紫式部と藤原道長の出会いは架空の恋か歴史の真実の恋かを検証したいと思います。
藤原道長と『源氏物語』の作者・紫式部との恋は架空の恋か?
歴史の真実で、愛人関係にあった(式部は道長の妻妾だった)とする説は、昔からあります。
例えば、歴史学者の角田文衞氏(元・大阪市立大学教授)は「道長が紫式部を妻妾とし、そのうえで彼女を新皇子につける腹心の官女にしようと意図したとみるのは、極めて自然で無理のない推測とされるべきである」としています。
▲式部と道長は架空の恋か真実の恋か?
紫式部はご存じ『源氏物語』の作者として知られる文化人、一方、藤原道長は時の朝廷の実力者。
この2人が活躍した分野は違いました。
NHKの大河ドラマでは、幼い時から知り合いでドラマは進んでますが、実際に知り合いだったか、どうかはわかりません。
が実は
お互いに影響をを与え合った間柄となったことは事実だと思います。
紫式部は文化を、道長は政治を動かし、また、逆に政治が文化を育てた.この時代二人はどんな人物でどんな関係にあったのか?
▲二人の関係は?
紫式部は元々、下級貴族の家に生まれた女性でした。二十代半ばで親の年ほど離れた藤原宣孝と結婚して娘を一人出産しますが、結婚からわずか3年程で夫と死別します。
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藤原道長との出会い
ドラマでしたら、今更出会いでもないですが、紫式部は、夫の死後悲しみをまぎらわせるように、あの『源氏物語』を書き始めたのです。
『源氏物語』は多くの人に読まれ評判になり、その噂を聞いた藤原道長が接触してきたのです。
その申し出は、「どうか、天皇の后である我が娘を、指導してくれませんか」つまり紫式部は、藤原道長の娘の家庭教師として宮中に招かれたのです。
宮中でも大評判になります。
その結果、紫式部の運命を変えた。
道長から猛烈な支援が紫式部に差し伸べられてきます。
まだ完治していない『源氏物語』の続きを書くようにいわれ、当時としては貴重だった紙や筆が送られてきたのです。
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道長の思惑
では、なぜ紫式部に声がかかったのか?
それには、道長に政治的思惑が絡んでいました。
道長は、なんとか一条天皇の目を自分の娘・彰子に向けさせようと画策します。
そこで、文学に関心のある天皇の気を引くため、紫式部を家庭教師につけました。
これが功を奏じたか、一条天皇は次第に彰子の元へ通うようになります。
そして、ついには皇子たち、後一条天皇と後朱雀天皇が誕生し、藤原道長は天皇の外祖父として、栄華を極めることになります。
紫式部の存在は、道長の権力確立に大きな意味を持ったという訳です。
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藤原道長の妻妾と紫式部の共通点
藤原道長が妻妾としたのは、藤原為光の四女・五女、源重光の娘、大納言と呼ばれた女性の四人であり、その共通点は、道長一家と血縁的に近く、未亡人、そして、道長の娘か、その息子に仕えている官女で中年女性です。
これに紫式部も当てはまり、道長に好意を寄せていたから、道長と紫式部は男女の関係があった。
確かに『紫式部日記』を読み解くと、式部は道長「お姿の なんと立派なこと」「素晴らしい」などと起しています。
嫌悪感は持っていなかったのは確かですが、肝心なのは2人が恋愛関係だったか否かでしょう。
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紫式部と道長
まず、道長と式部は歌を詠み合う仲でありました。
『源氏物語』が、紫式部が仕える中宮・彰子の御前に置かれているに目を留めた道長は、式部とよもやま話をしますが、梅の下に置かれていた紙に次のように書いたとされています。
「すきものと 名にし立てれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ」
訳すと、梅の実はすっぱく実味であるから、枝を折らずに通り過ぎる者はおるまい。
これには、「色恋沙汰の好き者と評判の美女。そんな貴女を口説かずに素通りする男はおるまい」との意が込められていました。
今ならセクハラだとして訴えられそうですが、これに紫式部はどう返したのでしょうか?
「人にまだ折られぬものを誰かこのすきものぞとは口ならしけむめざましう」と紫式部は返歌します。
梅はまだ人に折られてはおりませんのに、誰が酸っぱい実を食べて、口を鳴らしたのでしょう」
訳すと、私には男性の経験などまだありませんのに、誰が好き者だなどと噂を立てているのでしょう。心外です。の意味になります。
見事な返歌です。
紫式部の日記には、その夜、渡殿に寝ていた式部を訪ねる者があったと記されています。
戸を叩く物音は聞こえますが、戸を開けませんでした。
式部は恐ろしさに声も出さず、夜を明かしたのでした。
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紫式部・清少納言等の女流作家
二人は知り合いだったか
清少納言は廉保3年(966年)誕生で万寿2年(1025年)没、対する紫式部は天延1年(973年)誕生、なので清少納言とは7歳違います。
職業と職場も宮廷の女房ということで、同じような地位や立場です。
だから、二人は知り合いと思う方も多いと思いますが、直接言葉を交わしたとか、手紙のやり取りをしたことはないようです。
というのも宮廷に勤めていた時期が、微妙に違っていた、それと仕えていた主が定子と彰子で違っていました。
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清少納言が宮廷に出仕したのは、正暦4年(993年)で、紫式部は寛弘2年(1005年)から出仕したと言われてますので6年の差があります。
しかも紫式部の初出仕の時はすでに、清少納言は超有名人の作家になっていたのです。
紫式部の方も出仕以前から『源氏物語』の一部は読まれていた。
一条天皇の寵愛を受けた中宮・定子は、才女兼備の女性ばかりを集めて、“定子サロン”を作り上げていました。
リーダー(定子皇后)がしっかりしていたから皆集まり、一条帝もそんなサロンの雰囲気を気にいっていたといいます。
現場で一同を仕切る役、特に余興や即興、おまつり事の中心には、いつも必ず清少納言がいました。
清少納言は歌人であり、随筆家です。
紫式部は物語作家ですから、文学的ジャンルは異った二人です。
当時、物語の評価はあまり高くありませんでした。
女・子供が読むもので、大人の男性からは鼻であしらわれるような絵空事としか思われていなかった。
平安時代の主流は、日記文学、紀寛之の『土佐日記』、藤原道綱母の『蜻蛉日記』などがよく知られてます。