大河ドラマでは家康夫婦は、ホームドラマに出て来るようにふんわかとした暖かい家庭のように描いてますが・・・。
本当にそうだったでしょうか?
果たしてドラマみたいに仲がよかったのか?
家康は今川で人質生活を送ってた時代に、今川義元によって、今川の家臣の関口氏純が瀬名氏を名乗っていた姫・瀬名と言われる女性と結婚することになり、家康の初恋の女性は同じ今川ファミリーの亀姫(詳細は不明)ともいわれています。
関口氏澄は永正15年(1518年)瀬名氏2代目当主・瀬名氏貞の次男として誕生。
瀬名氏は今川氏から分かれて駿河国庵原郡瀬名村(現・静岡市)に移り住んだ一族、関口氏澄は今川氏から関口家の養子となり、主君・今川義元の義妹と結婚して瀬名姫を生んだ。
瀬名姫は女性であったがゆえに生年も享年も本名も不明、肖像画も木像もなく、いい伝えで肌の白い超絶美人であったと伝わります。
幼名の名前が分たないため、ここでは一般に名が通っている「瀬名姫」で通すことにします。
家康の初恋相手が、亀姫は大きくなってお田鶴の方※1とも言われています。
※1.お田鶴の方とは、後の引馬城主・飯尾蓮龍室、、名は不詳ですが「阿鶴」や「鶴姫」と推定されるとあります。
はたまた「亀姫」ともいわれていました。
瀬名姫と仲の良い今川氏一族であることは間違いありません。
後のお田鶴の方です。
瀬名姫が家康にカチ〜ンきた出来事
家康は義元の勧めで瀬名姫と結婚、二人の間には嫡男の信康と長女の亀姫が誕生、この亀姫のネーミングでカチーンと来たといわれる。
それは、元康(家康)の初恋の女性の名前を亀姫と名付けたとして夫婦仲が悪くなったという伝承もあります。
男性なら思い当たる節がある方もおられますかも?
それはとにかく瀬名姫とは仲が悪く岡崎と浜松の別居生活、以後子には恵まれまれない事が物語っています。
信長に疑われる
家康にとって妻子にとっても地獄の決断が来る。
徳川家康と信玄の跡を継いだ甲斐の武田勝頼と何度かの衝突を挟み、睨み合い続けるなか、天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が急死する。
これにより越後国で後継者争いが生じたため、対 武田同盟は機能停止状態に陥った、それと同時に織田信長は信玄や朝倉・毛利を通じて信長を打倒しようと計ってた足利義昭を京都から追放する。
一方、武田勝頼も天正3年(1575年)の長篠の戦いで信長・家康連合軍に大敗し、家臣の山県昌景・馬場信春ら多くの重臣を失う。
このため織田・徳川による武田反攻が始まるので、忙しく外に力を割く余裕がなかった。
美濃国岩村城にいる武田の重臣・秋山虎繁が援軍を要請するにも軍を出せず、信長の嫡男・信忠軍に侵攻される。
※上記の秋山虎繁をクリックすると、ここに秋山虎繁と女城主・おつやの方が結婚して織田軍に攻め滅ぼされ二人とも磔にされた記事があります。興味ある方は読んでください。
永禄10年(1567年)5月家康の嫡男・信康は信長の長女・徳姫と結婚し、共に9歳であったが形式の夫婦とはいえ、岡崎城で暮らす。
そのため、同年6月に家康は同年6月に浜松城に移る、岡崎城は信康に譲った。
7月に元服して信長より偏諱の「信」を与えられ松平信康と名乗る、元亀元年(1570年)に正式に岡崎城主となった。
だが、13歳のため彼に岡崎城の統治は無理なので複数の家老・町奉行が職務を代行していった。
だが、天正7年(1579年)の夏、突如悲劇に見舞われる。
甲斐の武田勝頼との内通疑惑が起こってしまた。
岡崎城にいる筑山殿と嫡男・信康の疑いである、信康は信長にとっては義理の息子で翌年2月元服した信康は正式に岡崎城主となったが、まだ、13歳の彼に岡崎城の統治は無理なので、複数の家老や町奉行が職務を代行した。
当時、家康の実効支配下にあったのは三河一国と遠江国の大部分と遠江国からさらに駿河国をも併合するのなら、尾張との国境に近い岡崎では西へ偏りすぎで、信長の助言に従い、浜松へ移って正解だった。
家康一生の最大のミス
家康は浜松城にいて、嫡男が岡崎城にいて、二元体制となるのはやはりまずかった。
