美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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真田幸村は大坂夏の陣で真田丸を造って徳川軍をキリキリ舞いさせる

投稿日:2023年12月9日 更新日:

大阪冬の陣は、慶長19年(1614年)に家康が大阪城に戦いを挑んだ戦いです。

 

 

豊臣側に参戦したのは浪人が多く、その中に、浪人五人衆(後藤又兵衛・長宗我部盛親・毛利勝永・明石全登・真田幸村)がいました。

 

 

関ヶ原の戦いで、豊臣方についた真田幸村・昌幸親子は、西軍敗北後、真田幸村は高野山麓で蟄居生活を徳川家康に命ぜられ、父・真田昌幸と共に、管理の任をおおせつかった和歌山城主・浅野幸長より毎年五十石を支給されて生活をしていた。

▲真田幸村は幽閉の地 高野山蓮華・九度山(ネットより)

 

 

50石では足らず、国元に金を無心又、兄・真田信之(徳川側)の援助を受けながら暮らしていたが、慶長16年(1611年)6月4日に父・昌幸は死去してしまいました。

 

 

そんな中、慶長19年(1614年)10月初旬、大阪からの密使が、久能山の幸村のもとに使者・明石全登が訪れ大阪城入城を促した。

 

 

 

大阪城入城して真田丸を造る

   豊臣秀吉が多くの財産を傾けて築いた鉄壁の城・大阪城ですが、内堀と外堀に水を敷いた上に運河と河川を敷いて敵が近寄れないように、軍師であった黒田官兵衛によって造られています。

         ▲大阪城

 

しかし、この鉄壁に近い城にも弱点があり、その弱点を見抜いた幸村はすぐに大野治長の元へ行き「大阪城の南側の防御が弱いように思われます」

 

 

そこで「私が出丸を作ってここの防御を固めたいと考えているのですが、よろしいでしょうか。」と許可を求めます。

 

 

大野治長は幸村の出撃案を拒否してしまった手前、この案に賛同することにします。

 

 

大野治長から許可をもらうと、すぐに大阪城の南口へと向かい出丸建築を命じ、自ら外に出て戦うことにしたのでしょうか、それには理由がしっかりとありました。

 

 

大阪城の本当の弱点は幸村が指摘した場所より少しばかり西へ行ったところで、ここは平野口と呼ばれる場所で、この地点以外は堀の中に水を通しておりましたが、この地点だけ堀の中に水を通すことがされておりませんでした。

 

 

また、この平野口は水を通していない堀に防御を施さずただの空堀であり、
平野口の前面には野原が広がっておりました。

 

 

そのため、この場所が大阪城で最大の弱点となっており、この近くに幸村が考えた防御拠点を築くことで、敵をここに引き付けて迎撃すれば敵軍が真の弱点に築くことがないであろうと考えて、大野治長に進言したのです。

 

 

こうして幸村は本当の狙いを潜ませつつ、着々と工事を開始していきます。
こうして真田幸村は着々と土木工事を行い、ついに大阪城の弱点であった平野口を守る工事が完了します。

 

 

幸村が作ったのは南北180mほどある小さな城で、この建造物の名を「真田丸」と名づけます。

         ▲六文銭

 

しかし、幸村ここに兵をある程度こもらせてから、自らは真田丸の先にある小高い丘である篠山と言われる地に陣を移します。

 

 

徳川軍がついに大軍で大阪城へ押し寄せます。

徳川幕府軍の軍勢は大阪城の城門に対して全て攻撃できるように配置。
真田丸の全面も徳川軍の大軍が布陣しておりました。

 

 

幸村は早速真田丸まで敵をおびき寄せるため、篠山の前に布陣している前田家の軍勢に鉄砲を射かけて挑発します。

 

 

すると前田勢は幸村の挑発に乗っかり、篠山へ向けて攻撃を仕掛けてきます。

 

 

この様子を見た幸村は篠山にいた全軍へ真田丸へ退却するように指示を出します。

 

