美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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岩村城最後の城主・松平乗命が新政府に加担して明治四年廃藩置県を迎える

投稿日:2021年9月13日 更新日:

 まず、岩村藩最後の城主・松平乗命とはどのような人物か?

大給松平家の文派八代、岩村城七代藩主、嘉永元年(1848年)六月に江戸屋敷に誕生する。

 

                                                  ▲岩村城跡

 

安政二年(1855年)九月、満七歳にて家督相続、三万石を領した。
万延元年(1860年)十二月に従五位に叙せられ、能登守に任じられる。
元治元年(1864年)四月に大阪城加番。

慶応元年(1865年)七月徳川将軍の上洛による長州征伐に従軍。
慶応三年(1867年)七月奏者番地なる。

10月13日には、徳川慶喜が二条城で大政奉還の諮問を行う。
10月13日には、倒幕の勅命が下される。
10月14日には、徳川慶喜朝廷に大政奉還を奏請。
10月15日には、明治天皇大政奉還を勅許。

慶応三年(1867年)十二月に奏者番を免じ陸軍奉行を命じられる。

 

明治元年(1868年)官軍に帰順し、東山鎮撫使に属す。
明治二年(1869年)二月版籍奉還。
明治二年(1869年)六月に」岩村藩知事を命じられる。

明治四年(1871年)二月に東京府貫属に任じられる。
二三歳で名古屋尾張藩の四女釣姫を正室に迎える。
明治四年(1871年)七月に藩知事を免じられる。

明治十七年(1884年)七月に子爵を授けられ華族に列す。
明治二十年(1887年)十二月に正五位に叙せられる。
明治二五年(1892年)七月に従四位に叙せられる。
明治三八年(1905年)十一月に江戸に於いて宝薨ず。葬上野墓地、神葬により法名なし。

 

岩村藩主は、若年(満七歳、数え八歳)家督相続のため、大給本家・松平家・西尾藩主・松平乗全が後見役として全て沙汰していた。

※ここに岩村藩と西尾藩の関係の記事があります。興味ある方は西尾藩をクリックしてください。

 

 

岩村藩の概要

慶長六年(1601年)松平家乗が関ヶ原の戦いの攻で、家康より二万石を貰って入封し、岩村藩を立藩したのが始まりです

 

 

2代目は松平乗寿で大坂の陣で功を挙げ、寛永15年(1638年)に浜松藩(現・静岡県浜松市)に三万六千石で移封となり、代わって伊保藩(現・愛知県豊田市)から丹羽氏信が二万石で入封してきます。

 

 

その後は、松平乗寿の孫の松平乗紀が入封して明治維新まで続き、松平乗命は岩村藩最後の城主となりました。

 

 

二代目藩主・丹羽氏定は弟である丹羽氏春に一千石を分知、その後、藩財政が悪化し五代目丹羽氏音は丹羽瀬清左衛門を登用し藩政改革を断行します。

 

 

丹羽清左衛門は産業の振興や新田開発などを行いますが、一方で極端や倹約や勤労を強いたため、家臣の対立がお家騒動に発展し、元禄十五年(1702年)には高柳藩へ一万石で移封となった。

 

 

同年、小諸藩(長野県小諸市)から大給松平家の分派の松平乗紀が二万石で入封、藩校文武所(知新館)を設けるなど藩政の基礎を固め、後に林述斎(林衛の養子:三代目の松平乗薀の三男)などを排出する要因を築いています。

 

 

大給松平家は歴代藩主が幕府の要職を歴任し、享保二十年(1735年)には四代藩主・松平乗賢が一万石の加増を受けて三万石になってきました。

 

 

文政九年(1826年)弱冠21歳の松平乗美が五代目城主となった。
しかし、藩の財政は窮乏を極めており、先代からの家老・丹羽瀬清左衛門は、これを機にに藩の財政難を打開すべく改革に乗り出した。

