徳川家康は織田信長暗殺に関わっていたのか、関わっているとしたらどういうふうに関わってたのか?それとも無関係なのか。
戦国最大のミステリーです。
家康は信長によって正室・築山殿と嫡男・信康を死に追いやった人間だから仇であるし恨みがある。
積年の恨みを晴らすため、合法的に敵を討ちたいと思っていた事は否めない。
一方信長は、光秀を使って家康を謀殺しようとしていた、ところが築年の信長の振る舞い、長宗我部元親と信長の取次をしてたのに約束を保護され面目丸潰れ件、家康の饗応役であった任を解かれ、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命じられた件、我慢も限度がある。
光秀は家康暗殺を裏切って家康と手を結び、天正10年(1582年)6月2日早朝に討ち行った。
まことしなやかな家康黒幕説
信長は武田氏を滅ぼした後、家康を“用済み”と判断し、光秀を使って家康を謀殺しようとしたが、光秀が裏切って家康と手を結び、逆に信長を殺害してしまった。
信長は京都・本能寺に手勢わずか数十名を従え止宿泊。
そして信長は光秀に秀吉援軍を命じ、光秀は6月1日居城の丸亀城を出、水色桔梗雨の九本旗をひるがえし、10,700余りの軍勢を率いて我が敵は本能寺にありと誰が告げたか全軍に告げて、本能寺に攻め込んで信長を討った
※上記の敵は本能寺にありをクリックして頂くと、行ってない証拠の新聞があります。興味ある方はご覧になってください。
この時点で家康は、京都の南にある堺(現・大阪府堺市)の町にいた。
本能寺と堺は直線で約60Kmです、休みなく歩けば12時間の距離、なぜ堺にいたかというと、当時最大の商業都市だった堺の町を観光旅行をしていました。
信長の勧めで接待されていました。
家康は5月中旬に信長から招かれて、安土城で信長の接待を受けていました。
いよいよ観光旅行に出かけた家康
天正10年(1582年)5月20日信長は家康に対して、京都・大阪・堺・奈良をゆっくり見学すると良いと言って観光旅行を勧めます。
翌日、家康は信長の部下・長谷川秀一を案内につけられて、安土城から堺へ観光旅行へと出かけました。
この時、信長の重臣・丹羽長秀は、明智光秀の娘婿で信長の甥・津田信澄と共に大阪で家康を迎えるように命じられ大阪で待機していました。
信長の嫡男・織田信忠は京都の妙覚寺に滞在して家康の案内をするため京都にきています。
家康は5月21日から本能寺の変が起こった6月2日早朝まで、堺を中心に観光旅行を楽しんでいました。
そして6月2日の朝、家康は親しくしていた三河出身の豪商・茶谷四郎次郎から、本能寺で信長が明智光秀に討たれた事を知らされた。
家康はそれを知ると、急いで逃亡しなくちゃならないと考え、伊賀越えルートを選択、その理由は最も安全で確実な方法だった。
※上記の伊賀越えをクリックして頂くと記事があります。興味ある方は読んでください。
理由は簡単で、光秀軍が家康を見逃すはずはないから、ここでちょっと待てよ光秀は信長暗殺には参戦していない、織田信長の同盟者である家康が、本拠地である三河へ帰還してしまうと軍団を引き連れて光秀軍に敵対することは明らかでした。
ここで疑問、軍団を引き連れて来ると言っても時間がかかる。
これも光秀と打ち合わせの範囲か?
出なければ天海坊和尚が現れる訳がない。
※上記の天海坊和尚をクリックすると記事があります。興味ある方は読んでください。
なんとも事実がない作文は作れるが、光秀が本能寺に参戦してないことは事実が判明しました。
もし家康が黒幕であるならば、このような危険を冒してまで信長暗殺を教唆※1するだろうか?
※1.教唆(きょうさ)とは、人を唆(そそのか)して、その人に犯罪を実行する決意を生じさせることです。教唆の方法については、限定されていません。お金を払って、人に犯罪を実行させることでも、もちろん教唆犯となります。
以上のことから、家康は信長暗殺に関わっているかという問題に対しては、「否定的」と答えることが妥当だと思います。
もちろん、歴史的な事実は絶対的なものではありませんし、新たな発見や解釈があれば見直される可能性もあります。
ですから、この問題に興味があるならば、さまざまな資料や論文を読んで自分で考えてみることが大切だと思います。
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