将軍・慶喜にパリ万博を進められ、将軍の弟・徳川昭武の随員として渋沢栄一(当時は篤太夫)がパリ万博へ、幾人もの王・銀行家・貴族らの西洋人との接点を得てきて学んできた。
日本では見られない西欧の発展と西欧の文明を肌で感じながら、日本では考えられない金の流れしくみ等、紙幣の流通や金融制度を学んだ渋沢栄一。
滞在中に江戸幕府が終わり、天皇に政権を返した「大政奉還」の知らせを受けた一行は、昭武の留学は5年を予定してので、栄一たちは、まだまだ帰る気はない状況にありましたが帰国することになりました。。
パリ帰還後渋沢栄一は、まず慶喜公に会いに行く
鳥羽・伏見の戦いが起こると、慶喜が大阪城を退却して旧幕府軍は敗北した。
大政奉還が行われた翌日、天皇と朝廷はこれを受け入れ慶長8年(1603年)から始まった武家政治は事実上消滅した。
大政奉還が行われた10日後の慶応3年(1867年)11月19日に徳川慶喜は征夷大将軍を辞職することを朝廷に願い出ます。
ところが、朝廷は文治元年(1185年)の鎌倉幕府成立から、約700年もの間は政治など行っていませんので、そのため引き続き慶喜に日本国の政治を行うことを命令します。
つまり武家政治から朝廷政治の大政奉還が行われた後も、徳川慶喜が実質的に日本の政治におけるトップであり続けたのです。
情勢はめまぐるしく変化をを続け、明治元年(1868年)9月になると、ついに新政府から徳川昭武に帰国命令が出され、一行はフランスを出発し、11月3日に無事到着した。
帰国した栄一は、帰国後の整理や報告を終えた後、帰国後父親にこんな話をしてます。
「もはや崩壊した幕府側につくことも、かと言って、新政府側につくことも」、己の道ではないと考えて父・渋沢市郎右衛門に気持ちを言った。
「今さら函館に行って脱走兵に加わる気もありません。また、新政府に媚びを呈して仕官するつもりもありません。
栄一は昭武から水戸に来るように誘われましたが、一橋家の家臣あるからと断りをいれ、水戸藩から静岡に移ってた慶喜のもとを訪ねます。
これからは前の将軍の隠棲※1(いんせい)しておられる静岡へ行って生涯を送ろうと思っています」
※1.隠棲とは、俗世間を逃れて静かに住むこと、また、その住まい。「山奥にーする」「政界を引退して故郷にーする」
12月19日静岡に到着した栄一は油屋投宿して、同月23日慶喜公が蟄居している宝台院を訪ねて拝謁して帰国の挨拶と報告をしています。
粗末な古寺の汚い部屋に通されると、やつれた慶喜公の姿があった。
▲宝台院
思わず、「なんと申し上げたらよろしいか‥‥」と栄一は言葉を詰まらせるが、慶喜公は「そんなことより、フランス・パリ滞在中の様子を聞かせてくれ」と気丈に振舞われ、再会したことを大変喜びました。
慶喜はさそっく栄一に「勘定組頭」(静岡藩の財政を司る勘定頭の直属の部下)の地位を与えて、財政再建の現場のトップとして抜擢しました。
そんな慶喜の期待に栄一は見事に応えます。
フランスで学んだ商法を静岡藩で見事実践した
フランスで学んだ個人に元手がなくても沢山の「株主」からお金を預かって商売して、儲けが出たら「株主」たちに分配するをいう仕組みを、栄一は具体的に実践したのです。
「静岡の町は小さいながらも都会であり、それなりの商人も大勢いるはず、資金を貸してその商業を一層盛んにすることはそんなに難しくはないだろう」
そう思った栄一は、明治2年(1869年)1月には主人が住む近くの宝台院の近くの旧・代官屋敷に商法会所(のちの常平倉。銀行と商社の業務を行う合本組織)を開き、さらに養蚕の普及※2(ふぎゅう)などに地域の農業振興にも力を尽くしました。
※2.普及とは、広く一般に行き渡ること、また、広く行き渡らせること。
やがて、慶喜公の謹慎は解かれて代官屋敷に転居、それに伴い代官屋敷を役宅としていた栄一は近隣の教覚寺に移転して、商法会所はのちに呉服町へと移転しました。
日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」です。
静岡藩で成功したことを聞きつけた新政府が‥
どこからが静岡藩が景気がいいという話が新政府の耳に伝わった、同年10月明治政府から大蔵省勤務の強い要請を受けた。
しかしその時はちょうど静岡藩の財政改革が軌道に乗り始めていた頃で、栄一は、今辞めてしまったら慶喜に申し訳ないという想いを強く持ってい ました。
そこで断りを入れるつもりで出向いた東京で栄一を説得したのが、大蔵大輔(現在の次官)であった大隈重信でした。
重信の熱心な説得により、栄一は大蔵省への入省を決心します。
栄一は静岡に心を残しながらも東京に移った。
慶喜公も明治30年(1897年)には東京に居を移しています。
大隈重信の説得で官僚になる 明治2(1869)年 、栄一は明治新政府より突然「民部省租税正に任ずる」という命令を受けました。
この役職は今でいう国税庁長官のような重要な役職です。
明治新政府は、栄一の活躍ぶりをつぶさに見て、 政府にとってなくてはならない人材であると思っていたのです。
入省した栄一を待っていたのは、廃藩置県という大問題でした。
しかしこの困難な課題に対しても、栄一 は様々な処理案を早急に立案することで存在感を示し、自らの評価を確実に高めていきました。
官僚として 手がけた仕事は、物納から通貨に改める租税制度の改正、郵便制度、貨幣改鋳、公債発行をはじめ、さらに は官庁建築、鉄道施設案など多岐にわたります。
栄一は多様な実務をこなしながら、近代日本の基盤づくり に奔走しました。
しかし明治 6(1873)年、大蔵卿となった大久保利通と対立すると、井上馨らとともに大蔵省を辞め、 栄一は実業界への転進を決断するのです。