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初代・徳川家康から15代・徳川慶喜まで徳川将軍の死因と年齢

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 徳川家康から始まる徳川幕府は慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)まで15代の徳川慶喜まで、およそ265年続いた。

 

 

その間もっとも長命なのは最後の将軍である徳川慶喜76歳、もっとも短命なのが7代将軍・家継の7歳である。

平均寿命は50才。

 

 

初代家康日光東照宮として祀られ、最後の将軍は谷中墓地に葬られている。

 

 

その間は、天台宗の寛永寺7人と浄土宗の増上寺6人に葬られています。

今回は徳川家康が亡くなった元和2年(1616年)から始まる将軍職15人の葬儀を見てみよう。

 

 

日光東照宮に埋葬されているのは、初代・徳川将軍の家康と三代将軍・家光だけです。

 

 

増上寺の敷地が狭くなって改装される際、歴代将軍の遺体を発掘し医学的調査がされました。

 

 

当時は、ほとんどが土葬なので、肉体が残っているか残っていないのか研究者達は興味を持って調べた結果、ミイラ化していなかったが、ある程度の肉体は残っていたので、いろいろの事が分かったようです。

 

 

増上寺は江戸時代は、幕府の手厚い保護を受けていたので寺の入口に、「賽銭無用」の立て札する程、裕福な寺院でした。

 

 

明治以降は「徳川ゆかりの寺」として薩長新政府に睨まれる始末で財政的には非常に苦しき運営になったそうです。

 

 

 

徳川歴代将軍の死因と葬儀

松平元康から1563年に松平家康に改名し、永禄9年(1566年)に東三河・奥三河(三河国北部)を平定し三河国を統一した年に、11月21日に足利義昭が朝倉義景を頼り、一乗谷に移動、12月29日に徳川に改姓した。

 

 

朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け「徳川」に改姓した、これに伴って、新田氏系統の清和源氏であることも公認させた。

 

 

 

初代将軍・徳川家康73歳

天文13年(1543年)に松平広忠と於大の方との間に生まれ〜元和2年(1616年)に亡くなっています。

      ▲初代将軍・徳川家康

 

当時の記録での死因は天麩羅が原因とされていますが、もともと家康は胃が悪く胃癌だったと言われます。

 

 

葬儀は神式(唯一神道)で久能山に葬られ、後に日光東照宮に改葬されています。

 

 

2代将軍・徳川秀忠58歳

秀忠の死因は、当時の記録(いわゆる『徳川実紀』)によると、寄生虫病と記録されています。

      ▲2代将軍。徳川秀忠

 

しかし実際は、「狭心症であったのではないか(『カルテ拝見 武将の死因』)」という見立てが医師の分析から出されてます。

 

 

それまで比較的健康だった秀忠が、とつぜん「胸痛」をわずらって倒れ、世間を驚かしたという記述があるのが寛永8年(1631年)7月にあります。

 

 

「胸痛」という言葉がはっきり出てくる7月30日、それから数えて約2週間ほど前の7月17日にも不調を訴え、秀忠は倒れています。

 

 

江戸城内にも秀忠の父・家康を祀った東照宮があったのですが(通称・紅葉山)、そこに参拝中、秀忠が「ことにくるしげにまします(=ことさらに苦しそうになさっている)」様子になったそうです。

 

 

苦しみの理由は書かれていませんが、これもおそらくは胸痛だったのでしょう。
天正7年(1579年)〜寛永9年1月24日(1632年)満52歳と10ヶ月。

 

 

父・家康と母・側室の西郷愛子の間に生まれる。養母・阿茶局。

遺命により葬儀・法令とも倹約を旨とし、霊牌の他新しく作るべからずとあった。

 

 

1月25日天海僧正、及び崇伝を招いて葬式の内定があり、27日に遺体を深夜密かに増上寺の幽宮(かくりのみや)に移すことになった。

 

 

この時に土井利勝及び近臣10人ばかり奉供するのみで、僧侶は一人も従わせなかった。

 

 

こうして葬儀は行わず密かに増上寺に移された。

増上寺に葬られた秀忠の棺は、隅が丸い長方形の桶で、長さ82センチ、幅67センチ、深さ91センチの檜製の早桶であった。

 

 

この棺は輿の中に納めたまま埋葬された。
そして棺のなかには小石がぎっしりと詰められていた。

 

 

