高天神城は現・静岡県掛川市から南へ連なる山地に山城が存在していました。
『高天神城を制する者は遠州を制する』といわれたほど重要な城で、武田氏と徳川氏の争奪戦となった舞台です。
『高天神城の戦い』は都合2度行われましたが、特に天正10年(1582年)の戦いでは武田氏の命運を決定付ける戦いの結果となりました。
高天神城とは、どんな城だったんでしょうか?
高天神城は鶴翁山という100mほどの小山に、駿河・遠江を領した今川氏の支城であった。
▲正面からみた高天井城跡
当時の城主が小笠原氏置でしたが、桶狭間の戦いから駿河侵攻にかけての今川氏の衰退・滅亡によって城主・小笠原氏興・長忠親子は徳川氏についた。
▲高天神城
遠江・駿河の国境近くある高天神城は、徳川氏にとって遠江支配の重要拠点であった。
第一次・高天神城は武田氏に落ちる
当時はあまり堅固な城でもなかった造りでした。
元亀2年(1571年)に武田信玄が引き連れてきた軍を三河・遠江に侵攻してきたが高天神城攻めは一旦撤退した。
翌年元亀3年(1572年)の信玄の西上作戦で遠江を侵攻、高天神城と徳川氏の本拠地浜松城とを結ぶ遠江の要所二俣城を陥落し、そのため高天井城は孤立した。
同時期に武田方の家臣・秋山虎繁が軍を引き率いて遠山景任の跡を継いだ信長の息子・御坊丸、後見人おつやの方(女城主)がいる岩村城を攻撃、ついでに遠山十八城も次々と攻撃する。
この時点では、まだ徳川氏の拠点の高天井城として機能いていました、
しかし、信玄が、元亀4年(1573年)4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道(伊那郡阿智村とされているが浪合・根羽という説も)で死去した。
後も、跡を継いだ武田勝頼もまた高天神城を狙い、武田氏と徳川氏は遠江支配の要としての高天井城を奪い合うことになった。
天正元年(1573年)勝頼は高天神城攻撃の足がかりとして、馬場信房に命じて、甲府盆地から遠江へ出るルート上に、諏訪原城を築かせ、ここを足がかりにして高天井城を攻略しようとします。
ようやく三河失地※1回復に乗り出した家康にとって高天神城救援の余裕はなかった。
※1.失地とは、失った領土。奪われた土地。
兵力に劣る徳川氏は黙認するしかなかった。
その隙を突いた勝頼は、天正2年(1574年)5月に2万5千の大軍を動員し小山城を経由して、遠州東部における徳川方の拠点である高天神城を攻撃した。
いっぽう高天神城を守る、徳川方の小笠原長忠以下1,000人であったため、さっそく武田軍襲来報告と同時に徳川家に救援を求めたが、今現在動かせる兵力は1万の兵でした。
このまま後詰めして武田軍と対峙したところで三方ヶ原の二の舞となるだけ、しかし、信州から南下すると思われる武田軍の別働隊に備えなければならなかった。
家康にとって唯一できるのは信長に助けを請うのみで、信長に救援を要請するも、5月5日から京の賀茂祭に出席していたが、両国の課税のことを命じると5月16日に京都を出立し、5月28日に本拠地の岐阜に帰還した。
さそっく出陣の準備に取り掛かります。
しかし、その頃には高天神城は、武田軍の攻撃で西の丸を失陥し、激しい武田軍の攻撃によって城は本丸・二の丸・三の丸を残すのみとなり、次第に兵領も欠乏していきます。
勝頼は力攻めのみにならず、重臣・穴山信君に命じて城主の嫡男・小笠原長忠の説得工作も進めた。
『武田と小笠原は元をたどれば同じ甲斐源氏で、いわば同族のようなもの。』
『城を明け渡してくれれば城主以下将兵の命を保証し、駿河に新しい領地を分け与えよう。』
長忠は応ずるふりをして戦いを長引かせ、後詰め到着を待ち侘びましたが、援軍はいっこうに現れず、次々と曲輪が奪われいくばかり、6月11日には、本間氏清・丸尾義清らが討死して堂の尾曲輪が陥落。
なんとか堀切に掛かる本橋を落として武田兵の侵入を防ぎますが、残すは本丸と二の丸のみとなってしまいました。
6月14日に信長軍は岐阜城を出陣し、織田の援軍は6月17日に吉田城に到着しますが、時すでに遅し。
翌18日城内で高天神城を本拠とする国衆の小笠原信興が武田勝頼に内通して反乱、息子・長忠は持ち堪えられず降伏した。
こうして、高天神城は武田軍に占領された。
孤立していく高天神城
勝頼の敗者に対する処遇は寛大なものでした。
城主以下兵たちの命を保証したのみならず、『徳川へ戻るもよし、このまま武田の家臣となるもよし』と選択肢を与えたのです。
城主の小笠原長忠は武田の家臣となって富士郡に一万貫の所領を与えられ、大須賀康高らは徳川方への復帰を許されました。
この戦いの勝利によって得た勝頼の自信は大きく、『かの信玄公ですら落とせなかった高天神城を手に入れたのだ!』と有頂天になったといいます。
『織田・徳川恐れるに足らず』といった驕りは、やがて強烈なしっぺ返しとなって跳ね返ってくるのです。
家康 高天神城奪還の準備に走る
