのですが、次第に資金が足らなくなってきて会計係の渋沢は、日本から持ってきた金は底をつき、フランス政府に掛け合っても渋る始末、当初はフランス政府は幕府を応援して、お金はご用意しますと言っていたけど困ってしまいます。

 

 

経済の仕組みを教えてくれた二人の外国人

一人目は、ベルギー国王レオポルド2世です。
親善旅行に行ったとき、国王自らベルギーは鉄が名産で沢山とれますので、ゆくゆくはベルギーの鉄を買ってくださいと売り込みをした。

 

なんで国王が商人みたいな事をするのかショックでした。
国の利益のためにやっている。

 

日本ではどうだろうトップは、このような事はしてない、このことに渋沢は驚いた。

 

二人目は、ポール・フリュリ=エラールは、滞在を世話した一人で1836年〜1913年の銀行家です。

 

当時、金の工面で大変な渋沢栄一を見て株をやったら儲かりますよと言って株を買うのを勧めた、銀行の仕組みとか、株式会社とは、いろいろな事資本主義経済の仕組みを教えてくれた。

 


▲イメージ

このポール・フリュリ=エラールという人物が、のちの渋沢栄一にとっての生涯の師であったような気がします。

 

 

外国での銀行家の身分は平等、日本では両替商は金持ちだけど、身分は江戸幕府では士農工商の一番下です。

 

 

当のポール・フリュリ=エラール氏は、フランス軍人と正々堂々となんの、わだかまりもなく話をしてる姿をみて、身分制の打破と実業の地位向上の必要を痛感したと後年述べている。

 

 

まもなく幕府が大政奉還したとの知らせが来て、当初の予定より短くなって昭武と渋沢は一年ほど滞在で終わって帰国しました。

 

 

 

帰国後静岡藩に身を置き政界に入る

徳川慶喜の弟・徳川昭武の随員として渋沢栄一こと渋沢篤大夫がフランスに滞在している間に大政奉還があり武士政権が終わり、朝廷の元に移った。

 

慶喜は蟄居謹慎の身になり、明治元年(1858年)に帰国した栄一は整理や報告を終えた後、残りの生涯を旧主の元で送る決意をしました。

 

 

慶喜が静岡藩に仕えなさいと言ってくれて、12月19日静岡藩に到着した栄一は油屋に投宿、同23日慶喜が蟄居している宝台院を訪ねて旧主に拝謁して帰国の報告をしてる。

                                                                   ▲宝台院(静岡)

 

慶喜の考えで、その後、栄一は静岡藩仕官を命じられ、翌明治2年(1869年)の1月には宝台院近くの旧代官屋敷に商法会所(後の常平倉。銀行と商社の業務を行う合本組織)を開きます。

 

 

さらに養蚕の普及など地域の農業振興にも力を尽くしました。
やがて慶喜は謹慎をとかれて代官屋敷に転居、それに伴い代官屋敷を役宅としていた栄一は近隣の教覚寺に移転、商法会所は後に呉服町へと移転しました。

 

 

静岡藩で面倒を見てもらっていた栄一は、豊かにしたい気持ちで銀行と株式会社を一緒にしたような商工会所に徳川の家来たちを引き受けた。

 

 

静岡藩の財政が良くなっていくようにパリでポール・フリュリ=エラールに教授してもらったようにして静岡藩がうまく回ってきた。

 

 

ことの評判が東京の明治政府に届いた。
そんな人物だったら政府に招いて彼にバリバリ改革をやって貰おうと考えたのが大隈重信です。

 

 

同年10月、明治政府から大蔵省勤務の強い要請を受けた栄一は静岡藩に心を残しながらも東京に移り、慶喜もまた1897(明治30)年には東京に居を移しています。

 

 

上司に井上薫という長州の人物でした。
この人はカミナリ親父ってあだ名が付くぐらいの人ですけど、直属の部下とはうまくコンビが組めていった。

 

 

さらにその上の上司が大久保利通でしたが、ソリが合わなかった。
大久保は幕府が倒れたのは、幕府の役人が腐ってるせいだと言って幕府上がりは信用できないといって幕府出身を嫌っていた。

 

 

栄一が嫌ったのは金銭感覚のない人間が大蔵省のトップだという事で、辞表を出した。

 

 

-渋沢栄一

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