下田歌子という名前は、物心がついた頃から知っていた。
地元なので、小学校卒、中学校卒、高校卒で、常に城山と城下町があったので知ってました。
僕自身教養がないので、何をした人かも知らなかったし、学生の頃まで明治天皇のお妾さんだと聞いていた。
なんで、そんなお妾さんに大きな碑が建てられているんだろうと不思議に思ってました。
無知なのは、悲しい事ですね。
▲下田歌子の碑(昭和35年には建っていた)
下田歌子という人物は岩村藩出身で凄い女傑なんだ
安政元年(1854年)に岩村藩士・平尾鍒蔵の長女として、この地岩村で生まれ・鉐(せき)と名付けられた。
安政の大地震が安政2年10月2日午後10時頃ごろに発生。
江戸地震ともいわれ、関東地方南部でM7クラスです。
簡単にいうと、明治から大正にかけて活躍した教育者・歌人です。
女子教育の先覚者で生涯を女子教育の振興に捧げ、実践女子学園の基礎も築く,そればかりではなく、生涯を幼き頃、知新館で学べなかった女子の教育に力を注いだ女傑といえます。
そいう関係からか、岩村町では実践女学園卒の渡辺美佐子さんを、歴史上の人物『女城主・おつやの方』に決めたんじゃないでしょうか?
▲現・歴史資料館の藩主邸跡に保存されている建物です。
父・平尾鍒蔵は岩村藩士で藩校「知新館」の教授をしていて、祖父は東条琴台※1で「聖世紹胤録」など多数の著述をもつ学者一家の家庭に生まれ育った。
※1.東条琴台(とうじょうきんだい)とは、寛政7年6月7日(1795年7月22日)から明治11年(1878年9月26日)、江戸時代後期から明治にかけての儒学者。
江戸の医家に生まれ、大田錦城、亀田鵬斎等に学び、越後高田藩に仕えた。嘉永年間、海防論を説いた『伊豆七島図考』で筆禍に遭い、江戸を離れて高田城下で修道館[要曖昧さ回避]教授を務めた。明治には東京に戻り、新政府下で神官を歴任した。
『先哲叢談後編』『続編』の編者として知られる。兄に花笠文京、孫に下田歌子がいる。
父・平尾鍒蔵は幕末に勤王派の藩士だったため、蟄居謹慎を命じられるが、苦難の中「鉐」は祖母から読み書きを習い、五歳で俳句と漢詩を詠み、七・八歳にして見事な韻を踏んだ漢詩を賦し、和歌を作るなど神童ぶりを発揮した。
書物を読んで善いことだと思うと、すぐに行動に移すことも多かった。
『二十四孝』という中国の親孝行を書いた本に、両親が蚊に刺されるのを防ぐため、自分が裸になって蚊を引き寄せたという内容があったので、それを実際に行ったという。
▲右側にある家が父の書斎であり、鉐が勉強をした部屋でもある。
しかし、女であるため、すぐ近くにある知新館に学ぶことは許されなかった。
「鉐」は家庭において祖母・貞から読み書きの手解きを受け、また、ソフト父の豊富な蔵書を読み漁って、次第に頭脳を多彩的なものとし、詩的な情操をより豊かにしていった。
※ここに岩村城址の歴史、登城口から本丸までの記事を書いてる途中です。興味ある方はクリック「してください。
知新館で学べなかった「鉐」はモヤモヤを持って上京する
元号が明治になり祖父と父は新政府の招聘を受けて東京に出るが、17歳になった「鉐」も上京した。
その時、国の国境三国山の峠で「綾錦着て帰らずは三国山 またふたたびは越えじと思ふ」という歌を詠んでいる。
これは「鉐」が錦を着て故郷に帰るということは、立派に成功して、その功績をもって帰るいう意気込みと決意が溢れた歌です。
父・平尾鍒蔵が娘・鉐をはじめ家族を東京に呼び寄せたのには、鉐の優れた才能を、何とか伸ばしてやりたいと親としてしては思ったのです。
鉐は八田知紀などの師の元で和歌を学び、祖父・父からはも漢学、古典など教えを受けました。
明治五年(1872年)武家の子として身に付けた礼儀作法や、儒学者の祖父仕込みの学識、和歌の才能で、鉐は、八田知紀その他の多くの人々からの推挙を受け、宮中に出仕して明治天皇の妻・すなわち昭憲皇太后に仕え、そん時に詠んだ歌です。
敷島の 道をそれとも わかぬ身に
かしこく渡る 雲のかけはし
皇后の歌会で「春月」という題を頂いた折に
手枕は 花のふぶきに 埋もれて
うたたねさむし 春の夜の月
皇后・美子から寵愛され歌子の名を賜わり、宮廷で和歌を教えるようになる。
歌子は結婚するが、わずか5年で死別・その後
明治12年(1879年)に退官して剣客の下田猛雄と結婚し宮中出仕を辞する。3年後に夫が病に臥す。
看病のかたわら、自宅で『桃夭(とうよう)女塾』を開講。
当時の政府高官の殆どが、かつての勤王の志士だったため、彼らの妻の多くは芸妓や酌婦だった。
世間知らずではないが、正統な学問のない彼女らに古典の講義や作歌を教えた。
明治17年(1884年)、夫・猛雄が病死した。
夫の死後再び、宮内省に出仕し、同年に塾の実績と皇后の推薦で、創設された華族女学校の教授に迎えられた。
翌年には学監に就任。
華族の子女のみが学んだこの学校では古式ゆかしい儒教的な教育がなされた。
明治26年(1893年)春、歌子は常宮※2・周宮※3両親王の御養育主任・佐々木高行から皇女教育のため欧米教育視察を拝命した。
※2.常宮とは、恒久王妃昌子内親王のこと、明治天皇の第6皇女。
※3.周宮とは、久宮静子内親王のこと、明治天皇の第5皇女。
明治27年(1894年)12月歌子は、皇女教育という目的を超え一般の女学校への視察を始め、28年8月に自らの信条を保ち下田に帰国する。
その直後から皇女教育をめぐる宮中の勢力争いに加わっていく事になる。
帰国後、明治31年(1898年)当時の庶民の女性があまりにも男性の言いなりになっていた姿に心を痛め、歌子らは帝国婦人協会を設立。
明治32年(1899年)1月に麹町元岡町に事務所を開設して、3月に会則を発表12月に機関紙「日本婦人」を創刊した。
▲下田歌子氏
実践女学校及び女子工芸学校をを創設して校長となった。
現・実践序学園である、同校で中国(当時は清国)から、女子留学生を多く受け入れて教育し、孫文とも親交が深かった。
明治40年(1907年)に兼任してた学習院教授兼女子部長を勇退した。大正9年には。愛国婦人会長に就任して活躍、また、女子教育に一生を捧げ学者・歌人であり、社会奉仕家げ意思強固・熱弁家で男子を凌ぐ明治・大正の日本未曾有の女傑。
▲享年82歳で、岩村城の麓・乗政寺山墓地に眠っている。