遺体は髷を結った上に、冠を付けていた。
副葬品はシャクと太刀で、棺の外「鉄砲一梃、香炉などが置かれていた。(資料:鈴木尚「骨は語る」)

 

 

秀忠の正室

秀忠正室は、崇源院(いわゆる一般的には江(ごう)といって、信長の妹・お市の方、浅井長政の3女上の姉は初(常高院)京極極高次の正室、長女は淀殿。)

 

寛永3年(1624年9月15日)江戸城において死去。

9月15日遺体は増上寺に移され、それから約1ヶ月後の10月18日、遺体はあらかじめ麻布の「我善坊」に設けられた茶毘所で火葬にふされた。

 

 

増上寺から茶毘所まで千間の間にみしろを敷き、その上に白布を10反敷いて、1間ごとに竜幡を立て、両側に燭をかかげた。

 

 

茶毘所は百間四方を槍で垣根をつくり、四方に門をつくって各門に額をかけ、幡を10本ずつ立てた。

 

火屋(火葬場)の内構は60間で、こもの上に絹を敷き4つの門を立て、2方に種々の供物を供え、四隅には花を飾る紗篭を置く。

火屋の右には4つの堂を建てて物具を陳説した。

 

 

龕前堂には額をかけ、ここにも食物を供えた。

白張着を着た100人により龕が運ばれた。錦の天蓋をさしかけ、諸大名、垣の内千間の間を、1間ごとに護衛がつき、外は足軽が警備をした。

 

 

行列は1番大たいまつ、左右に大香炉、奉行の僧2人、持者2人、侍2人。次に春湖他6人のあと、左右灑水の僧2名、花篭の僧10名、次に左に日天、右に月天、左開敷2本、右末敷2本、次に紗篭2本ずつ、次に幡が左右5流ずつ、楽器と続く。

 

 

あとより、宮仕の女房の輿60ちょうが続き、各自香をたく。下火は増上寺広度院が法文を演説。鎖がん役は寿経寺以下十何寺の僧衆がこれを行う。

沈香を32間あまり積み重ね、一時に火をつけたため、その香煙は1キロ以上にわたってたなびいたという。

 

 

三代将軍・徳川家光48歳

慶長9年(1604年)〜慶安4年(1651年)4月19日の夜よりにわかに病が重くなり、かたわらの酒井忠勝らをかえりみて、「私が死んだ後も魂は徳川家康の祀られている日光山にまいりて、仕え祀らんと願うゆえに、遺骸を​​慈眼堂のかたわらに葬る」よう命じた。

そして翌20日48歳で死去した。

 

 

23日に家光の霊柩は上野寛永寺に移され、毘沙門堂門跡公海がこれを迎える役を務めた。

 

 

東照宮の造替をした徳川家光は、寛永寺で葬儀が行われた後、輪王寺の大猷院に葬られた。

 

 

朝廷より日光東照宮に遣わされた例幣使は、必ず間々田八幡宮に参拝する習わしとなっていた。

 

 

久能山東照宮は、徳川家康が埋葬された場所で、家康を祀る東照宮の創祀とされる。

 

 

金地院東照宮は、徳川家康の遺言により南禅寺の塔頭金地院に建立された。

4代将軍・徳川家綱40歳

4代将軍・徳川家綱は寛永18年(1641年)~延宝8年(1680年)の時代には、由比正雪らによる江戸幕府覆滅をはかった慶安事件がある。家綱は延宝8年5月8日病死した。40才。

 

 

5月9日、土井能登守を寛永寺に使わし、遺命により寛永寺に葬る旨を、門主に伝え、12日、大森信濃守はじめ近侍していた者はみな落髪して、葬送の供奉することを許された。

 

 

13日、納棺御束帯、小姓稲垣市正等3人、ならびに納戸4人がこれを勤めた。

 

 

棺のなかには太刀、脇差しが納められ、14日午後6時本丸より霊柩を寛永寺の本坊に移した。

 

 

この日、増上寺にも霊牌を奉安して法事をするように依頼し、午後5時、大久保加賀守、寛永寺より僧正5人を同道し、棺を迎えるため北の子橋から登城した。

 

 

出棺にさいし、鈴木修理、御車に棺を載せ、小姓、納戸方は車を引き出し、篭の者、中間等80人あまりで棺を担ぐ、北の子橋の上で棺を低い台である小榻(こしじ)に下ろし、僧正以下5人による読経が行なわれる。

 

 

