町並みが東西に長いので、Aの章、Bの章、Cの章と分割して説明をしていきたいと思います。
▲岩村城下町の見所図
※上記のBの章は本町三・四・五・西町一・二を載せています。
※上記のCの章は新町から岩村駅の近辺の領家を載せています。
ここではAの章の説明です。
下記の地図を見てもらうと本町一丁目と二丁目です。
元々ここは職人の町ととして発展したところです。
当時、繁栄していた頃の町並みの様子を後世に残したということで、この地図を作られた方がいます。
岩村の町並みが大変に賑わっていた頃の、明治、大正、昭和初期の様子を後世に伝えることが大切だと常々思っていたので、昭和59年から一年余かかって町並みの聞き取り調査を自主的に行いました。
本町一・二は西尾圭三様にお願いいたにました。
本町三丁目から岩村電鉄の駅までについては西尾精二さんが担当して、当時領家在住の西尾一枝さんに(明治40年生まれ)ご無理を言って、広告の裏にメモってもらい、1週間ぐらいの間隔で訪問しては次々と原稿ができてきました。
▲当時の西尾一枝さん
開始から二年近く経過した頃、時の岩村商工会長・中根利助様の励ましと、ご理解によって町並み図が活字化されました。
岩村町史の天保年間、町方家並帳以降の記録がありません。
特に今回、岩村の明治、大正、昭和初期の賑わいの様子を後世に残す記録になり、何かに役立つと信じます。
(町並図作成責任者;:西尾清二)から借りて載せています。
岩村城下町は平成10年4月に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。
この町並み聞き取り図が偶然に「全建地区の全戸」を示し、主に大正時代を表現する町並み図として後々に伝承される事になリマした。
平成19年6月岩村公民館で「繁栄した岩村の町並み」を開催されました。
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富田村にあった城下町を岩村町に移転
岩村の城下町は天正年間に、信長の家臣・川尻慎吉が岩村合戦で疲弊した庶民のために造った町並みです。
▲城下町の新旧図
移築する前は冨田村を中心に城下町がありました。
天正の始め、時の城主、河尻慎吉が城下を冨田村から岩村へ移したと古書に記されています。
岩村が真の城下町として経営の緒についたのはこの時からです。
町人街には。今でも天正疏水が流れています。
▲南北の各家庭には天正疏水が流れています。
今から約400年前です。かくて岩村城下町の通路・敷地が完成された後、大円寺・冨田の官舎を移し、商人・住民も半ば強制的に移住させ、各地から商人等を集中させ、ここに現在の岩村町の基礎は作られました。
上村村へ行くには木の実峠を越す
木の実峠とは、岩村から上村間、国道257号線を東へ行くと、上村町の経済的重要性から明治末期には上村街道が改修された。
木の実峠に通じる旧道は、狭阻なカーブが多く道を馬子唄の聞こえる荷馬車が行き交い、峠には茶店があった。
岩村電軌鉄道と合併した矢作水力会社(大正8年設立)は、その後、上矢作索道株式会社を設立して中溝初音町(岩村町公民館)から上村の字小川までを結ぶ「索道」で、貨物搬送に当たった。
昭和六年末木の実トンネル完成する。
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岩村上町(本町一丁目)は職人の町
地図を見て貰えばわかりますが、大工・表具屋・畳屋・桶屋・木賃宿・問屋等があります。
▲Aの章です。
大工職人が圧倒的に多く11件を数え、紺屋・染物師が5件あった。
これは岩村川の清流や用水を利用した職業である。
ついで菓子屋の4軒は明治以降の店だろうが、馬車宿3軒は街道を往来する馬車引きの宿で、上町の東側・常夜灯の隣には馬小屋があったのと関係がある。
それと関係した車大工2軒は馬車や大八車の職人で、共に街道と切り離しては考えられない。
各所の名所
❶岩村城は最初の城主は
加藤景廉
文治元年(1185年)源頼朝の重臣、遠山荘の地頭として、この城を開創、現・八幡神社の祭祀、承久三年八月卒。
遠山景朝
加藤景廉の長子、後に遠山荘の城主、現・武並神社の祭祀、建長のの頃没。
この間約200年間の系図不詳
遠山頼景
永正年中没。
遠山景友
大永四年没。
遠山景前
天文頃、弘治二年没。
遠山景任
