御三家筆頭の尾張徳川家の居城として、慶長15年(1610年)に加藤清正・福島正則など豊臣恩顧※1の西国大名20家に命じ、天下普請として名古屋城の築城を開始し、豊臣方の包囲網と東海道の防衛を固めるとともに、諸大名への抑止効果も兼ねて築城した。
※1.恩顧(おんこ)とは、情けをかけること。ひいき。
初代藩主には、家康の九男・義直がなりました。
また、名古屋城は南方や東方からみれば高低差がほとんどな平城に見えるが、北方や西方からみれば台地の上にある平山城である。
曲輪の配置はほぼ正方形の本丸を中心として南東を二の丸、南面東寄りに大手馬出、南西を西の丸、北西を御深井丸、二の丸の南側に三の丸(現在の愛知県警察本部・名城病院があると子)、五層五階地下一階の天守は史上最大級で最新形式の層塔型。
▲配置図
初代藩主・徳川義直は家康の九男
慶長5年(1600年)1月28日、徳川家康57歳(生年月日1643年1月31日)の時の子で九男として大阪で生まれる。
▲徳川義直
母は志水宗清の娘・於亀(相応院)、義直の童名は五郎太丸(それ以前は千々代丸という幼名であったらしい)。
慶長8年(1603年)の4歳のとき、甲斐国において25万石(24万石とも)を拝領する。
甲州城城代・平岩親吉※2は、このとき傳役を命じられた。
※2.平岩親吉(ひらいわちかよし)とは、徳川氏の家臣、上野国厩橋藩(前橋藩)、尾張国犬山藩主。官位は従五位下・主計頭。徳川十六神将の一人に数えられる。
五郎太丸自身は甲斐に入国せず、父。家康や母・於亀とともに駿府城に居住した。
義直の母・於亀
石清水八幡宮の祠官・志水宗清の娘、母は東竹甲清の娘・龍雲院。
はしめは、竹腰正時に嫁ぎ、竹腰正信を生む、その後死別後、奥務めに入る。
その後、石川光元の側室となり石川光忠を生むも離縁、文禄3年(1594年)21際の時家康に見初められ側室となる。
文禄4年(1595年)仙千代を生むも、慶長5年(1600年)3月に6歳で天折する。
▲母・於亀
仙千代の菩提を弔うため、高丘院(現・名古屋市東区)を建立した。
同年11月、五郎太丸(後の徳川義直)を生む。
清洲から名古屋に移転した理由
名古屋城といえば金の鯱鉾、片方の鯱鉾だけで重さ40Kを超える金が使われています。
ちょっと不思議なことがあります、それは清洲城という城の存在、清洲城があったのは名古屋城の北西現在の清洲駅の南辺りですので、それほど距離は離れていません。
▲清洲城と名古屋城の位置関係
濃尾平野を統治する拠点として使われおり、人口五万人超える賑やかな城下町も広がっていました。
しかし、家康は清洲を廃して名古屋にわざわざ城を築き、城下町もまるごと移転させました。
どうして、そんなことをしたのか、それは、清洲にないものが名古屋にあったから、名古屋城は北から南に広がっていく、なかなか大きな城だった、ところで南北の造りに違いがあるのがわかるでしょうか?
それは、堀です。
北側の堀は水で満たされているのに、南の方は空堀が多くなっています。
これは、どいうことでしょうか。
名古屋城は周りと比べて高い所にあります。
すなわち大台地の上です、この高まりは三の丸のある南へずっと続いています。
北側は城の先でストンと落ちて、そこから先は低地となっている。
実は、名古屋城は熱田台地と呼ばれる南北に細長く伸びる高台の先端に築かれています。
南から近づいて見ると高低差がほとんどない平城に見えますが、北側からは見上げるような高いところに築かれた城に見えます。
ちなみに、名古屋城本丸付近の標高は約14mですが、名古屋駅付近は2mです。
北側・西側とは10mの高低差があれのです。
この台地の北側は湿地、こちらには、幅の広い堀に水を引き入れて防御し台地の上は深い空堀によって断ち切ります。
守りの弱い南側には、侍屋敷や城下町を配し、総構えでこれを囲む名古屋城は特徴がある地形を上手く利用し、名古屋城の南北の堀が違うのはこの地形に理由があった。
清洲城はどうだったか?
川のそばの低地にあった平城です。
関ヶ原の戦いの頃は、福島正則が20万石の大名として入っており、決して小さな城ではなかった」けど、家康は平城である清洲城に、これ以上手を加えても防御には不安が残るんだったら、一層名古屋に台地の高さを利用した新しい城を築いた方がいいと考えた。
清洲城以上の防御を持つ城を求めたのです。
家康は名古屋城をどのように使いたかったか
諸大名に名古屋城の築城を命じたのは慶長15年(1610年)の事、この頃の情勢は全国の大名はたちは、関ヶ原の戦いに勝った家康・江戸幕府に従っているものの、豊臣秀頼の人気は未だ高い。
大阪城にいる豊臣秀頼が徳川家を倒そうと全国の大名に声をかけ時、どのぐらいの大名達が、馳せ参じるのか分からない状態、家康が恐れたのは豊臣秀頼を盟主とする大名達が江戸に攻めて来る事を危惧したことでした。
そのため、大阪城を囲むように彦根城・丹羽亀山城・篠山城など新しい城を次々に築城している。
いわゆる大阪城包囲網です。
名古屋城が築かれたもも同じ目的、包囲網がもうすぐ完成するという頃、最後の押さえとして築いた名古屋城です。
当初、家康は自ら駿府城っで防ぐつもりでいたのですが、この頃になるともっと前線で防御する考え変わっていき、大阪城軍が名古屋城攻略に豊臣軍が手こずっている間に江戸と駿府から援軍を出し撃退しようということ、名古屋城には豊臣の大軍を引き付け一定期間守り抜くという役割が求められたました本丸の周りに四角い車をいくつも並べ各車を細い土橋だけでつなげる独立状態にしています。
これは一部の車が敵の手に渡っても両側から挟み撃ちできる工夫と言われています。
また、本丸の四隅には天守と櫓が立ち、その間に多聞櫓を巡らせています。
南と東の入口は二つの門の間に敵を攻撃する枡形構造となっています。さらにその外側には入口を守るる「人知として馬出しが配置されています。
名古屋城は本丸だけでもしばらく戦える構造、その間に援軍を派遣して敵を撃退するのです。
一見美しく優雅な城にも見えます名古屋城は、いつでも戦える実戦を想定した軍事要塞に造られた城です。