その後、高天神城主には横田尹松(ただとし)が任ぜられ、城は大改修され、縄張りは大拡張され、曲輪が増設され、深い堀や崖のような切岸に守られた鉄壁の要塞に、尾根伝いに大規模な曲輪が展開されて「東の峰」「西の峰」に城が分かれさせ、難攻不落の城として生まれかわった。
これは『一城別郭』といって、片方の峰が落ちても、もう片方が抵抗を続けられるという構造になっています。
一方で援軍を出せなかった徳川方は、さっそく高天神城奪還のために馬伏塚城(まむしずか)を改修しており、武田方の動向によっては兵を繰り出す準備を始めました。
そして、その機会は早々と訪れることとなりました。
天正3年(1575年)5月の長篠の戦いにおいて、武田軍は織田・徳川連合軍に大敗北を喫します。
これを好機とみた家康は、すぐさま奪われた諸城の奪還に取り掛かり、同年のうちに二俣城、犬居城・諏訪原城が徳川の手に落ち、横須賀城を新たに築いて高天神城への抑さえとしたのです。
信長は信長で、美濃国岩村城主・武田方の家臣・秋山虎繁と信長の叔母・おつやの方夫婦が守っている岩村城を奪還するために嫡男・信忠を総大将にして送り込んだ。
※上記の岩村城奪還をクリックして詳しい記事が書いてあります。興味ある方は読んでください。
同年8月、高天神城への重要な補給路であった今福友清や室賀満正の守備する諏訪原城が攻撃に曝された。
体制に立て直おしが完了してない武田側の援軍は期待できず、城兵は城を維持し切れなくなり開城し小山城に退却した。
諏訪原城を接収した家康側は名目上の城主に今川氏真を据え、城を改修増強し武田側の大井川沿いの補給路に圧力をかける形勢となった。
高天神城の守将は武勇の誉高いかつての氏真の家臣・岡部元信であった。
城の堅固さと、勝頼の後詰めさえあれば高天神城は安泰と武田方の多くはそう思っていた。
しかし家康の行動はさらに上をいきました。
徳川勢は続けて翌9月に狩野景信・大熊朝秀らが守る小山城を攻めたが、武田勝頼が援軍一万三千とも二万ともいわれる兵で救援したため、徳川勢は小山城を落とすことができなかった。
天正8年(1580年)6月、いよいよ本格的に奪還へ動き出した家康は、高天神城の周囲を取り囲むように6つの付け城『高天神六砦』を築きました。
六砦とは、小笠山砦・熊ヶ坂砦・火ヶ峰砦・獅子ヶ鼻砦・中村砦・三井山砦が8月までに完成し、これらを包囲された高天神城への補給路を遮断し城方の動きを封じ込めるためだった。
第二次・高天神城の戦い
天正8年10月、徳川家康は五千の軍勢を率いて高天井城奪還を図った。
その中には、初代岩村藩主・松平家乗の父・大給松平家宗家の松平真乗もいた。
※上記の松平真乗をクリックすると、より詳しい記事が載っています。興味ある方は読んでください。
家康は力攻めではなく、城の周りに土塁・鹿垣をつくり外部からの連絡を絶ち、本格的な兵領攻めを行った。
一方高天神城の城将・岡部元信は勝頼に援軍を要請するべく甲府へ使者を派遣しました。
ところが肝心の勝頼が動かない、というよりも動けないなかった、というのは、実はこの時期、勝頼は越後の上杉景勝と同盟結んでおり、同時に相模の北条氏政との関係が破錠していたのです。
北条氏政は織田・徳川と結んでしきりに武田領へ侵入を繰り返すようになり、その動きを警戒するあまり援軍を出せなかったのです。
その一方で勝頼は、信長と信長の息子・岩村城主・御坊丸(武田方の家臣・秋山虎繁によって甲斐に人質として送られている)が成長して織田信房(後の織田源次郎勝長、本能寺の変で兄・信忠と共に死す)との和睦交渉を模索しており、下手に動けば和睦に影響するのではという懸念があったというのです。
いずれにせよ勝頼の援軍が来ない以上、高天神城の命運は定まったも同然でした、12月に一旦浜松へ戻った家康は、翌年3月再び本陣へ戻っています。
いよいよ落城が近いことを察したためでしょうか?。
包囲されること9ヵ月。完全に補給を絶たれた武田軍たちは、高天神城で兵領が底を尽き、多くの死者を出す有様となっていなした。
降伏を申し出るものの家康はこれを拒絶、守っていた城将の岡部元信らの進退窮まった武田兵に残された道は一つしかありませんでした。
3月25日夜半、最後の酒宴を催した武田方も残兵は、城門を開いて討って出ました。
一時は徳川の陣を突き崩すなど奮戦を見せますが、衆寡※2敵せず岡部元信はじめ城兵は枕を並べて討ち死にした、その数は688人。
※2.衆寡(しゅうか)とは、多人数と少人数。(人数に差がありすぎて勝ち目なし)
横田尹松は軍艦として籠城していましたが、徳川方の旗指物を拾って徳川方になりすまし、甲斐へ逃げ帰ったといいます。
高天神城には、狭い尾根道があり、『犬戻り猿戻り』と呼ばれているそうです。
尹松はこの尾根道を必死で馬を走らせたといわれています。
まとめ
信玄から家督を受け継いだ武田勝頼は、高天神城を落とした時、敵方の武将・兵らを許した寛大さに比べて、第二次で高天神城奪還した家康は敵方が降伏して来たのに許さなかった、非常な家康か又は信長の司令か、器の大きさが計れますね。
結局武田氏は滅亡してしまいますが、勝頼のように生きたいですね。