ときは天正7年(1579年)の夏、遠州三河で思いもよらない衝撃な事件が起きてしまった。
どういう事件かというと家康の正室・筑山殿と嫡男・信康の死という事件です。
家康がまだ今川氏の人質生活を送っている時に、瀬名姫(後の家康の正室)と結婚させられ幸せに暮らしていた2人、永禄2年(1559年)に嫡男・竹千代(信康)と翌年、長女・亀姫は、桶狭間の戦いがあった永禄3年5月19日(1560年6月12日)の永禄3年(1560年)6月4日(1560年6月27)日に生まれた。
もちろん母は筑山御前(瀬名姫である)。
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正室・筑山殿と信康事件
正式に信長と同盟が締結されたのは桶狭間の戦いから2年後の事。
徳川家康に、織田方から妻と長男が武田と内通してると言って、疑いかけられた、これが事実なのか?
それによって妻・築山殿を殺害、そして嫡男・信忠を切腹に追い込んだ。
同盟国である織田方に、二人の首を届けたとなっていますが・・・。
一体徳川家で何が起っていたのか?
松平元康と瀬名姫
筑山殿は本名を於鶴といい、父は今川家の重臣・関口親永(元の名を瀬名義広と言ってた)、母は今川義元の妹(あるいは井伊直平の孫娘)※1。
※1.井伊直平とは、戦国時代の武将、今川氏の家臣で遠江国の国人・井伊氏16代当主。井伊直虎(いわゆる女城主)・井伊直政の曽祖父。一説には徳川家康の「正室・筑山殿」の外祖父に当たる人物。
瀬名氏の姫という意味で瀬名姫と呼ばれていました。
歳の差はどんもんだったか?
瀬名姫の生年は不詳ですが、たぶん天文8年(1539年)から天文9年(1540年)に出生した可能性が高いので、家康の生誕は天文11年12月26日(1543年1月31日)ですので、歳の差は約筑山殿が2・3歳年上です。
永禄2年(1559年)に嫡男・信康、永禄3年(1560年)に長女・亀姫を出産する。
瀬名姫は、天文17年(1548年)に父が駿河持船城主となった際、母と共に駿府城に上がりました。
翌年、人質の松平竹千代が天文24年(1555年)に元服、今川義元の一字をもらって元信と名を改めます。
弘治3年(1557年)正月、義元の命により、元信と瀬名姫は結婚し、元信は元康と改名した。
足利宗家につながる今川一門の姫を娶らせたのだから、義元は元康を相当高く評価してたと思います。
また、尾張との確執の深い松平を傘下とすることによって、西の守りを固める目的もありました。
名門出身な上に、色白く絶世の美女で、家格式も違っていたし気位も高かった瀬名姫だったから、三河の田舎武士の子で人質生活を送っていいた元康は扱いにくい妻だったに違いないでしょうか?
側室を持とうものなら文句タラタラだから遠慮してたと思う。
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家康にとって吉と出た桶狭間の戦い
永禄3年(1560年)5月、今川義元は織田を制圧するためと、三河を平定するために、2万5千の兵を率いて三河・尾張に進軍していき、誰もが今川方の勝利を信じて疑わなかったが、どっこい信長の作戦にハマり本陣めがけて奇襲、わずか3千騎の兵に敗れた今川義元の首をあげます。
※上記の信長の作戦をクリックして貰うと詳しい記事があります。興味ある方は読んでください。
当主を失った今川兵は混乱、駿府へ逃げ帰る者が続出、その知らせが駿府常にも知らされた。
元康軍は、これ幸いに空き城となっていた松平の拠点・岡崎城に帰還した。
これによって元康は駿府に帰ることはなく、駿府に残した家臣の妻子・また瀬名姫と子供らは人質として不安な日々を過ごしていた。
信長に仕える母(お題の方)の兄・水野信元が仲介役になって織田家と同盟を結ぶことになる。
このことを知った氏真は激怒して、人質として吉田城に残っていた家臣の妻たち13人を串刺しにして殺した。
さらに3月には、重臣であった瀬名姫の父・関口親永にも、娘婿の離反の責任を負わせ切腹をさせた。
瀬名姫たちの命も風前の灯火でしたが、同年の2月に家康は、上の郷城を落とし、義元の甥にあたる鵜殿長照の子息2人と妹を捕らえ、妹を初めての側室(西郷局)とし息子は瀬名姫と子らとを人質交換します。
幽閉の憂き目にあう筑山殿
駿府から助け出された瀬名姫たちは岡崎に移りますが、岡崎城へ入ることをしませんでした。
今川の姫である瀬名姫が、今後の織田との関係に悪影響であると判断したと考えられます。
瀬名姫は正室であるにも関わらず、城下の総持尼寺の片隅に屋敷を与えられ、そこで幽閉同然の生活を送るはめになる。
この時に住んでいた邸の地名にちなみ、瀬名姫は筑山殿・筑山御前と呼ばれるようになった。
永禄9年(1566年)に家康は、朝廷の許しを得て松平から徳川に改名した。
翌10年(1667年)には、嫡男・竹千代(信康)を岡崎に迎えて元服させます。
竹千代(元康)は織田信長の娘・徳姫を娶り、松平信康と名を改めましたが、瀬名姫は(筑山殿)は幽閉されたままでした。