岡崎から、自分のまったく感知しない命令が出ているのを知った家康は、譜代の家臣が岡崎城下に居住する制度を改め、それぞれの所領に帰還させるが、それでも岡崎の不穏な空気は解消されなかった。
岡崎の家臣の密告により、大事が発覚したのは武田軍が足助城を攻略した前後のこと. 信康の家老・石川春重や岡崎奉行の大岡弥四郎、松平新右衛門らが武田勝頼に内通していた。
三河国を武田氏に引き渡すのと引き換えに、信康を当主として徳川家の存続を認めるという内容で、信康の守役を拝命していた鳥居親吉の家臣、山田重英※2が密告したことにより、家康に知られたのだった。
※2.山田重英(やまだしげふさ)とは、徳川家康の家臣、尾張源氏の一流である山田氏の末裔で、『岡崎東泉記』によれば家康の嫡男・松平信康の重臣・鳥居久兵衛の家臣だったという。
永禄6年(1563年)三河一向一揆蜂起の際には戸田忠次・鳥居重正らと共に佐々木上宮寺に入って一揆方に与してた家臣だった。
天正3年(1575年)同輩の小谷甚左衛門に誘われ、大賀弥四郎らの計画する武田氏内通の謀議に加わるが、しかし、山田重英は途中で思い直して事の次第を信康に報じ、大賀弥四郎らの陰謀を事前に食い止めることとなった。
この功により碧海郡柿崎に500の加増を受け、また、「訴人八蔵」の異名があったという。
後に同郡大浜や額田郡上地も加増されたが、天正16年(1588年)岡崎で同輩の渥美弥三郎と口論の末殺害されたため、所領はすべて没収となった。
天正17年(1589年)養子の重次が敵討ちを果たした事が認められ、その翌年に300石を与えられて家名を再興した。
すでに塩商人から武田軍の不自然な動きについて情報を得ていた家康は、山田の密告により確信を抱き、それからの対応は迅速だった。
一味が行動に出るより速く一網打尽にした。
大岡は7日間におよぶ鋸刑の後、妻子ら5人とともに磔刑に処され、石川と松平は切腹を命じた。
松平一門の清蔵親宅も失脚を余儀なくされるなど、粛清の範囲は参加者全体に及んだ。
この事件に信康と築山殿がどう絡んでいたかは定かでないが、家康は2人の関与はなかったとして、信長には知らせずにいた。
けれども、そんな大事件をいつまでも秘密にしておけるはずがなく、事件から4年後、信康の正室の徳姫からの書状で、信長の知るところとなった。
徳姫は信長の長女。9歳前後で家康の嫡男である信康に嫁ぎ、娘2人を産んでいたが、男子を欲する築山殿が複数の側室を用意したことが原因で、夫婦関係も嫁姑関係も険悪化していった。
徳姫は、積もりに積もった憤懣を父・信長に書き送った中に、先の謀反事件も含まれていたのだった。
信長と家康の関係は時期によって異なるが、この頃は家康が信長に従属する立場にあることは明らか、そのため信長の命令であれば嫡男でも処断するしかなく、それとは逆に信長の許諾を得ずに廃嫡することはできなかった。
家康にとっては、よい潮時であったかもしれない。
信康を失うのは悲しいが、側室・◯◯が三男の長丸(のちの秀忠)を産んでくれたから、世継ぎの心配は不要となった。
同盟相手を織田から武田に改めよ、との声を完全に潰し、家臣団の意思統一を図るうえでも、いずれ信康を処断しなければならず、信長に先の謀反事件を知られた今こそ、信長の命に抗しきれずとの言い逃れもできるから、処断するに絶好の機会との徳川四天王の一人酒井◯◯の助言だった。
信康が二俣城で自刃させられたのは天正7年9月15日のこと。
築山殿もそれより半月ほど前、おそらく浜松への護送中の輿の中で自害した。
家康は幽閉にとどめるつもりでいたようだが、頼れる者すべてを失った彼女にそれは地獄でしかなかった。
筑山殿との関係は冷え切っていた
徳川家康と築山殿の夫婦関係は冷え切っていた!? 家康と築山殿の関係は、少なくとも家康が浜松城へ移転したときには冷え切っていた。
長女の亀姫が生まれてから10年が経とうというのに、築山殿はそれから1人も子を産んでいない。
死産や早産の可能性はあるが、供養した記録が皆無なことからすれば、もはや同衾することもなく、双方とも意思が消え失せていたと見てよいと思います。
家康が築山殿が浜松城へは同行せず、息子・信康が城主を務める岡崎城に留めたのは露骨な意思表示であると思われます。