 

前田軍は篠山に到着しますが、既に真田軍は撤退したあとであり戦は起きませんでした。

 

 

しかし麓で前田軍に対して再び鉄砲による威嚇射撃が行われると、前田軍は再び前進を開始して、真田丸へ向かって突撃していきます。

 

 

幸村は前田軍が真田丸目掛けて突撃してくる姿を櫓から見て、下にいる将校達へ「俺が合図を出すまで、敵へ一切攻撃を仕掛けるな。」と命令を下します。

 

 

そして幸村は櫓から降りて敵の顔が見える位置まで敵を惹きつけると大声で「撃てぇぇー!!」と叫びます。        ▲イメージ

 

 

すると真田丸にこもっている兵士達は一斉に前田軍へ向けて鉄砲を斉射。
この攻撃によって前田軍に甚大な被害が発生したため、彼らは撤退を開始します。

 

 

また前田軍と時をずらしてやってきた井伊直孝の部隊や寺沢広高の部隊にも大損害を与えます。

 

 

また幸村は隣で激しい攻防戦を繰り広げていた長曾我部盛親の軍勢を助けるため、真田丸から出撃して、敵の側面に突撃を行います。

 

 

この突撃によって長宗我部盛親隊と戦っていた徳川幕府軍は退却していくことになります。

 

 

こうして獅子奮迅の戦いを見せ、自軍の兵の士気を高めることに成功した幸村隊でした。

 

 

大阪城内はもちろん敵である徳川幕府方からも大いに評価を上げます。
そんな中一人の男が真田丸へやってきます。

 

 

徳川幕府方に味方していた幸村の叔父である真田信尹、彼は徳川家康の部下である本多正純の命を受けて、真田幸村を降伏させてこいと言われて真田丸へやってきます。

 

 

幸村は叔父・真田信尹がやってくると城門をあけて叔父を向かい入れ、久しぶりにあった叔父と色々な事を語り合ったあと叔父から「幸村。徳川へ降伏しろ」と説得を受けます。

 

 

幸村は叔父の降伏要請を丁寧に断り、彼を真田丸から徳川の陣へ丁重に送り返します。

 

 

大阪城の首脳陣は徳川幕府軍と互角以上の戦いを繰り広げ、大いに満足しておりました。

 

 

そんな中、徳川幕府から大砲の攻撃を受けてしまいます。

大砲の弾は大阪城の天守閣に直撃し、大阪城へこもっている淀殿達へ精神的にダメージを追わせます。

 

 

その後、大阪城の首脳陣は前線で戦っている指揮官に相談することなく、徳川幕府へ和睦を持ちかけます。

 

 

その後、幾度かの交渉があった後、豊臣家は勝手に徳川家と和議を結んでしまいます。

 

 

徳川幕府が出した条件は、大阪城の外堀を埋めることでした。
その為大阪城の外堀の外にあった真田丸も破壊されてしまいます。

 

 

徳川軍を悩ませて真田丸はこうして短い生涯を終えることになるのです。「
大阪城の首脳陣は徳川幕府軍と互角以上の戦いを繰り広げ、大いに満足しておりました。

 

 

そんな中、徳川幕府から大砲の攻撃を受けてしまいます。

大砲の弾は大阪城の天守閣に直撃し、大阪城へこもっている淀殿達へ精神的にダメージを追わせます。

 

 

その後、大阪城の首脳陣は前線で戦っている指揮官に相談することなく、
徳川幕府へ和睦を持ちかけます。

 

 

その後、幾度かの交渉があった後、豊臣家は勝手に徳川家と和議を結んでしまいます。

 

 

徳川幕府が出した条件は、大阪城の外堀を埋めることでした。

その為大阪城の外堀の外にあった真田丸も破壊されてしまいます。
徳川軍を悩ませて真田丸はこうして短い生涯を終えることになるのです。

 

