岩村町は城下町なのでお寺さんが多くさんあります。
まず、松平家乗と共に岩村の地へやって来たのが、浄光寺と盛巌寺と本町五丁目にある浅見家の事です。
松平家乗とは、関ヶ原の戦い後の初代・岩村城主です。
上記の松平家乗をクリックして貰うと関連記事があります。興味のある方はご覧ください。
その他に古くは、750年頃(平安初期)からある臨済宗の飯高観音・開山は椽室和尚大禅師の飯高山萬勝寺。
その当時にあった極楽寺(いまはないです、明知線の駅名だけがあります)遠山時代に創建された大圓寺(こちらは武田軍の秋山信虎によって襲撃され燃えました)どちらも跡地はあります。
現存しているお寺は、清楽寺(開山:不明)中世のころ・妙法寺(承応年間1652年〜1555年:岩村城主・丹羽氏になってから)・東光院(元和年間1615年〜1624年)・徳祥寺(享保はじめ1716年頃)・隆崇院(正保3年1646年庵から寺へ)です。
その中で今回は、遍照山 浄光寺を紹介します。
開祖は、三河出身の内田祐正(祐正上人)で真宗大谷派すなわち東本願寺派。
浄光寺とは?
▲浄光寺・山門(恵那市文化財指定建造物)
天正年間に織田信長が石山本願寺を攻めていた時に、三河牛窪城主※1に仕えていた内田祐則は子の祐正と共に一向宗徒に加勢すべく馳せ参じていましたが。
※1.三河牛窪とは、はじめは牛窪だったが、後に牛久保城に改められたいる、現在の愛知県豊川市牛久保町にあった日本の城です(平城)。
織田信長の攻勢が激しくなると、父の祐則は顕如上人から拝領していた阿弥陀如来御影画軸を祐正にわたして三河へ帰るように言った。
祐正は織田軍に見つかって襲撃を受けたが、阿弥陀如来の加護により助かり三河へやっとで戻ることができた。
間もなく父・祐則の戦死を知った祐正は非常に悲しみ出家をして僧になって、寺を起こしたいと思い、上野国那波で松平家乗に仕えていた一族の今井一馬を訪ねて相談をし、今井一馬はは主君である松平家乗に、内田祐正の話をしたところ、殿は快諾し寺科田を附して保護したので、寺を興して浄光寺とした。
慶長6年(1601年)松平家乗は那波藩から美濃国の岩村藩に転封となったため、祐正も浄光寺を岩村の熊洞に移した。
盛巌寺も同じ浅見家も岩村に移した。
その後の寛永15年(1638年)に、岩村藩主二代・松平乗寿が浜松藩へ転封となったが、祐正は既に年老いて信者も多くいたため、浜松へ移らず岩村にとどまった。
その浄光寺の熊洞の地が一般信徒の参拝の不便であることから、慶安2年(1649年)に城下町の相原に移した。
祐正は万治三年(1660年)に96歳で遷化した。
その後、宝永2年(1705年)と明和2年(1765年)に2回火災に遭い(類焼)その都度再建したが、明和6年(1769年)土蔵造りに再建し文政4年(1821年)に置屋根式土蔵造りの本堂を再建した、建造物で日本に現存するものとしては極めて数少ない。
堂内は極彩色の欄間、折上げ格天井などがあります。
- 寺宝
- 顕如上人より賜った阿弥陀如来御影画軸
- 蓮如上人筆六字名号軸
- 宗祖見真大師(親鸞上人)御影
- 三朝高祖御影
- 上宮太子御影
- 宗祖見真大師御絵伝
- 見真大師自作の木像
- 徳川幕府十二代・徳川家慶、十三代・徳川家茂の三つ葉葵紋章入り位牌
- 徳川幕府大奥の老女「桃光院殿仙誉寶池玉澗大法尼」の位牌
○別棟一切経蔵土蔵は安永8年(1779年)の建立で寺の守護神が安置してある。
○境内には珍しい菩提樹がある。
○芭蕉の句碑があります。