午後8時、棺は高位者の詰める黒書院の上壇に安置される。

棺の前に霊供七五三(本膳七菜、二の膳五菜、三の膳三菜)を供え、衆僧あつまるなか、導師は光明供を修行した。光明供がおわり、酒井雅楽頭他順次焼香し退出する。

 

 

15日午前5時すぎ、凌雲院僧正以下の衆僧は黒書院の下壇に参集、夜の勤行懺法を修行する。

 

 

上壇にお茶、ご膳、お菓子が供えられる。

小姓衆がこの役を勤める。勤行がおわり大久保加賀守ほか順次礼拝する。
小姓衆はご膳を下げ、衆僧退出する。

 

 

12時黒書院に衆僧参集、小姓今朝と同じくお茶、ご膳、お菓子を供える。凌雲院は光明供を修する。声明(しょうみょう)の一種である修僧錫杖を唱える。

 

 

法事がおわり、加賀守等4名は葬地を巡見する。
午後4時、黒書院に衆僧集まり、初夜の勤行が定刻に行なわれる。
26日、寛永寺において葬礼が行なわれる。

法会は諸天讃光明供。

 

 

九條錫杖は導師毘沙門堂門跡の公海が行なう。

27日、寛永寺において法事始め。夜10時より光明供が行なわれる。6月1日、二七忌で「法華八講」が行なわれ、昨夜より市井営業を許される。

 

 

5代将軍・徳川綱吉64歳

まことに悪評だった生類憐み令を出した五代将軍・徳川綱吉、正保3年(1646年)~宝永6年(1709年)は、宝永6年1月3日当時流行していた麻疹にかかった。

 

 

そして同月10日午前6時ころ死亡。64才。

22日霊柩を北はね橋より発引(「引」は柩車の前のひもを引く意)

 

 

寛永寺の本坊に移す。途中の道に面した家々では提灯を出し、水桶をならべ、窓に蓋をした。

 

 

順路は一橋より護持院のそばを通り、筋違橋より広小路に出、山の仁王門より仮のおまし(天皇や貴人の御座所)に入る。

 

 

棺は上段に安置する。凌雲院僧正ら迎えに出る。

かくて七五三に常の御饌を捧げ、導師にて光明供を修する。

 

 

28日、寛永寺にて大葬が行なわれる。

12時僧正実観封地の法を修し、午後4時ころ七五三のご膳を供え、終わって公弁親王焼香され、衆僧光明供をとりおこなう。

 

 

午後6時頃霊柩を仮のおましより、塋域(えいいき=墓)に移される。

 

 

 

[衣装]

出棺お供の面々は熨斗目(のしめ=無地の練貫(ねりぬき)で、袖の下部と腰のあたりに格子縞や横縞を織り出したもの。

 

 

小袖に仕立てて、士分以上の者の礼服として麻上下(あさがみしも)の下に着用)。

 

 

 

[葬儀の役職]

 法事総奉行(大久保加賀守)、及び(1)法事御用、(2)小普請(建築)奉行、(3)小普請方、(4)大工預棟梁がある。
 東叡山(寛永寺)法事御用には、
(1)寺社奉行、(2)大目附、(3)勘定奉行(金銭出納)、(4)賄方(食事のまかないを担当する)、(5)奥祐筆、(6)表祐筆(文書係)、(7)儒者、(8)勘定組頭、(9)代官、(10)漆奉行。

 

 

 

[葬儀列次]

先頭に高提灯(左右一対)、その間に馬小道具。次に手提灯一対、徒士2名(かちざむらい=徒歩で行列の先導をつとめる)、御目附、小人目附2名、御具足をはさみ徒士目附2名、長刀、徒士頭2名、小姓2名、同朋頭2名、大久保加賀守、位牌、出家、香炉持ち、お棺、4名の僧侶、松平右京太夫、稲垣対馬守、お側衆、等が続き、鑓、お膳奉行、草履とり、槍・鉄砲 徒押等が続き、最後に挟筥(具足や着替用の衣服などを中に入れ、棒を通して従者にかつがせた箱。江戸時代には定紋をつけるなど武家の格式を表示した)と馬槍が最後を勤める。

 

 

6代将軍・徳川家宣51歳

家宣は寛文2年(1662年)~正徳2年(1712年)9月14日、風邪をひき10月14日死亡、51歳。

家宣の遺体は20日に増上寺に移され、11月2日葬儀が行なわれた。

 

 

昭和33年改葬にあたって墓の調査が行なわれた。宝塔の基段を取り除くと石槨があらわれ、この蓋を開けると銅の棺があった。

 