筑山殿が岡崎城に迎えられあのは、嫡男・信康が正式な岡崎城主となった、元亀元年(1570年)の時です。
▲岡崎城
家康はすでに浜松城へ移った後なので、筑山殿は正室の地位を実質的に失っていたということです。
ことの起りはここから始まる
信長の娘・徳姫の12箇条の書
夫・信康は武勇に優れた若者で、家康も”まことに勇将なり“と褒められるほどの武者ぶりの当主でした。
そんな信康と徳姫との間には、二人の姫が誕生したものの、跡取りとなる男子がなかなか生まれませんでした。
心配した筑山殿は信康に側室を持たせようとしますが、今川出身の筑山殿と織田出身の徳姫との関係が悪かったこともあり、徳姫はないがしろにされたと怒ります。
さらに、この側室が旧・武田氏の家臣の娘だったことを知った徳姫は、信康・筑山殿母子の12過剰の罪状を綴った手紙を父・信長に送りました。
その内容は
徳姫は「私の産んだ子が二人とも姫だったことに夫が怒り、夫婦仲が冷え切っている」「姑・筑山殿は私を憎み、武田と内通している」「夫の素行が乱暴で、無益な殺生をして楽しんいる」などなど・・・
この手紙を読んだ信長は、家康に2人を断罪するように迫ったため、家康はやむ得ず命に従ったのが、よく知られている「筑山殿・信康事件」の定説です。
しかし、信長が「信康を殺せ」と命じた記録はありませんし、また、徳姫の手紙も実物が残っているわけでもないし、一体これはどいうことでしょうか?
考えてみれば、娘可愛さと言ってこんな事を鵜呑みにするような信長ではないですね嘘くさい。
そもそも、この頃の織田と徳川は対等な同盟関係だったようで、二人の殺害を決めたのは家康自身ではなかったか?という説が浮上が浮上してきた。
岡崎衆と浜松衆の対立か
この築山殿と信康殺害事件は、諸説ありますが、両方の家臣団の対立がきっかけだというのが現在有力な説です。
なぜなら同じ徳川家で岡崎衆と家康の居る浜松衆とのいざこざが原因か
天正7年(1579年)4月、信康自刃の約5ヶ月前に、後の2代将軍となる長丸が誕生する。
母は側室・お愛の方、元亀2年(1571年)に武田勢・秋山虎繁(岩村城主・信長の叔母・おつやの方と結婚)の戦いで夫を亡くした未亡人で、家康にみそめられて側室になった。
お愛の方の後見人は叔父兼後見人・西郷清員は家康の信頼の厚い忠臣で、酒井忠次の妹を正室に迎えています。
▲浜松城
酒井忠次は古くから松平の重臣であり、家康の叔母を正室としているなど血縁関係でも深く結びついた人物です、
家康からは絶大な信頼を寄せられ、浜松城の家臣団(浜松衆)を束ねていました、
これに対し、岡崎城において信康の家臣団(岡崎衆)をまとめたのが石川数正であった。
石川数正は人質交換の際に死者として活躍し、信康と筑山殿の命を助けた人物で信康の後見人となっていました。
徳川家には、浜松衆と石川派・岡崎衆の間での対立が激化し、徳川家中が分裂の危機にあったようです。
徳川と武田の戦いで、最前線にいるのは浜松衆は武功を挙げ恩賞に預かるのは浜松衆に対して、後方支援に回りがちな岡崎衆は目立った功績を挙げることが出来ず、待遇に差がつき過ぎたため不満は募り、そこを突くように武田氏の調略の手が伸びます。
大岡弥四郎※2のように、武田に内通して家康を亡き者にしようとする者も、また、よく冤罪だったといわれる筑山殿ですが、武田に内通していた可能性が十分あります。
情報戦に強い武田が、取り崩しやすそうな彼女を調略にかけない筈もない。
※2.因みに、大岡弥四郎は、『徳川実起』によると、初めは徳川家康の中間だったが、算術に長じていたため会計租税に試用された後、三河国奥部20余郷の代官に抜擢されら。
普段は家康のいる浜松に居ながら、ときどき岡崎いる嫡男・松平信康の用も務めるようになり両者の信任を得て権勢並びなき者となり増長した。
家康は大岡与四郎の日頃の悪行を耳にするようになり、家康の命で捕われ家財を没収されたが、間も無く釈放された。
これを根に持った弥四郎が小谷甚左衛門、倉知兵左衛門・山田八蔵と共謀し、岡崎城を乗っ取って武田勝頼を手引きすることを書いた、武田方への書簡が発見された。
山田八蔵が変心して家康・信康に訴え出たため弥四郎は再び捕らえられて、浜松城下を引き回され、妻子5人が磔にされたのを見た弥四郎は、岡崎で土に埋められ首を通行人に竹鋸で引かれ7日後に死亡したという。
小谷甚左衛門は甲斐国へ逃れ、倉知平左衛門は討ち取られ、密告した山田八蔵は1,000石加増されたという。
筑山殿の従兄弟である瀬名信輝は、永禄12年に武田が駿河侵攻を開始すると、今川を捨てて武田に寝返っています。
今川の姫である誇りも、正室である誇りも踏みにじられた築山殿が、こういった縁を頼って織田に一矢報いようとしたことも考えられます。
本当の黒幕は酒井忠次か
こうした情勢の中で誕生したのが、生粋の浜松派、純三河産の側室・お愛の方が産んだ男子・長丸でした。
▲徳川家康
「長丸様が誕生したい今、岡崎衆を粛正・武田の影を一掃して家中を纏めるのに、これ以上の好機ははない」
などと考えた酒井忠次が、家康に嫡男・信康を追い落としを進言し、動いていたとは考えられないでしょうか?