 

 

「国産に関する意見書」を提出し国産所を創設するなど、岩村藩の産業振興を改革の要としたようである。

 

 

新田の開拓、養蚕の振興、桐・桑・杉・茶・栗の苗生産などの推奨。
京都や尾張、三河の職人を呼び寄せての絹織物業・窯業の振興。
領民への極端な自給自足の強制。

 

 

文政十年(1827年)家臣へ報酬として与える米を借り上げ。
文政十一年(1828年)秋、二十七会講 (無尽) の開始。
文政十二年(1829年) 代官橋本祐三郎を処刑 (文政の阿木騒動)。
天保元年(1830年)慶安御触書、六諭衍義大意の木版を配布し、領民へ倹約と勤労、封建道徳を奨励。

 

 

このような厳しい改革の功あって藩の財政も次第に回復して行った。

またこの改革によって阿木・飯沼を含む岩村藩内の農家に養蚕が広まり、岩村城下で昭和初期まで続く絹織物産業が発展するきっかけともなった。

 

 

丹羽瀬清左衛門の改革によって藩財政もそれなりに回復していったが、程なくして天保四年(1833年)の大飢饉、翌天保5年の江戸藩邸の類焼、さらに天保7年の大凶作などに見舞われた。

 

 

これに伴う不景気で陶器や木綿、絹織物などにおいて大量の在庫を抱える結果となり、織物事業で二万四千両もの巨額な負債を抱える事となった。

財政改革は完全に停滞してしまった。

 

 

加えて折からの保守派閥からの反発や、領民の不満、減俸された家臣の不満がこの不況を機に爆発。天保八年(1837年)に藩内52村連名で21ヶ条の嘆願書を上告し、もし聞き入れられなければ清左衛門宅を襲撃しようと誓った。

 

 

藩主はこれを受け入れて丹羽瀬清左衛門は失脚、蟄居の身となり、これで岩村藩の文政の改革も終了した

 

 

清左衛門はこの騒動の一年半後となる天保十年( 1839年)2月4日に51歳で没した。
跡を丹羽瀬市左衛門が継ぐ。

 

 

 

岩村藩家老・丹羽瀬市左衛門がとった行動

慶応四年(1868年)正月(慶応は9月8日で終わり、即ち明治元年は9月8日からが始まり)、岩倉具視の長男・岩倉具定18歳を東山鎮撫総督とする東山道征伐軍が京都に編成される。

 

 

岩村城最後の城主・松平乗命は幕府・陸軍奉行並として江戸を動かず、征討軍進発に先立つ朝廷帰順の布告に接し、藩内は勤皇、佐幕の二派に別れ抗争は激化した。

                ▲岩村藩国家老・丹羽瀬市左衛門

 

急変に処し、国家老・丹羽瀬市左衛門は松平家・菩提寺乗政寺に藩士を集め、藩論を統一決定した。

 

 

藩主の帰順督促のため重臣を江戸に派遣すると共に、自らは嘆願書を携え京都の総督府に上がった。

 

 

幕軍に与した藩主の罪を乞い、新政府への忠誠心を披瀝※1した結果、総督府から、藩主は許し難いが家来は不憫(ふびん)である。

※1,披瀝(ひれき)とは、心の中を包み隠さず打ち明けること。

 

 

早々に主人を江戸から呼び戻し謝罪し勤皇に尽くせば許すとの達死を受けた。

二月六日岩村藩兵に従軍許可が下され、同月二六日征伐軍が大井(現・恵那市大井町)に到着し、丹羽瀬市左衛門は信州諏訪まで嚮導※2として先駆した。

※2.嚮導(きょうどう)とは、先にたって案内すること。

 

 

四月、尾張、岩村、苗木の諸藩は信州防備の舞を受け、四月十日征討軍は江戸に入った。
八月松平乗命は参内し、京都鞍馬口の警備を命じられた。

 

 

 

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