美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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武田信玄の西上作戦で家康軍との「一言坂の戦い」「二俣城の戦い」とは

投稿日:2023年2月2日 更新日:

こんにちは、歴史好きの中年のオジンですが、我が故郷は美濃国岩村です。

 

最近テレビは時代劇か歴史探訪の番組しか観ません。

作家の佐伯泰英先生の小説が好きで読んでいますが、その中で岩村のことが書いてあったりすると、うんうん・・・と成程と関心します。

 

 

信玄・信長・家康・光秀などは岩村にはきたか来ないかわかりませんが、信長の跡取りの信忠は家の近くの大将陣公園にきてます。

 

 

その公園で友達と遊んでいました、当時は何にも知らずに遊んでいたからもったない事をしました。

 

 

岩村城主は、親交があった武田氏と遠山氏(岩村城)は、城主・遠山景前の死去によって、後継者選びを嫡男・景任にするか、遠山一族が景任では若いため揉めに揉めたが、信玄が入って嫡男・遠山景任に決めた。

 

 

その後、信長によって叔母・おつやの方景任政略結婚させた。

 

 

そのため岩村遠山氏武田方織田方の板挟みになってしまった。

また、おつやの方武田氏を無碍にしてため、これに危機感を覚えた信玄西上作戦を機に岩村城を攻め三河にも攻め入った。

 

 

西上作戦を元亀3年(1572年)9月から元気4年(1573年)4月にかけて甲斐武田氏の遠征。

 

 

武田信玄兵を3つの隊に分けて、遠江国・三河国・美濃国への同時侵攻を開始した。

 

 

山県昌景は、『当代記』によれば秋山虎繁と共に別働隊を率いて信濃から東美濃・三河へと侵攻していき、遠江に入って一言坂の戦いは家康との戦いになった。

 

 

信玄率いる22,000人の本体(うち北条氏の援軍2,000人)は、10月3日、甲府より出陣し、山県隊と同じく諏訪へ迂回した後、青崩峠から遠江へ侵攻。

 

 

 

一言坂の戦い

元亀3年(1572年)武田信玄織田信長包囲網に応える形で西上作戦を発動する。

 

 

10月13日に遠江国の二俣城を巡り、武田信玄と徳川家康の間で起きた戦いで家康軍の退却戦である。

 

 

武田信玄の西上作戦の過程に行われた戦いであり、二俣城の戦い(あるいはそれを含めて三方ヶ原の戦い)の前哨戦であると言われています。

 

 

信玄は武田軍を3隊に分け。山県昌景率いる5,000の兵を三河国へ、秋山虎繁(信友)率いる伊那衆を東美濃岩村城攻めへと先行させる。

※上記の岩村攻めをクリックしてもらうと記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

そして10月10日には、自ら率いる本隊3万(北条氏政からの援軍を含む)を信濃国の青崩峠から徳川氏領の遠江へと侵攻させる。

      ▲位置のイラスト

 

本隊の侵攻が始まると北遠江の国人だった天野景貫は即座に武田方に寝返り、居城・犬居城を明け渡して侵攻の先導役を務める。

 

 

犬居城で信玄は、馬場信春に5,000の兵を預けて、西の只来城に向かわせ、そのまま南進して要所の二俣城へ向かわせた。

 

 

一方、山県昌景隊は、すでに降伏していた奥三河の山家三方衆を加えて、遠江へ転進し信玄本隊との合流を図っていた。

 

 

二俣城は、徳川氏の本城・浜松城だけではなく、その支城・掛川城・高天神城のも繋がる要所で、徳川氏にとって遠江支配の要の支城であった。

 

 

しかし、徳川氏は三河国への対処などもあって、防衛には8,000人余しか動員できず、さらに織田氏からの援軍も望めない状況だった。

 

 

それでも武田軍を天竜川を渡らせたくない家康は、徳川四天王の一人本多忠勝と内藤信成を偵察に先行させ、自身も3,000の軍勢を率いて出陣し、天竜川を渡河した。

 

 

しかし、この時、武田軍は家康軍より予想以上に早く進軍していた。
先行していた本多忠勝・内藤信成率いる偵察隊は武田軍の先発隊と遭遇してしまった。

 

 

すぐ偵察隊は退却するも、武田軍は素早い動きで追撃し始め、太田川の支流・三箇野川や一言坂(現・磐田市一言)で戦いが始まる。

 

 

徳川氏の望まぬ形で戦いが始まり、兵の多寡※1もわからす家康は撤退を決めた。

※1.多寡(たか)とは、多いか少ないかということ。

 

 

本多忠勝の活躍

本多忠勝大久保忠佐は徳川本体と内藤信成を逃すために殿(しんがり)をかって出て、一言坂の下という不利な地形に陣取った、

 

 

急戦で陣形もままならぬ本多忠勝隊を、武田軍先方の馬場信春隊が突撃し、3段構えの陣形のうちの第2段まで打ち破った。

 

 

また、武田信玄の近習である小杉左近は、本多隊の退路を阻むために、本多隊の後方(一言坂のさらに下)に先回りし鉄砲を撃ちかけた。

 

 

これに対し、本多忠勝は、大滝流れの陣をとり、坂の下で待ち受ける小杉隊に適中突破し逃走を図る。

 

 

これは無謀な突撃で本多隊は死兵であったが、左近はこれを迎え撃たず、道を空けるように指示して本多忠勝隊を見逃した。

 

 

このとき、忠勝は左近に名を聞き感謝の言葉を述べたと言われる。

こうして本多忠勝の働きによって徳川家康率いる本隊は天竜川を渡り切ることに成功し、撤退を完了させた。

 

 

無事に撤退を終えた家康はホットしていたが、武田軍は10月16日の二俣城を包囲してしまう。

 

 

これに対して家康は対処することが出来ず、12月19日に二俣城は陥落してしまいます(二俣城の戦い)

 

 

これによって家康の遠江支配は大きく揺らいだ。

二俣城陥落と前後して、家康は織田氏の増援を受けており、陥落後、武田軍の次の狙いは浜松城とみて籠城戦を決め込むも武田軍にうまく誘い出され、三方ヶ原で敗退(三方ヶ腹の戦い)した。

 

 

一言坂の戦いの後、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭※2に本多平八」という本多忠勝の武功を称える狂歌。落書きが登場した。

※2.唐の頭とは、ヤクの毛で作られた兜のこと。中国四川省やチベット原産(唐の原産)当時日本では珍しい品であった。一説によれば家康は難破した南蛮船から、これを入手したらしい。また、後年これを真似した狂歌として「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と歌われ。

 

 

これは武田軍の小杉左近が書いたものと言われている。

 

 

 

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