(境内の説明板より)
また、散策者に公衆トイレも設置しました。
▲山門を潜ると桜が美しい
住職八世の内田祐智の三女・間江戸へ行く
幼名、間(けん)は文政六年(1823年)十五歳で姉の嫁ぎ先、江戸の村上家へ移りました。
11代将軍・徳川家斉※3▲の時代、文政九年(1826年)に村上家と親しかったので行儀見習いのために大奥へ上がりました。
※3.徳川家斉とは、江戸幕府の第11代・征夷大将軍(在任は1787年〜1837年の約50年)御三家一橋家の第2代当主・徳川治斉の長男、母はお富の方。子に徳川家慶・徳川済順・溶姫・松平斉宣・徳川虎千代・蜂須賀斉裕らで二十六男・二十七女もうけた。
その中の十二男の徳川斉荘が尾張徳川の第12代藩主になった、母は側室お蝶方(速成院)、その娘・釣姫が岩村城主・松平乗命の正室になった。
そして徳川斉貴荘の兄が第十二代・征夷大将軍徳川家慶になったため釣姫からは叔父に当たる。
※上記の大奥をクリックすると、浄光寺の娘さんが大奥に上がった記事があります。興味のある方はご覧になってください。
大奥勤めは岩崎の局の世話子として大奥へ上がり中臈(ちゅうろう)となり、その徳川家斉の嫡子すなわち、世継ぎの徳川家慶の正室・楽宮有栖川宮の姫宮喬子(さぎのみや・後の浄観院)御付きとなりました。
やがて家慶は第十二代征夷大将軍となっやが、やがて正室の楽宮が天保11年1月24日(1840年)に死去したため、その後、第十三代将軍・徳川家定の正室有姫(後の天親院)の御付きとなり中年寄りました。
家定の正室(初婚)有姫が嘉永元年が亡くなり、後の正室寿明姫(再婚・後の澄明院)の御付きの御年寄となります。
この姫も二年後に亡くなって将軍・徳川家慶(後の慎徳院)御付の老女となりました。
桃光院は老女となったが、どの位なのかはわからないが老女は凄い。
桃光院は、その頃岩村藩主が将軍に献上した、「岩千鳥」を傍に見ていたかもしれません。
二年後に徳川家慶が亡くなり桃光院は退職を願い出ましたが許されず、次代の将軍・徳川家定(後の温恭院)御付き老女としても大奥に残りました。
安政五年(1858年)家定も亡くなり、そこで剃髪を願い許されて退職しました。
大奥に十五歳から五十歳まで勤め、同年十一月に増上寺で剃髪しました。
大奥というところ
江戸時代の末期、33年に渡って大奥に使えた老女・桃光院さま。
浄光寺八世住職・内田祐智三女、幼名・間(けん)、在職中には浜岡と名乗っていたが後に桃光院となった。
大奥の仕事と役職は
大奥の一番くらいの高い主人は、将軍様の正室「御台所」です。次に側室がいます。
将軍と御目見以上の奥女中と御目見以下
大奥全てを管理する総監督が御年寄という職名の老女です。
老女の範囲は、江戸城の大奥で勤めている上臈御年寄※2を含めて御年寄という職を持っていた者。
※2.上臈御年寄(じょうろうおとしより)とは、江戸時代の大奥女中の役職名です。将軍や御台所への謁見が許される「御目見以上」の女中であり、大奥における最高位。京都の公家出身であるが、生家の名前とは関係なく、綾小路・飛鳥井・万里小路・常磐井などの名前を代々受け継いでいった。
最上位は上臈御年寄で御上臈、小上臈、御年寄、御客会釈(おきゃくあしらい)、中年寄、御中臈、御小姓、御錠口、表使、御次、御右筆、御切手、御伽坊主、呉服の間、御広座敷以上が将軍や御台所に目通り出来る「御目見以上」の奥女中です。
「御目見以下」は、御三の間、御仲居、御火の番、御茶の間、御使版、御末、御犬子供の順になります。