家康の異父兄弟って母方だけで6人いて、父・松平広忠の方には、松平忠政(異母兄とも弟ともいわれる)、樵臆恵最(僧:しょうおくえさい)、矢田姫、市場姫、庶子で三郎五郎家元(この人物は架空かもしれない)、内藤信成、いずれも異母です。
家康は父・松平広忠、母は於大の方で正室の子は一人っ子です。
離婚後母・於大の方は、天文16年(1547年)に再婚したのが尾張国阿古居城(現・愛知県阿久比町)の城主・久松俊勝です。
※上記の一人っ子をクリックして頂くと詳しい記事があります。興味ある方はご覧になってください。
2人の間に生まれた子・次男・康元、3男・康俊、4男・定勝、女子では、多却姫・松姫・天桂院と6人、夫・久松俊勝には先妻の子・長男・信俊あり。
永禄3年(1560年)3月に松平元康(家康)は、阿古居城で3人に会って、松平の名字を授けた。
久松源三郎俊勝は、久松俊勝の3男として生まれ、通称源三郎、元服した際に久松康歳と改名、後に松平姓を家康から諱を貰って松平康俊と改名する。
源三郎人質に行く
永禄6年(1563年)に異父兄の家康から今川氏真の人質として駿河国に行くいよう命じられ、永禄11年(1568年)に信玄が侵攻した際、今川家の使いの三浦与一郎が、人質だった久松源三郎ら人質を伴って武田方に転じた。
当時、武田信玄は徳川家康と同盟を結んでいたため、人質だった久松源三郎らは味方が来たから助かったと喜んこんだに違いないが、束の間のこと、実は信玄が家康の人質を手に入れたという意味で政治目的に使うため信玄は喜んだに違いない。
そのため、人質たちが国に戻ることは許されず武田の警護の下に置かれた。
源三郎脱出で信長が小田子に出てくる
今川氏真の元に人質となっていた松平源三郎※1だが、今川氏が信玄に敗れた際、そのまま信玄の人質となる。
※1.松平源三郎とは、家康の異父弟です。
永禄11年(1568年)に甲斐の武田氏に連れてこられ人質生活を送っていたが松平源三郎は、元亀元年(1570年)甲州を脱出した(どういう経緯で脱出したか定かでない)。
この松平原三郎を預かっていた、信玄の重臣・秋山虎繁は責任を償うため、元亀元年12月、兵3,000余騎を率いて東美濃の岩村遠山氏の領地を通って徳川氏の領地の三河へ向かおうとした。
当時、奥三河の土豪の山家三方衆は家康の家臣でありながら、武田氏にも密かに内通していた。
また、岩村遠山氏の当主・遠山景任は武田氏に臣従していたが、この頃には、織田信長の年下の叔母の”おつやの方“を永禄4年(1561年)に妻に迎えており、武田氏と織田氏の両属状態になっていたため、何もしなかった。
秋山軍と上村合戦勃発
このため、徳川軍は秋山軍と衝突、岩村遠山氏は参戦しなかった。
なぜ、参戦しなかったかと言うと、遠山景前の後継者決定の際に秋山虎繁が武田軍の威力を背景に、息子・遠山景任を後継者に就任させたからだろうと考えられる。
他の明知・苗木等の遠山勢は参戦して戦い、徳川方から派遣された奥平定能ら山家三方衆と三河衆2,500の兵は、遠山氏が惨敗する様子を見て、殆ど戦わずして早く退却して各々の居城に逃げ帰った。
小田子合戦
遠山氏は、事前に織田信長に武田軍の秋山勢が迫ってくると伝えていたので、12月29日に美濃と三河の国境の村である小田小村(現・恵那市上矢作町小田子)で秋山勢と戦って、秋山勢は信濃の伊那郡へ撤退して行った。
この頃から、武田・信長の同盟が怪しくなり始めてくる。
今川氏と武田氏が同盟を結んでいた
桶狭間の戦い以前は、今川義元は東海地方の雄であったが、織田信長に敗れたため、次第に勢威が後退、それは後継者の今川氏真の資質というよりは、時の勢いかもしれない。
武田氏との関係に悩んだ氏真、西三河の豪族たちは、尾張の織田信長になびいていったが、氏真は父・義元を討たれため有効な対策を打てずにいた。
越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)が、永禄4年(1561年)小田原の北条氏を攻めるということもあったが、今川氏は、相模の北条氏、甲斐の武田氏との間に「三国同盟」を結んでいたこともあって共闘のため対応しきれなかった。
氏真も手をこまねいていただけではなく、西三河に軍勢を派遣するが、織田方に通じる豪族を抑えることは出来なかった。
永禄6年(1563年)には、遠江国の領主である飯尾氏・天野氏・松井氏が離反するという事態も発生すると家臣団に混乱が広がっていった。
長年の「甲相駿三国同盟」を破棄、新たな同盟を求め、そんな折、武田信玄が織田信長と永禄8年(1565年)に同盟を結んで、信長の養女(遠山直廉の娘)※2▲が、信玄の四男・武田勝頼に嫁がせた。
※2.信長の養女とは、苗木遠山氏の遠山直廉の娘で、母親が信長の妹で信長にとっては姪にあたります。因みに、少し後に永禄10年(1567年)頃、信長の嫡男・織田信忠と武田信玄の五女・松姫(勝頼の異母妹)と結婚してる。)
▲相関図
今川氏真にとっては、織田はにっくき仇敵、その織田と武田が同盟を結んだということだから、信玄に疑念を持つのは当然だった。
これに信玄の嫡男が意を唱え幽閉される
織田・武田の問題は、武田家の内部に亀裂を生んだ、信玄の嫡男・武田義信は今川氏真の妹を妻に迎えているため、今川氏との同盟を続けたいと主張、信玄の意向に反発した。
嫡男・義信派の武将・飯富虎昌は信玄に謀反をしようとしたが事前に発覚し処刑され、義信も幽閉されたが、永禄10年(1567年)に病死してしまった。
その他、内部の今川派は粛清されてしまった。
こうした武田信玄の動きに今川氏真も警戒、信玄と敵対関係にあった越後国の上杉謙信と同盟を結ぼうと画作、しかし、信玄にとっては許すまじき行動なので駿河侵攻の口実ができ、駿府は武田の手中に落ちていった。
氏真は信玄の攻撃を食い止めることができず、掛川城に逃げていった。
順風満帆にみえた信玄の駿河侵攻ですが、今川と親戚の小田原の後北条氏が加勢したことにより武田軍は苦戦、一時駿河から撤退するハメになった。
信玄と家康は「密約」を結んでいて、武田が駿河に侵攻すると後北条氏が今川氏の支援に出てくるであろうと予想されてたので、信玄は駿河侵攻と同時に家康に遠江国に攻めいるいることを求め、家康もこの申し入れを受け入れた。
この頃に松平源三郎が信玄に連れられた。
徳川家康の遠江侵攻は、事前の調略が功を奏し、同国の国衆が続々と家康方に付き順調に進展、ついに、家康は今川氏真が籠る掛川城を攻略するが、堅固な城であったため落城はしなかった。
※上記の掛川城をクリックして頂くとより詳しい掛川城の戦いの記事があります。興味ある方は読んでください。
永禄12年(1569年)3月になっても、城は落ちなかったため、家康は氏真と和議を模索、氏真も和議を受け入れ同年5月氏真は城を開け渡し、北条氏の兵と共に小田原に向かった、これで大名としての駿河・今川氏は滅亡します。