家康は慶長5年(1600年)において豊臣家の中で同士討ち石田三成(西軍)と徳川家康(東軍)の間で天下を二分する戦いを関ヶ原で決戦した。
いわゆる関ヶ原の戦いです。
これに勝った家康は全国にあった豊臣家の蔵入地※1、摂津・河内・和泉の60万石程度を取得した。
※1.蔵入地(くらいりち)とは、戦国時代から江戸時代における領地区分の一つである。大名もしくは政権・幕府の直轄地のことである。所領のうち。家臣へ与える知行地に対する。
だが、勝ったからといって天下が取れた訳でもないです。
一様、家康は豊臣家に臣従した。
当時、豊臣秀頼は文禄2年(1593年)8月29日生まれで、満7歳、父は豊臣秀吉母は信長の妹・お市の方の長女・茶々(淀殿)の子です。
豊臣秀頼の正室・千姫は慶長2年(1597年)4月11日生まれ、慶長8年(1603年)に7歳で秀頼と結婚し、従者と共に大阪城・秀頼の元に嫁いだ。
家康と秀頼の関係は義祖父になる。
これを考えると家康は、まだ実質的には天下を治めていないことになる。
家康が関ヶ原の戦いで勝って慶長8年(1603年)2月12日に征夷大将軍に就任した時62歳です。
そして江戸に幕府を開き、日本全土の統治体制の構築を進めていき、全国の大名を従え江戸を発展させていきますが、障害になるのが豊臣家の存在でした。
かつて豊臣秀吉が関白の地位について天下人になり、家康は秀吉に臣従していたため、関ヶ原の戦い後も、徳川家康は豊臣家の家臣のままでした。
そういった経緯があったため、家康が将軍の地位を得て名実ともに天下の主になった後も、豊臣家だけは徳川家の臣下になっておらず独立状態を保っていた。
なんとかしなければ思案六法
偉大な秀吉の子で豊臣家の当主である秀頼は、まだ幼く秀吉の死後地位を継承することは出来ず、成人したあかつきには豊臣家に政権を返すのが道義的には正しいことはわかっていました。
が もちろん家康は、そのつもりはなく対応に頭を悩ませていていた。
頭のいい家康は将軍職を秀忠に継承
家康が征夷大将軍になって、わずか2年後には、将軍職の地位を3男・秀忠に譲った、これにより、以後も徳川が政権を代々継承していく意向を内外に示すことになる。
そこで家康は秀頼に京都ま出向いて将軍になった秀忠に面会するよう要請しますが、秀頼は拒絶。
わざわざ行けば、将軍・秀忠に臣従することになる。
そんなことは、家康は承知のうえ、家康が豊臣家に政権を返上する意志がないことを明確にすることになったわけです。
このことによて、豊臣家が徳川家への反発を招く原因になっていきます。
もしも秀頼が関白になってしまえば、豊臣家の天下相続を認めることになり、政権が大坂と江戸の二重構造になってしまいます。
苦労して政権を豊臣家から奪った家康がそれを認めるはずもありませんでしたが、あまりに豊臣家を軽視すれば、京都・大坂の民衆や、豊臣家と関係の深い西国の大名たちからも反発を受けることになります。
そのため、家康は自身の引退で空位になった右大臣の地位を秀頼に譲る、という対応でお茶を濁すことになります。
右大臣も十分に高い官位であり、将来は関白になれるのかもしれない、という希望を豊臣家に持たせ、感情を和らげる目的もありました。
そして秀忠は右大臣よりも下の内大臣であり、官位では秀頼の方が上回るようになっています。
こうした措置により、権力では将軍の秀忠が勝っているものの、権威では秀頼の方が上、という状態になりました。
こうしてだましだまし、といった感じで家康は秀忠への将軍位の継承を終えました。
もともと家康の将軍就任の際に、秀頼が同時に関白に就任するのでは、という予想がありましたが、これは実現しませんでした。
秀頼が関白になれなかった訳
さすがの秀吉も判断を間違えました。
というのも、関白を選んだおかげで「将軍は子供でも跡を継げますが、関白は大人でないと継げない」ってことです。
将軍というものは、もともと「ミニ天皇」であり象徴に過ぎない、だから子供でも構わない、しかし、関白は天皇の親代わりですから、貫禄ある立派な大人でなければ、世襲は出来ない事を確認してない秀吉は。
そのうえで「天皇の後見人に相応しい威厳がある」と衆目が認めなければ関白になれないから秀頼でも関白になれなかった。
平安時代の歴史を、秀吉がもうちょっと勉強していればわかることでしたが、後の祭り鎌倉時代以降の藤原氏が、「五摂家」というシステムを作って関白を持ち回りしていたのもそのためです。
秀吉は秀頼が生まれたからといって、子供のうちは関白に出来ないから、秀頼が成長するまでは、関白秀次を「粛清」してはいけなかったのです。
それで家康は征夷大将軍を選んだとも言えます。
家康本気で豊臣家を潰す
秀頼を滅ぼす要因は、いくつかありますが、人気者の秀頼(豊臣家)を潰すことは何らかの難ぐせを見つけないといけない。
関ヶ原の戦い後11年経って秀頼は若武者になっていた、最も家康が恐れていた事態が現実になってきた、慶長16年(1611年)に、二条城で会見することになった。
▲二条城
この年は、御陽成天皇の譲位と政仁(ことひと)親王(後水尾天皇)即位の儀式が4月12日に執り行われる予定でした。
家康はこれに先立ち、19歳になった秀頼を二条城へ呼び出し会見を要請しました。
いわゆる「二条城会見」です。
3月28日、秀頼は辰の刻(今でいうと、午前8時頃)に二条城に到着すると、家康は庭上まで出向き、秀頼が慇懃(いんぎん)に礼をします。
その後、家康からお互いの御礼あるべしと、対等の礼をしようと提案しますが、秀頼はこれを堅く斟酌(しんしゃく)し、秀頼が家康に礼する形となりました。
饗応の場では、高台院(秀吉の正室・寧々)も相伴しました。
この後、秀頼は豊国社を参詣し、大阪城へ戻りました。
大阪や京都では会見が無事に終わった事を悦んだと伝えられています。
家康は、この時豊臣家を潰そうと決心した。