元亀三年没、信長の叔母を正室に迎える、遠山最後の城主でおつやの方の夫。
御坊丸
信長の息子、遠山景任の養嗣子、元亀三年八歳にてにて相続、天正元年秋山晴近のため甲斐に送られ人質んなって信玄の元に
秋山晴近
天正元年三月岩村城主になる。天正三年信長に攻められ、妻・おつやの方共々長良川にて磔殺される。
河尻慎吉
信長の家臣で、天正三年岩村城主となる、この間に岩村さん城下町を冨田村から現・岩村に移す大工事をやった。天正十年甲府に移る。
森蘭丸
信長の家臣、天正十年三月に城主となるも同年六月に本能寺において明智光秀の謀反にて討死。
森長一
蘭丸の兄、金山城に居て各務兵庫を城代としていた、天正十二年長久手の戦いで戦死。
森忠政
蘭丸の弟、金山城にいって各務兵庫を城代としていた、慶長四年川中島へ移る。
田丸忠政
秀吉の家臣だった田丸忠政は、慶長四年城主となったが慶長五年関ヶ原の戦いで敗れたため家康に追われる。
▲ここに田丸を入れる▲
ここから徳川時代
松平家乗
慶長六年城主となって、藩主邸を造る。大給松平本家。
松平乗寿
石室千体仏、祥雲寺(庚申堂)を造る。寛永十五年浜松常に転封。
丹羽氏信
寛永十五年城主になる。
丹羽氏定
生保三年相続、明暦三年没。
丹羽氏純
明暦三年相続、延宝二年没。
丹羽氏明
延宝二年相続、貞享三年没。
丹羽氏音
貞享三年相続、元禄十五年越後に移る。
ここから大給松平家の分家
松平乗紀
元禄十五年小諸より入封二万石。先の松平乗寿の孫で大給松平の分家。
松平乗賢
享保二年相続、三万石昇格、幕府老中になる。
松平乗溫
延享三年相続
松平乗保
天明元年相続
松平乗美
文政九年相続
松平乗喬
天保十三年相続
松平乗命
安政二年相続、最後の城主、明治二年岩村藩知事、後に子爵。
❷八幡神社
創建は承久年間(1219年〜1221年)加藤景廉の死後、長男の遠山景朝が城内に鎮守杜として八幡神の分霊を歓請したものが始まりと伝えられて居ます。
承久三年(1221年)に景廉が死去すると御霊が配神として八幡社に歓請され景廉の木像を神像として安置した。
歴代岩村城主、家臣達から崇拝され社殿の造営や絵馬などが奉納されました。
明治6年(1873年)に岩村城が廃城になると多くの建物が破却され八幡神社も現在地に遷宮されました。
八幡神社には創始者・加藤景廉の御霊も祭神に加えられているため、例祭では武並神社の祭神・遠山景朝が神輿に乗って、八幡神社にいる父・景廉に逢いに行くといった形式が、寛永八年(1631年)に第二代城主・松平乗寿(大給松平宗家)が創始以来行われています。(岐阜県指定重要無形民俗文化財、昭和55年)
❺大名墓地
岩村町の大名墓地には、初代岩村城主・松平家乗が眠っています。
家乗は幼少の頃に徳川家康の家の一字をもらい従って、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に与し吉田城(現・豊橋市今橋町)の守備に就いた功により、慶長六年(1601年)に岩村藩に転封を命じられ、当地に菩提寺・久翁山龍巌寺を創建されました。
慶長十九年(1614年)家乗死去すると龍巌寺境内に葬られ戒名・大聖院殿乗誉道見大居士が与えられます。
跡を継いだ松平乗寿が寛永十五年(1638年)に浜松城に移封になると龍巌寺も浜松の境内を移している。
替わって伊保藩(現・豊田市)から入封し、菩提寺である大椿山妙仙寺を旧領から旧龍巌寺境内に移し初代・丹羽氏信、二代・氏定、三代・氏純、四代・氏明が葬られました。
五代・氏音は御家騒動により高柳藩(現・新潟県妙高市高柳)に石高半減1万石で移封となり妙仙寺も随行しています。
替わって小諸藩から松平乗紀が入封すると、小諸にあった松石山乗政寺を岩村に移し、残された妙仙寺の堂宇を利用し先祖の位牌が安置されました。
乗政寺は大給松平氏の領内菩提寺として庇護されましたが、歴代藩主は江戸菩提寺である、東京上野東叡山春性院に葬られ墓碑が建立されます。
明治4年(1871年)に廃藩置県が発令されると庇護者を失い、されに住職が死去したことで乗政寺は廃寺となり、仏像などは関係が深い隆祟院(岩村町大通寺)に移されます。
大名墓地(乗政寺山墓地)は恵那市指定史跡に指定されえています。
まとめ
岩村城下町は東西に長く、また勾配もあります。
一度に載せれればいいですが、細部に説明を加えていこうと思うと、Aの章、Bの章、Cの章に分割しなければ説明ができません。
ご了承ください。