室町幕府の3代将軍である足利義満は、朝廷の財政面を支援していき、朝廷は、天皇の即位や伊勢神宮の社殿造り替えなど、頻繁に臨時出費があり、資金繰りに困っていました。
以前は国司に税の形で資金を集めていましたが、室町時代になると国司の力が弱まり、それが難しくなり、室町幕府は自腹を切って費用を献上する一方、朝廷に自分で資金を集めてほしいと考えていました。
朝廷と押し問答の末、幕府の守護が国司に替わって税を集めることになり、朝廷の財政面を支援しましたが、足利義満は財政が窮乏※1していた幕府を立て直すため1404年、朝貢の形式で対明貿易を開始。
※1.窮乏(きゅうぼう)とは、貧乏を苦しむこと。
公認貿易船「勘合船」は1404年〜1547年までに17回にわたり渡航して、貿易では日本の2文字を2つに分け割符(勘合)を照合のために使用した。
参加したのは使節団員、水夫の他は大部分が商人で、勘合船の名義は将軍でしたが、実際の経営者は有力守護大名や大寺院で、博多や堺の商人がそれらと結びついて活躍していた。
勘合貿易とは
先ず、勘合※2とは何か?
※2.勘合(かんごう)とは、調べ合わせること。考えあわせること。わが国と明朝との間で、往来の証として与えた割符(わりふ)。割合符。
勘合をもって勘合貿易という。
「勘合貿易」とは、室町幕府三代将軍・足利義満と明(みん)の皇帝・永楽帝の間で行われた貿易です。
公式な貿易船を密貿易や海賊船と区別するために、勘合と呼ばれる札が使用されました。
勘合船には多数の商人が乗り込み、勘合貿易によってもたらされた利益は幕府の経済を支え、また、織物や書画などの輸入品は室町時代の北山文化に大きな影響を与えたのです。
足利義満は若年の頃から明への憧憬※3を深く抱いていた。
※3.憧憬(しょうけい)とは、あこがれること。
応永8年(1401年)足利義満は「明」に貿易をしたと使者を送りました。
日本人を中心に、東アジアで倭寇という海賊が活動していたので、困った明は、日本に対して取り締まりを依頼、この依頼を引き受ける代わりに、明との貿易を開始した.
倭寇の活動
14世紀の半ば頃、日本海から東シナ海の朝鮮半島・中国の沿岸にかけて倭寇と呼ばれる海賊集団が活動、海賊行為が行われていた背景には、日本と高麗で正式な外交が成立していなかったことや高麗が取締りに消極的だったこと原因に挙げられるます。
倭寇の構成員は日本人が多く朝鮮人・中国人などもいたが、国に帰属している意識もないような多国籍の集まりの集団でした。
対馬、壱岐及び肥前の松浦地域が倭寇の拠点であったとされ、朝鮮や中国へ渡り食料や現地人を誘拐、誘拐された人々は奴隷として売買されていました。
倭寇は朝鮮半島の国・高麗を混乱に陥れますが、高麗の武将・李成桂が武力によって撃退。
新たに李成桂が「李氏朝鮮」が建国するなど、東アジアの情勢に大きな影響を与えます。
応安元年(1368年)中国大陸で、朱元璋(しゅげんしょう)によって建国された「明」東アジアの秩序を維持するために海禁政策を実施、そして民間の貿易や一般人の海外渡航を禁止にしました。
さらに日本などの周辺諸国に入貢※4及び、倭寇の取締りを求めた。
※4.入貢(にゅうこう)とは、周辺諸国が中国皇帝に貢物を献上し、皇帝側は恩恵路して返礼品を持たせて帰国させるという国交や貿易のことです。
洪武帝となった朱元璋は、九州の太宰府を支配する征西将軍の懷良親王(後醍醐「天皇の息子)に倭寇の取締りを求めますが、南北朝の動乱の最中にあった懷良親王には倭寇を取締るだけの安定した力なかった為、この要求を拒絶します。
足利義満が日本国王になる
そうした中で明との国交に目をつけたのが、室町幕府三代将軍の足利義満。
足利義満は応永元年(1394年)に将軍職を息子の足利義持に譲り出家しますが政治の実験は渡さなかった。
博多商人の肥富(こいとみ)という人物から明との貿易で莫大な儲けが得られる事を聞いたから応永8年(1401年)に側近の僧である祖阿及び肥富を、幕府からの正式な使節(遣唐使)として派遣します。
翌年、応永9年(1402年)には、明からの使者が国書を持って来日。
足利義満は建文帝から冊封※5を受け、日本国王をの称号を得ます。
※5.冊封(さくほう)とは、中国王朝の皇帝が爵位や封地を与えること。
平安時代の寛平6年(894年)に菅原道真が遣唐使の派遣を中止して以来、厄500年ぶりの中国との正式な国交の回復でした。
明との勘合貿易開始
日本と明との貿易は、永楽帝即位後の応永11年(1404年)から始まり、日明間の貿易は、密貿易や海賊船と区別するために明から発行された勘合符を許可証として行ったため「勘合貿易」と呼ばれた。