酒井忠次は安土城に馬を献上しに上がったとき、信康と筑山殿の内通疑惑について、信長から真偽を尋ねられています。
このとき忠次は否定しませんでした。
徳姫の書状は実在が確認されていませんが、この書状を預かって渡したのも酒井忠次でしたので、信長が真意の程を尋ねたところ反論はしなかった。
家康の信頼厚く、交渉事にも長けていたはずの忠次が、わざわざ「あいつら内通・謀反を企んでいますよ」と匂わせるような言動をしているのです。
長丸とは遠続きである酒井忠次。
長丸が徳川の跡取りになってくれれば、家中での自分の地位も安泰、一石ニ鳥とふんだんです。
ともあれ、このとっ散らかった内部分裂を治めるために、家康は嫡男・信康の処分を決意したと考えられます。
また、その旨を、信康の舅である織田信長に相談することによって同盟関係を維持したと考えれば、信長がいった「筑山殿の思うようにされよ」という言葉も納得出来ます。
筑山殿に関しては「武田との内通」を理由に処分を決めます。
実際問題として、築山殿が武田と内通していたところで、そんなに状況を動かせるほどの力は無かったのでは?と思われますが、この頃進めらていた北条との同盟のさわりとならないように、ということだったのではないでしょうか。
しかし、この時、家康は築山殿はともかく、信康を殺害することまでは考えていなかったと思われます。
信康最期の日々
信康は天正7年8月4日、岡崎城から大阪城へ移されます。
その5日後には堀江城に移されており、翌日、家康は岡崎衆に「今後一切、信康に味方しない」旨の起請文を書かせています。
死罪が確定しているのであれば、起請文を書かせる必要はない筈です。
さっさと切腹させればいい筈です。
これはどいうことかというと、つまり、この時点では信康は助命の可能性があったと思われます。
この後嫡男・信康は二俣城へ送られ幽閉されます。
8月29日、筑山殿は岡崎城から信康のいる二俣城へ護送される途中、家臣・野中重政により殺害か、あるいは浜松城にて自害そたかわわかりません。
どちらにしても、筑山殿はすでに覚悟の上の行動だったと思われます。
筑山殿の首は、信康の傳役・平岩親吉により安土に届けられ、首実験ののち岡崎に返されました。
このことから、「筑山殿は武田と通じて謀反を企てていたため死罪」となったというふれこみをした。
平岩親吉が、その首を届けることで、信康の内通疑惑については無罪と主張したかった」と推察出来ます。
9月5日、家康は北条氏政と同盟を結び、ついで11日、氏政の弟が信長と面会して、対武田包囲網が出来上がります。
危機感を募らせた家康は、「同盟をゆるぎないものとし、花柱の結束を固めるためには、信康と岡崎衆w完全に潰しておくべきだ」と判断したのではないでしょうか。
9月15日、ついに信康は幽閉先の二俣城にて自刃、享年21歳という若さでした。
信康の死後、岡崎衆は不遇に一途をたどって力を削がれていき、やがて石川和正は徳川家を出奔していまいます。
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まとめ
大きな犠牲を払って、一枚岩となった徳川家中、しかし、家康の心中は生涯の汚点として残ることは間違いなない。
嫡男・信康の才能を高く勝っていた父・家康は、徳川の人柱としてしまった後悔して深く悲しんだ。
家康は罪人として亡くなった2人の霊を密かに慰めるため、出奔した石川数正に命じて、築山神明宮として筑山殿を、若宮八幡宮として信康を祀らせました。
慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦いに遅れた秀忠に対して激怒した家康は、「信忠がいればこんなことにはならなかった」と嘆いたと伝わる。
奇しくも信康が自刃して21年が経った、その命日の日のことでした。