 

銅製の棺の蓋のしたに木炭が敷き詰められ、その奥に木棺があった。
この銅棺は、中に500キロもある水銀朱が納められていたため、吊り上げるにあたって強力なクレーンが使用された。

 

 

さて木棺は厚さ3.6センチのヒノキ製で、上面の形は一辺が1メートルの正方形、深さは1.15メートルである。

 

 

棺の中には紙袋に詰められた石灰と朱のかたまりが見つかった。

死装束は束帯姿で、副葬品として、太刀2本、そして袋の中に筆、墨つぼ、毛ぬき、耳かき、鏡などが納められていた。(「骨は語る」40)

 

 

7代将軍・徳川家継7歳

第6代将軍・徳川家宣の4男、母は側室で浅草唯念寺住職の娘・お喜代(別名:月光院)。

 

 

宝永6年(1709年)~正徳6年(1716年)4月30日午後4時に亡くなられ、明けて5月1日、喪が公表された。5月17日、遺体は増上寺に移された。

8代将軍・徳川吉宗68歳

延享2年(1745年)9月25日に将軍職を嫡男・家重に譲るが、家重は言語不明瞭で政務が執れるような状態では無かったため、自分が死去するまで大御所として実権を握り続けた。

 

 

吉宗は将軍を引退してから6年経った寛延4年(1751年6月20に死去)死因は再発性脳卒中と言われていますが、また、中風で尿の具合が悪くなったためといわれる。遺言により霊廟はつくらず、綱吉の廟に合祀された。

 

 

[葬列]

6月10日、午後4時ころ棺を御息所(みやすどころ)から、庭に下ろした。

 

 

ご用係り、役人がこれを受取り、それから行列は山里御門、吹上大道通り、矢来御門までの間を、畳幅3間を通りに敷きつめ、その上を棺を引いていった。

 

 

表の土間に手子とんびの者200人が詰め、ろくろで巻き上げる。
矢来御門までは公方徳川家重、大納言、及び奥女中が棺に付き添い、奥から矢来御門まで、手子とんびの者頭分27人が取り直し、御門外から上野までは、200人のとんびがこれを担いだ。

 

 

このうち100人はおかごの者、黒くわ等の軽いご扶持ち、また100人は御用聞き、町人願いの当日召し抱えられたものたちによって棺が担がれた。

 

 

この200人はサラシ帷子一重、麻黄麻上下一具ずつをつけ、かつぎ棒はひのき製で長さが9寸である。

 

 

担ぐ者は無言で、道を回るときは拍子木を打って合図する。棺のなかには、ホウレイ綿におよそ4斗7升の朱が混ぜられている。

 

 

大変な重量のため、筋違橋御門外より担ぐ人の息遣いが荒くなり、上野黒門前でしばらく休憩して、それから上野へ入った。

 

 

この槨(棺を納める外枠)のなかに寒水石(結晶質石灰岩)が詰められ、その石ひとつひとつに法華経の文字一字ずつがかかれ、その数およそ6万5千という、このすきまには石灰が入れられている。

 

 

このなかに入る黄金は11箱、ほうれい綿6駄(一駄は36貫)という。

 

 

 

石槨の蓋石に刻まれた銘文

「貞享元年甲子10月21日誕生、在位凡30年、辞職7歳寛延4年辛末(宝暦元年)6月20日斃、68歳、勅贈太政大臣一位、賜號有徳院、葬于東叡山(寛永寺)、従五位下守大学頭藤原信充拝書」(「快晴紫雲録」より)

 

 

9代将軍・徳川家重50歳

1711年~1761年の生涯。

このときの葬礼のについての、触書きが出ている。

『浮世の有様』によると、明4日、江戸表において、大御所さま尊棺葬送のある間、いよいよ諸事つつしみ、火の元は注意するよう指図があった。

 

 

10代将軍・徳川家治44歳

家治は、1737年~1786年の生涯、天明6年8月はじめに水腫にかかり、9月6日危篤状態になり8日午前死亡、50歳。死の直後に田沼意次による暗殺説が出た。

 

 

11代将軍・徳川家斉68歳

1773年~1841年1月30日、家斉の死去にともない、江戸に触れ書きが出された。

(1)町中鳴りものならびに作事などをしない。(2)火の用心について入念に行なう。(1月末日)
次に葬儀についての触れ書きをみてみると
(1)出棺のさい、町の道筋、町屋の分は2階の窓を前日より戸を締め切り、錠をかけ封印する。(2)表の戸は当日の朝より建ておき、透き間がある分は、目張りをすること。家内の者、老人、子供は親類にあずけ、その他のものは表店におかない。