勘合符とは木の札に字を書いてから、中央で2つ割りにした物です。
勘合符には、「日本勘合」と「本字勘合」の2種類が存在しました。
共に勘合符には日本の「日」と「本」という字が使用されました。
日本からの船は「本」の札を、明からの船は「日」の片割れの札を持参して、もう一方の札に合わせて照合します。
この勘合符の仕組みによって民間貿易や蜜貿易は制限され、倭寇の活動は一旦衰えます。
勘合船は、寛正6年(1465年)以来、10年に一回ほどのペースで派遣され、公式的には明へ貢物持って行く入貢という形を取ったため、京都五山の僧を正式とした日本の使節団も乗船していましたが、乗組員の役半分を商人が占めていて主な目的は貿易でした。
船の出港地は兵庫が多く、瀬戸内の港で銅や硫黄を積み込み、博多で荷を整え、東シナ海を経て中国の寧波(にんぽー)の浜辺に着岸します。
航海は天候に大きく左右されたため、長期の滞在になったり引き返したりすることもあった。
勘合貿易の取引は北京で行われ、北京では日本の使節団から馬・太刀・硫黄・瑪瑙(めのう)・金屏風・扇などが中国の皇帝へ献上され中国皇帝からは絹織物・銅線などが与えられました。
この朝貢貿易とは別に公的な貿易があり、染料や薬剤として使われる蘇木(そぼく)・銅・硫黄・刀剣などの日本品に対して、銅銭・絹織物・生糸などが支払われた。
また、商人らは私貿易で生糸・絹織物・薬剤・砂糖・陶磁器・書籍などを購入。
これにより、洪武通宝、永楽通宝などの銅銭が大量に輸入され、貨幣が鋳造されていなかった当時の日本で通貨として広く利用されるようになります。
この貿易によって日本にもたらされた織物や書画などは、室町時代を代表する北山文化と東山文化の発展に大きな影響を与えた。
明との貿易は対等取引ではなく、日本から明への朝貢という形であったため、明の権威を示すために日本から輸出品には価値以上の対価が支払われるのが通例でした。
また、関税はなく使節団や商人の滞在費などの経費は全て明側が負担していました。
室町幕府は勘合船に同乗を許された商人から抽分銭※6という輸入税を徴収し、幕府運営における財政基盤のひとつにしました。
※6.抽分銭(ちゅうぶんせん)とは、室町時代に行われた輸入税の一種で、明と貿易した勘合船の経営者である幕府・寺社・大名が、便乗する商人に輸入額の10分に1を課したものです。中国の元・時代に行われていた輸入税「抽分」も、現物の一部を税として徴収するものでした。
永享4年(1432年)と享徳2年(1453年)の2回に渡り明へ渡航した楠葉西忍(くずはさいにん)という貿易商人がいました。
父は天竺人(どこを指すのかは不明、インドもしくはアラビアとも言われるいる)であり、母は日本人です。
楠葉西忍は北京で直接貿易に関わり、銅と生糸・銅銭(中国で明王朝が鋳造した銭貨(などの交易に携わリマした。
その交易の様子が、興福寺に報告され、興福寺の僧・尋尊がb残した
「大乗院寺社雑事記」や「唐船日記」に記録されています。
これらは当時の勘合貿易の実際を知る上での貴重な資料として残っています。
その報告によると、明で購入された生糸は日本で20倍もの価値で取引され、反対に日本から持ち込まれた銅は4から5倍の価値で売られたとされています。
足利義満の死後、4代足利義持は応永18年(1411年)の明の使者の入京を認めず、日明関係を断絶させます。
その理由として足利義持は父・義満の政策に批判的であり、明との主従関係を意味する朝貢形式を屈辱的だとする意見が幕府や朝廷に多かったためだとされています。
しかし、生長2年(1429年)5代将軍・足利義教の代に幕府の財政政策として勘合貿易は復活しました。
幕府の貿易の衰退
応仁の乱、応仁元年(1467年)以降は幕府の権力が衰退し、貿易の実験は堺商人と絡んだ細川氏、博多商人と絡んだ大内氏が振るうようになった。
両者は対立し、大内氏が瀬戸内海の航路を抑えたため細川氏の船は畿内から四国の南岸を経て南九州を回るという南周り回路を通りました。
大永3年(1523年)には寧波で細川氏と大内氏が衝突、「寧波に乱」が起きました。
この衝突では大内氏が勝利し大内氏が独占、その大内氏も天分20年(1551年)が当主・大内義隆が家臣の陶晴賢による謀反で自害し衰退してしまいます。
跡を継いだ大内義長も戦国大名の毛利元就が弘治3年(1557年)に起こした「防長経路」で滅亡し、勘合貿易は終息した。
勘合貿易が断絶することによって再び倭寇の活動が活発して行くのです