美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

未分類

岩村町の観光スポット石室千体佛の由来と賑わっていた頃の貴重な写真

投稿日:2021年9月6日 更新日:

岩村の千体佛の行事なんて幼き頃だから、何時やったか覚えがない?
ましてや、どいうお祭りか訳もわからず餓鬼連中と出かけた記憶だけあります。

当時は石室千体佛のことを「石のカルト」と呼んでいたような気がする

 

 

町内のお祭りというと1月8日の本町五丁目の庚申堂でやる八日ゑびす、八月にやる巌邑神社の夏祭り(当時は仮装行列はなかった祀ってあるものが何かも知らなかった)10月に行う秋祭り(東に位置する八幡神社、西に位置する武並神社誰が祀ってあるかも知らないままに、ワイワイガヤガヤ騒いでいた。

 

                                           ▲岩村の秋祭り風景

 

これが岩村町の年中行事でした。
正月になれば道路に砂利が撒かれて家々に飾りが備え付けられ、あゝ正月だなという雰囲気になった記憶があります。

※上記の庚申堂をクリックすると記事が書いてあります。興味ある方は読んでください。
※上記の秋祭りをクリックすると記事が書いてあります。興味ある方は読んでください。

 

大給松平宗家7代の第二代岩村城主・松平乗寿が建立

           ▲石室千体佛の由来が岩村の隆祟院にある。

 

石室千体佛は経塚で、寛永九年(1632年)に岩村城主の二代・松平乗寿(大給松平家)「岩村城の鎮護と領民の安泰繁栄を祈願して建立して供養したもの」であると言われます。

※上記の石室千体佛をクリックすると別の故事が書いてあります。よかったら呼んでkださい。
※松平乗寿をクラックすると大給松平家の系図が書いてあります。

 

 

松平乗寿(のりなが)は菩提寺の龍巌寺に命じて浄土三部経一千部を石筺※1に蔵め※1地中に深く埋蔵し、その上に石室を設け一千体阿弥陀像を安置した。

※1.石筺(せっきょう)とは、石の箱。※1.蔵めとは、大切に納める。

 

 

6年後後に松平乗寿は国替えによって、浜松藩へ移り出世街道を昇り始めた、これはパワースポットと言える。

 

 

松平乗寿のあと丹羽氏岩村城主となって五代続き城主は、丹羽氏信・丹羽氏定・丹羽氏純・丹羽氏明・丹羽氏音と続いたのが64年間、何もしてなかったため、最後の城主にツケが廻って、お家騒動が起き領地半減となって、越後高柳(現・新潟県新井市)へ転封、これは丹羽氏が千体佛を守らなかったと解釈する。

 

 

その後へ信州小諸(現・長野県小諸市)から、松平乗紀が転封してきたが、この松平家は第二代・松平乗寿の次男・松平乗政分家して創立した大給松平の一族であった。

 

 

石室千体佛は100年を経て荒肺してきたので、寛保元年(1741年)4月10日には松平乗賢(岩村城主になった)により再営開眼供養が15日間20人の僧衆によって壮巌に行われた。

 

         ▲昭和30年代の石室千体佛をバックに記念写真、正面が隆祟院当時の和尚・日比弁良住職

 

        ▲平成18年にご開帳した時の写真,正面が石室千体佛です。

 

分家の初代岩村城主・松平乗紀のあとを受け継いだ第二代・岩村城主・松平乗賢※2は大給松平本家の下総国佐倉城主(現・千葉県佐倉市)松平乗邑※3と相談し、寛保元年(1741年)に松平乗寿が石室千体佛を岩村城の西に創ったままになっているものを修繕再営した。

 

 

 

※3.松平乗邑(のりさと)とは、江戸中期の大名・老中。肥前国唐津藩三代城主、志摩国鳥羽藩主、伊勢国亀山城主、山城国淀藩主、下総国佐倉藩初代藩主。

大給松平家10代、官位は従四位下・侍従。
唐津藩二代藩主・松平乗春の長男として誕生、元禄三年(1690年)藩主せあった父・松平乗春の死により家督を相続する。

正徳元年(1711年)には、近江国守山において朝鮮通信使の接待を奥なっている。

享保八年(1723年)老中となり下総佐倉に転封となり、以後足掛け20年あまりにわたり徳川吉宗の享保の改革を推進した。

足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央と共に年貢の増微や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、幕府成立依頼の諸法令の御触書作成、太閤検地以来の幕府の手による検知の実地などを行った人物。

 

水野忠之が老中を辞任した後は老中首座となり、後期の享保の改革を牽引して行った

 

 

石室を改修すると共に仏像もあ新しく作り替えた、前の古い仏像は供養して地中に埋蔵した。

 