火を使うことは当日朝8時にはやめる。(2月23日)

 

 

 

出棺矢来御門より龕堂までの行列。

馬、馬方、馬のり、沓箱、挟み箱、台傘、曲録、徒士、具足、徒士目付、具足奉行、小人目付、目付、徒士目付、小十人組、長刀、小十人頭、香炉、同朋これを持つ、老中、出家、棺、かご者頭、若年寄衆、小姓、やり、中奥小姓、御番、目付、徒士目付、やり、ぞうり取り…よりなる。

 

 

12代将軍・徳川家慶60歳

家慶は1793年~1853年の生涯、6月5日ペリーが来航した達しがあったため、6月7日、家慶は日光東照宮で祈祷を行なっている。

 

 

そして6月12日ころから暑気あたりにかかり、1ケ月後の嘉永6年(1853)7月22日に死亡している。行年61歳。

葬送の式は8月4日増上寺にて浄土宗式で実施された。
(1)御棺において壙四方の結界作法、 (2)伝通院等による棺前焼香三拝、鎖龕(棺の蓋を閉ざす)作法終え退出、(3)霊厳寺等、棺停安拝し迎檀林誦経咒願、(4)学頭(僧の役名)先ず灑水(しゃすい=水をそそぐこと)を行なう、(5)天光院鈴を持ち先導、(6)霊巌寺他敬従持念、(7)香炉を捧げる、(8)御棺左右に常照院敬い侍(はべる)(9)衆僧表門の左右で拝迎、(10)楽人龕前堂表に列居、(11)導師龕前堂に奉侍、(12)僧衆を拝迎し先進列行、龕前堂左右に着座平伏、(13)御棺入(この時導師、龕前堂木戸北方より拝迎終え、南方の曲録に倚る)(14)御棺を龕前堂に奉安、(15)武家改着装束、(16)棺前に机を設置し香花燈明を献じ、(17)菓子を奉献する、(18)灑水(常福寺勤奉、(19)導師着畳、(20)伽陀(偈)(月窓院勤奉)(21)導師献香咒願、(22)広懺悔(威徳院勤奉)(23)龕前疏(上奏文)(弘経寺勤奉)(24)後唄(花岳院勤奉)(25)四誓偈、(26)回向 十方、(27)導師北方の曲録に倚る、(28)大僧正ご拝礼、(29)庭上の行列、(30)御棺出 庭上、(31)供奉役人先進、(32)合はち、(33)発楽、(34)行列先進徐行僧衆 誦根本咒、(35)鈴に従い散華、(36)伶人 廟所仮堂の外南方列立、(37)持物の衆徒随時六観音牌の側に止る、(38)奏楽、(39)供奉役人 拝殿南北奉侍近侍のほか供奉諸士御門外に止る、(40)導師仮堂の外南方曲録に倚る、(41). 御棺仮堂内に奉安、(42)僧衆圍のうち 廟堂の外左右列立、(43)机を設置して香花燈明を献じる、(44)奉香机、(45)灑水、(46)四智讃発音、(47)合はち、鐃(にょう=銅鑼(どら)の一種)、(48)導師献香礼拝おわり曲録に倚る、(49). 鎖龕(さがん)(50)起龕(きがん)(51). 奠湯(てんとう)(52)奠茶(てんちゃ)(53)念誦、(54)導師進 棺前献香引導、(55). 誦甘露咒、(56). 導師奉圍遶(かこいめぐらす)御棺終わり着畳、(57)咒願終わり下堂、つづいて南方の曲録に倚る、(58)僧衆退き圍之外左右、(59)拝殿に香机ならびに膝つきを設置、(60). 大僧正拝迎役者随従、(61)奏楽、(62)名代参堂礼拝、(63)下堂楽奏、(64)大僧正南方曲録に復座、(65). 僧衆拝殿着座、(66). 讃偈を称える(光学院勤奉)(67)設御机(役僧これを行なう)(68)典供、(69)導師着座献供咒願、(70)願生偈、(71)回向文(阿弥陀本誓願の文)、(72)阿弥陀称号(六字詰七変)、(73)武家拝礼、(74)導師退出僧衆斑列随従、(75)収供具、(76). 奉■ 棺壙役者両僧如法監護、(77). 武家退出。
以上

