美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

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戦国の名医?曲直瀬道三が広めた「飲む処方箋」と天下人たちの秘話

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曲直瀬道三は、永正4年(1507年)〜文禄3年(1594年)の生涯を生き抜いた日本の医師で、道三は号、本姓は、元は源朝臣(宇多源氏)、のち橘朝臣。
今大路家の祖※。

※.今大路家の祖とは、戦国時代から安土桃山時代の名医・曲直瀬道三(初代)の甥・養子である曲直瀬玄朔(二世道三)の息子の今大路道三(今大路親清・玄鑑、三世道三)です。

文禄1年(1592年)、後陽成天皇より「今大路」の家号を賜り、代々江戸幕府の典薬頭を務める曲直瀬家の宗家となりました。

日本医学中興の祖として田代三喜・永田徳本などと並んで「医聖」と称されています。

養子に曲直瀬玄朔があり、後に2代目「道三」を襲名してます。

お正月にお酒やみりんに浸して飲む「お屠蘇」の歴史的普及において、曲直瀬道三は最も重要な漢方医の一人。※.曲直瀬道三(まなせどうさん)と読む。

お正月に健康を願って飲む「お屠蘇(おとそ)、実はこの習慣を日本に定着させた立役者が、戦国時代の「医聖」こと曲直瀬道三だと言われているのをご存知でしょうか?

 

 

単なるお清めのお酒ではなく、元々は「邪気を屠(ほふ)り、魂を蘇(よみがえ)らせる」ための高度な処方箋でした。

 

 

今回は、お屠蘇の生みの親であり、織田信長豊臣秀吉天下人の命を支えた伝説の医師、曲直瀬道三の素顔に迫ります。

 

 

 

曲直瀬道三の「天下人の患者リスト」

曲直瀬道三の名声は凄まじく、診察した人物の顔ぶれを見れば、当時の歴史が動いていたことがわかります。

 

病に倒れた織田信長を診た際、曲直瀬道三の「お屠蘇(健康の処方箋)を与え、信長のような気難しい天才を納得させました。

治療によって回復し感謝の書状が残されています。

 

 

正親町天皇は、脈を診て処方を行うなど、朝廷からも厚い信頼を得ました。

 

 

足利義輝・三好長慶らは、乱世の主役たちも、道三の知恵と技術を頼りにしました。

また、曲直瀬道三は豊臣秀吉に対し、単に薬を出すだけでなく、生活習慣のアドバイスも積極的に行いました。

秀吉が壮年期に差し掛かった頃、曲直瀬道三は『老養書(ろうようしょ)を著して献上しています。

これは現代で言う「シニア向け健康ガイドブック」のようなもので、適度な運動や食事、心の持ちようなどを説いたものです。

 

 

名補佐役、豊臣秀長が重病に伏した際、曲直瀬道三とその養嗣子である曲直瀬玄朔(げんさく)が治療にあたりました。

 

 

残念ながら当時の医学の限界もあり、秀長を救うことはできませんでしたが、この時、道三たちは秀吉に対して病状を詳細に報告し、最善を尽くしました。

 

 

秀吉は道三たちの腕を疑うことなく、その後も玄朔を重用し続け、秀吉自身の最期まで曲直瀬一族が主治医を務めることになります。

 

 

「道三」の名を継承させた信頼は、実は、私たちがよく知る「曲直瀬道三」は、二代目・玄朔もその名を継いでいます。

 

 

豊臣政権下で医療体制を整えるにあたり、秀吉が曲直瀬家の権威を認め、手厚く保護したからこそ、道三の医学は江戸時代へと受け継がれていきました。

 

 

 

日本初の医学専門学校「啓迪院」を設立

曲直瀬道三は自分の技術を独り占めしませんでした。

京都に医学塾「啓迪院(けいてきいん)を創設し、数百人もの弟子を育成しました。

 

 

また、著書『啓迪集』は当時の医学の集大成であり、正親町天皇に献上されるほど価値の高いものでした。

これが後の江戸時代の医学発展へと繋がっていくのです。

 

 

曲直瀬道三が遺したもの

曲直瀬道三が活躍した時代は、常に死が隣り合わせの戦国時代でした。

そんな中で、彼は「理論と実践」を重んじ、日本の医学を一段階上のレベルへと引き上げました。

 

 

今日、私たちが当たり前に受けている「診察して薬を処方する」という医療スタイルの礎を築いた、この「医聖」に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 

 

 

「医聖」曲直瀬道三が信長や天皇を救った日本医学中興の祖

戦国時代の名医・曲直瀬道三は、それまで宮中上流階級のものだった屠蘇散の処方を見直し、性質の強い生薬を除いて安全で飲みやすく改良し、一般庶民にまで普及させました。

 

 

彼が考案した、この改良版屠蘇は、江戸時代に広く親しまれるようになり、現代に続く正月の「無病息災」を願う文化の基礎となりました。

 

 

屠蘇はもともと古代中国から伝わった薬草酒で、邪気を屠り、魂を蘇らせる無病長寿の意味があります。

 

 

曲直瀬道三は、この薬を大衆に広く広めた第一人者であります。

現代への影響は、曲直瀬道三が改良した屠蘇散の構成は、山椒、桂皮、桔梗などで、現代の屠蘇散(ウチダ和漢薬の延寿屠蘇散など)の原型となっています。

 

 

お屠蘇は、山椒や肉桂など数種の生薬を配合した「屠蘇散」日本酒や本みりんに浸した薬草酒です。

 

 

元旦に家族の無病長寿邪気払い(厄除け)を願って飲むお正月の縁起行事であり、1年の健康を祈って朝食前におせちと共に頂くのが習わしです。

 

 