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大野治長という武将

生年不詳、父は大野定長(佐渡守)で、母は大蔵卿局といい、浅井長政とお市の方の娘・茶々(淀殿)の乳母となったので、淀殿とは乳母子の間柄ですので、淀殿と同年代だとみられます。

 

 

大野治長は、秀吉に仕え馬廻り秀吉のを警護する騎馬武者に就任していました。

 

 

天正17年(1589年)に秀吉が亡くなると、秀吉の子・秀頼の側近に就任、ところが慶長4年(1599年)、徳川家康暗殺未遂容疑で捕らえられ、下野(現・栃木県)に追放されます。

 

 

しかし、翌年に赦免され、関ヶ原の戦いでは東軍側で参戦、戦後、徳川家康の命で「豊臣家への敵意なし」という書簡を大阪城の豊臣家へ届ける使者を務め、そのまま大阪城に残り秀頼を補佐。

 

 

慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件で、豊臣家家老・片桐且元が大阪城を退去すると、豊臣家臣の筆頭となって活躍するも大阪夏の陣にて無能を晒す。

 

 

 

幸村大阪城へ入城後軍議の様子

   幸村は、密使をみて大阪城へ入城する準備をし、まず、ここから脱出しなければ大阪にいけません。

 

 

そのために近隣の村人を呼んで宴会を開き、村人全員を酔わせて翌朝幸村一行は真紅の鎧を着けて紀州久能山を脱出、数日後大麻城に入城成功し、そして共に戦う諸将ね挨拶回りを行った。

 

 

挨拶をした指揮官は天下に名を知られた武将で、後藤基次(通称:又兵衛)・長宗我部盛親・毛利勝永・木村重成などの武将への挨拶を行いました。

 

 

こうして、幸村は徳川を討つための軍議に加わり、徳川軍がどの程度で攻めて来るのか詳細を知ることになります。

 

 

徳川軍は家康を総大将として約20万の大軍で京都を通過、豊臣軍は半分の9万、この差でどうしたら勝つことができるか綿密に軍議を重ねます

 

 

大野治長は、軍議で「大阪城に籠城して徳川軍と戦うべし」と声を荒げて提案した。

 

 

この提案に、戦場を駆け巡っていた武将たちは、大野治長の提案に賛同しなかった。もちろん幸村も賛成しませんでした。

 

 

大野治長が話終わると幸村は、ゆっくりと口を開き「亡き父・真田昌幸から迎撃の秘策を授かっております」と語りました。

 

 

この幸村の言葉を聞いた諸国の武将は「どのような策dですか?」と促した。

 

 

幸村は「父は大阪城に籠城しないで、出撃して京都を支配下に入れろ」とのことです。

 

 

「そして京都を手中に収めたならば全軍で近江の瀬田で徳川軍を迎撃するべし」とのことでした。

 

 

こうして徳川軍と数ヶ月戦えば、徳川方は20万ものの大軍なので兵糧を補給することが困難になり、ここで総大将である秀頼公に出陣してもらえば、豊臣軍勢の士気も上がり徳川軍を粉みじんに撃破することができるのではないでしょうか?

 

 

また、瀬田で戦っている間に西軍の諸大名へ手紙を出し、豊臣に加勢するよう呼びかければ、それなりの大名が集結してくることでしょう。

 

 

そうすれば一度退却した徳川勢が再び豊臣家へ容易に攻撃出来なくなるであろう・・・という作戦」ですと、父・昌幸が残した秘策を披露します。

 

 

この作戦に浪人衆の指摘官たちは大いに賛同し、「ぜひ迎撃策を採用するべし」と、大野治長に詰め寄って採用するべしと促した。

 

 

しかし、大野治長は「秀頼公を戦陣に出すことできん。やはり籠城策で徳川軍と戦うことにする。もはや決定事項である」と言って軍議を強制に終わらせます。

 

 

こうして豊臣家は真田昌幸の秘策を無視して、籠城作戦で戦うこととなった。

 

 

 

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