 

 

13代将軍・徳川家定35歳

1824年~1858年の生涯、安政5年7月3日、家定はコレラとなり、幕府はこれまでのオランダ医学解禁令を出して、7月4日に私立種痘所の伊東玄朴らを召して将軍の治療にあたらせた。

 

 

しかし将軍は7月7日に35歳で死去。

8月18日に寛永寺に葬られる。

 

 

7月3日の解禁令により、西洋医学の普及の先駆けとなったのである。
8月18日、遺体を寛永寺に移す。

 

 

棺の左は落髪した刀の小姓2人、右に脇差の小姓2人。途中龕前堂のうちにある廟まで、代わり代わり役目を勤める。

 

 

和泉守に導かれ、棺は北詰橋を越え、幕張のうちへ入棺、白綾の覆をかける。仮門を出棺。竹橋の方に棺をおく。

 

 

このとき仮門の外に田安中納言ほか、棺前にて読経、礼拝の行事を行なう。

 

 

終わってから出棺。和泉守等かご台にまわり、出棺にさいし拝伏。

 

 

それより寛永寺まで先立つ。和泉守とその供は棺の脇に立つ。

午前9時、休息のあとかご台より出棺。

 

 

先に小納戸2人、次に香炉2、 左右に落髪の小納戸4人、代わり代わり北詰橋より門外、晏、取建所、幕張うちまでこれをもち、同所門のそとにて香炉を供の同朋に渡す。

 

途中これをもち寛永寺龕前堂まえに向かう。

 

 

14代将軍・徳川家茂21歳

1846年~1866年の生涯、胃腸障害、脚気が原因で慶応2年7月20日、大阪城中で死亡。21歳。

 

 

幕府は8月20日にはじめて喪を発し、家茂の遺骸は船で9月6日江戸に運ばれた。

 

 

23日葬儀が行なわれ、芝の増上寺に葬られた。

 

 

15代将軍・徳川慶喜76歳

1837年~1913年の生涯、最後の将軍はそのあと46年間の余生を送った。

 

 

大正2年11月22日、午前4時、肺炎による心臓麻痺でで死亡した。

葬儀は寛永寺内に新設された齋場で神式で行なわれた。

 

 

葬列の模様は野村敏雄の『葬送屋菊太郎』に描かれている。

「さすがに前公方様を慕う人々の群れは、寒風をおして谷中の斎殿から上野界隈まで、三橋から腰越、清水堂、桜ケ岡、博物館前と押し寄せて、葬列の沿道は人波で埋まった。

 

 

中でも江戸名残の火消組が一番から十番まで十コの纒(まとい)を押し立てて待ち受ける姿は、いかにも公方様の葬儀にふさわしく、さらに旧幕の昔をしる老人たちの見送りも、すこぶる多かった。

 

 

山内では木戸銭をとって見物人を店の奥によびこむ茶店まで出た。

交通は伝通院まで遮断され、その道筋は榊や生花がすきまもなく飾られた。

 

 

慶喜の柩は唐破風型の桧の白木造りで、輦台の長さは2間、高さ6尺、正面と側面は金色まばゆい葵の定紋を打ち、白丁に担がれてしずしずと谷中の墓地にむかう。

 

 

葬列につきそう遺族は狩衣(かりぎぬ)姿に黒綾織の烏帽子、藁靴、竹杖、婦人は白無垢の紋服、下げ髪で、そのあとから旧幕臣たちの列が続いたとされている。

 

 

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 渋沢栄一は血洗島で生を受け、尊王攘夷に明け暮れ、従兄の喜作と共に京都へ出て、平岡円四郎に出会った事により道が開けて行った。   一農家の人間が、一橋家の家臣になって慶喜公に謁見できるなんて …

岩村城最後の城主・松平乗命が新政府に加担して明治四年廃藩置県を迎える

 まず、岩村藩最後の城主・松平乗命とはどのような人物か? 大給松平家の文派八代、岩村城七代藩主、嘉永元年(1848年)六月に江戸屋敷に誕生する。                       …

岩村町の観光スポット石室千体佛の由来と賑わっていた頃の貴重な写真

岩村の千体佛の行事なんて幼き頃だから、何時やったか覚えがない? ましてや、どいうお祭りか訳もわからず餓鬼連中と出かけた記憶だけあります。 当時は石室千体佛のことを「石のカルト」と呼んでいたような気がす …

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。