織田信長や毛利元就、さらには正親町天皇まで、名だたる戦国大名や貴族たちが絶大な信頼を寄せた、まさに「戦国時代のブラック・ジャック」とも呼べる人物です。

 

 

医師としての歩みは、比叡山から医学の道へ

京都で生まれた曲直瀬道三(1507年〜1595年)は、当初は比叡山で修行する僧侶になるためでした。

 

 

22歳で下野国の足利学校※1に遊学し、田代三喜は、北関東の古河にあって、その医名は広く知られていました。

※1.足利学校とは、栃木県足利市昌平町にある学校です。

日本最古の学校として知られて国の史跡で、関東の最高学府として、主に儒学、易学、兵学などを教え、室町・戦国時代にザビエルも「坂東の大学」と称した歴史ある学びの場です。

所在地: 栃木県足利市昌平町2338

場所: JR「足利駅」または東武「足利市駅」から徒歩圏内の中心部に位置しています。

内容: 孔子廟(大成殿)や、かつて学生が学んだ方丈などの建物があります、

歴史的意義: 16世紀初頭には約3,000人の生徒がいたとされます。

現在では、学業成就のスポットとしても賑わう観光名所です。

 

 

享禄4年(1531年)に、曲直瀬道三田代三喜の元に参じて医学を学び、天文14年(1531年)に京都に帰って学舎「啓廸院」を設けて八百人と言われる程の多くの医生を育てます。

 

 

 

田代三喜という人物

田代三喜は、室町・戦国時代を代表する医師で、生年は寛正6年(1465年)、没年は天文13年(1544年)あるいは同6年(1537年)ともされ、諸説あります。

 

 

甲斐の永田徳本※2と並び、当時の日本における名医であったとされています。

 

 

田代三喜の経歴は、明らかではないが、のちに編纂※3された伝記によれば、武蔵国越生(現・埼玉県越生町)に生まれ、15歳のときに医師を志して、臨済宗妙心寺派の僧となったといいます。

 

 

そのころ、足利学校で研鑽を積んで、長享元年(1487年)、明(中国)に渡航し、月湖(げっこ)という医師に師事し、李東垣(りとうえん)朱丹渓(しゅたんけい)が主導する自然哲学的な李朱医学を、12年間学んで帰国したとされる。 

 

 

帰国後は、鎌倉円覚寺の江春庵、足利と住まいを変え、永正6年(1509年)古河公方足利氏に招かれて古河に住んだ。

 

 

「古河の三喜」「医聖田代三喜」と称され、その医術にあやかろうとする人々も多く、連歌師・猪苗代兼載は、中風の治療のため古河へやってきて、のちに公方足利政氏と歌を通じて交歓するきっかけとなっています。

※3.編纂(へんさん)とは、多くの材料を集め、または、それに手を加へて書物の内容をまとめること。編集。

※2.永田徳本とは、戦国時代から江戸時代初期の名医、薬草に長け医聖と称された人物です。

牛にまたがり「一服十八文」と書いた薬袋を首から下げて診察し周り、貧しい人々には無料で薬を与えたり安価で診療を行ったとされています。

永田徳本は三河国大浜(現・愛知県碧南市)生まれ、少年期には僧の残夢に学問を仰ぎ、後に月湖道人、玉鼎(ぎょくてい)、田代三喜などから医術を学んでいます。

『傷寒論』(漢の医学書、現在の日本の漢方医学の元となる)を信奉し独自の処方を研究した。

医術を修めると永田徳本は諸国を遊歴し、後に甲斐に招かれ武田信虎・信玄父子の侍医隣る。

 

 

のちに豊臣・徳川に医師として仕え、曲直瀬家代々の初代・道三も、三喜の高弟である。

 

 

そのころ、足利学校で研鑽を積んで、長享元年(1487年)、明(中国)に渡航し、月湖という医師に師事し、李東垣、月湖という明代の医師に師事し、李東垣朱丹渓の学理を継承した「李朱医学」は、中世日本において田代三喜が明から持ち帰り、曲直瀬道三らによって大成された、「後世派」と呼ばれる医学流派の基幹です。

 

 

朱丹渓が主導する自然哲学的な李朱医学を、12年間学んで帰国したとされる。

 

 

帰国後は、鎌倉円覚寺の江春庵、足利と住まいを変え、永正6年(1509年)古河公方足利氏に招かれて古河に住んだ。

 

 

「古河の三喜」「医聖田代三喜」と称され、その医術にあやかろうとする人々も多く、連歌師猪苗代兼載は、中風の治療のため古河へやってきて、のちに公方・足利政氏と歌を通じて交歓するきっかけとなったとされています。

 

 

また、還俗した田代三喜より医学教育を受けた医師・曲直瀬道三は、門人として三喜の志を後継する。

 

 

特に三喜の晩年に、曲直瀬道三が口述筆記をしたという『涙墨紙』は、道三が感極まって流した涙で墨をすってしるしたものと伝えられているものであります。

 

 

曲直瀬道三は、天皇・将軍・諸大名たちを治療することで名声を得たのみならず、田代三喜より学んだ医学を元にして、京都において啓迪院という医学校を設立し、医学教育を行った。

 

 

田代三喜がもたらした最大の功績は、「僧侶ではなく、医師が医学生や研修医を直接教育する」という仕組みを、曲直瀬道三とともに確立したことにある。

 

 

医学が宗教から分離することが、医学の近代化の第一歩であるが、その医学の近代化の先鞭をつけたのが田代三喜である。

 

 

医学教育の基本となる医学は、漢方医学からドイツ医学へ、そして現代医学と時代と共に変遷するが、医師が医学生、研修医を直接教育するというスタイルは、現代まで受け継がれています。

 

 

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