※2.松平乗賢(のりかた)とは、元禄六年(1693年)岩村城初代城主・松平乗紀の長男として誕生。
宝永4年(1707年)12月24日従五位下能登守に叙任、享保2年(1717年)2月20に家督を相続する。

享保4年(1719年)1月11日には奏者番となる。
享保8年(1723年)3月6日には若年寄に昇進する、翌享保9年(1724年)11月15日には、西丸(長福丸とは第九代徳川将軍になられる人徳川家重付)若年寄に異動する。

 

享保20年(1735年)5月23日、西丸(徳川家重付)老中に昇進し、一万石加増され、岩村藩は計3万石となった、12月15日従四位下に昇叙し能登守如元となった。

 

元文元年(1736年)12月15日に侍従に転任し、能登守兼帯如元となる。

延享2年(1745年)9月1日徳川家重が徳川宗家家督相続に伴い本丸に移動した、そのため本丸老中に異動となる。

延享3年(1746年)5月8日卒去享年54歳、跡を養嗣子として松平乗邑の三男の松平乗薀が継いで三代岩村城主となる。

 

 

仏像は一千一体、金箔で見事なもの拝んで幸せになる

中尊一体はご身長一尺四寸(約42cm)座先共に三尺六寸(約109cm)で小佛千体は三寸(約9cm)で座先共に四寸(約12cm)であるが、小佛千体のうち十体は百体ごとの首像として四寸(約12cm)座先共に五寸五分(約17cm)と少し大きい。

一千一体とも金彩(金箔)が施してある。

 

                                           ▲見事な石室千体佛

 

石室千体佛が再営した分家の大給松平家の第二代岩村城主・松平乗賢も大給松平家本家の下総国佐倉城主・松平乗邑も先の大給松平家本家の岩村城主第二代・松平乗寿の曽孫であり
二人共老中の大役に任じられた。

 

スポンサーシンク

 

 

松平乗邑は第八代将軍・徳川吉宗と組んで享保の改革を断行した人物である。

松平乗賢と松平乗邑との関係は、その後乗邑の子・松平乗薀※4が松平乗賢の養嗣子となって三代岩村城主となった。

※4.松平乗薀(のりもり)とは、松平乗賢の養嗣子となり第三代・岩村城主となった、乗薀の三男の松平乗衛が、寛政五年(1793年)林錦峯の死去で途絶えた林家を継義して、林述斎となって幕府の文章行政の中枢として幕政に関与する。

 

 

松平乗薀の兄で松平乗佑は出羽山形藩を経て三河西尾藩へ移った関係で、岩村藩と西尾藩は関係が深まった。

石室千体佛は昭和五年1月に扮出し、昭和11年に再入佛して現在に至っている。

 

ご開帳はは創立当時から七年毎に行っており、陽春四月桜の候に近郷はもとより遠方からも多くの参詣者があります。
石室の正面から左回りに寛保元年再営記が刻み込まれており、石室千体佛の歴史を読みとることができます。

 

 

 

-未分類

執筆者:

関連記事

家康の「家」を与えられた若きプリンス大給松平家の初代岩村藩主・松平家乗

徳川家では初代である「家康」の「家」の字は将軍職を継いで行く者につけた。   徳川宗家(将軍家)の後継者のみ許された「家」の字です。 後継者でも「家」の字を使ってない徳川将軍がいます。 それ …

平家を滅亡させた源頼朝が鎌倉幕府を開いた理由は?武家政権と統治機構

「平家にあらずんば人にあらず」という言葉を知っている方は多いと思いますが、この言葉を発したのが平清盛か平時忠(姉は清盛の継室※1、しかも妹が後白河上皇妃ということで、結構な発言力を持ち、出世もどんどん …

日本三大仇討の一つ伊賀で二十九年目に親・兄の仇を討った石井兄弟

 明治以前は許されていたが、今の世は仇討ちは許されていない。 仇討ちで超有名な話は、浅野内匠頭が殿中で刀を抜いて吉良上野守に切りかかった話などは大方の国民が知っています。     …

承久の乱の戦場に幕府軍は東海道軍、東山道軍、北陸道軍の3軍で京に向かう

 3代将軍・源実朝が甥の公暁に暗殺されて、源氏将軍を失った鎌倉幕府執権の北条義時は、第4代将軍として後鳥羽上皇の皇族将軍を朝廷に要請しますが、後鳥羽上皇は義時に御家人の処分を取り消すよう要請します。 …

竹千代は今川義元の家臣に「むごい教育」をせよと命じられていたなぜか?

   竹千代(家康)は今川家の人質なのに、なぜ義元は最強の教育したのでしょうか?     竹千代は松平家から今川家に人質として差し出されたとき、まだ幼い子供でしたが、義元は竹千代の …

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。