美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

未分類 藤原公任

藤原公任は平安時代中期の公卿で歌人として高名な人物

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藤原公任は、平安時代中期の公卿で、歌人として高名な人物です。

幼い頃から文化人として優れた才能を発揮し、文化や音楽、書道など、多くの分野で功績を残しました。

 

 

小倉百人一首では、大納言公任の名で和歌が選ばれ『和漢朗詠集』の撰者としても知られています。

         ▲百人一首

 

 

藤原公任の生涯(青年期)

祖父・藤原実朝、父・藤原頼忠は共に関白・太政大臣を務め、母(醍醐天皇の孫)・妻(村上天皇の孫)共に二世の女王です。

 

 

また、いとこに具平親王、右大臣・藤原実資、書道・藤原佐理がおり、政治的にも芸術的にも名門の出である。

 

 

関白の子として、天元3年(980年)に清涼殿にて円融天皇出御の元で元服して、異例の正五位下に叙されるなど将来が期待されていた。

 

 

理髪は藤原遠度、加冠は左大臣・源雅信が務めたが天皇自ら加冠したともされる。

同年7月に侍従に任じられる。

 

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天元4年(981年)従四位下、天元5年(982年)従四位上と順調に昇進し、同年には姉の遵子が円融天皇の皇后に立てられています。

 

 

遵子の立后※1後初めての参内に従った公任jは、藤原兼家の邸宅(東三条殿)の前を通り過ぎる際に、女御のままであった兼家の娘の詮子(道長の姉)のことについて「この女御は、いつか后にはたちにたまふらむ」との失言を放っている。

※1.立后(りっこう)とは、公式に皇后を定めること。

 

 

その後も、永観元年(983年)左近衛権中将、寛和元年(985年)正四位下に叙任されるなど、円融朝から花山朝にかけて昇進を続けた。

 

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政界の貴公子として誕生

藤原公任は、康保3年(966年)、関白太政大臣・藤原頼忠と醍醐天皇の孫娘にあたる厳子(げんし)女王の長男として誕生。

 

 

父・頼忠は、小野宮家出身だったため、公任は政治の中枢を担う家系と、天皇家の間に生まれたサラブレッドといえます。

 

 

また、公任の姉・遵子(のぶこ/じゅんし)は、時の天皇・円融天皇の后でした。

 

 

そのため、公任の元服の際には、天皇自ら参加したと言われています。
非常に身分の高い両親の間に生まれた藤原公任です。

 

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次第に暗雲がやってくる

藤原公任が幼い頃、藤原北家の主流は小野宮流※2.にありましたが、次第に祖父・藤原実頼の弟・藤原師輔の家系である「九条流」に傾いていきます。

※2.小野宮流・小野宮家とは、小野宮流は、平安時代に始まった有職故実の流派。藤原実頼を祖とする小野宮家に伝わる。

 

藤原北家の総帥だった藤原忠平は宮廷の儀式作法に関心が深く、先例を尊重して儀式を行ったことは『貞信公記』にも詳細に記載されている。

 

忠平の息子の藤原実頼と藤原師輔は、父の意志を受け継いでそれぞれの儀式作法を確立した。

 

その後、実頼に始まる儀式作法を彼の邸宅小野宮に因んで小野宮流と称し、師輔に始まる儀式作法を九条流と称した。

 

実頼の儀式作法についてはその日記『清慎公記』に多少の記述はあるが、実際には孫で養子の藤原実資が著した『小野宮年中行事』によって完成されたと言える。

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小野宮家は、藤原北家の支流の一つ。

藤原忠平の長男の摂政太政大臣藤原実頼(清慎公)を始祖とする。
小野宮の名の由来は、実頼が惟喬親王(文徳天皇皇子)の旧邸小野宮に住んだことによる。

 

実頼の子孫は、次男の関白太政大臣藤原頼忠(廉義公)と養子の右大臣藤原実資(3男藤原斉敏の子)が大臣になったものの、師輔の子孫の九条流が摂家嫡流になったため次第に傍流に追いやられ、白河天皇院近臣として活躍した藤原経平・藤原通俊以後衰退していった。

 

実頼・実資をはじめ、藤原公任や藤原資仲らの有職故実を輩出したことでも知られる。

 

また「小野宮」の呼び名は実資以後、小野宮第の伝領に伴って女系で伝えられた。

 

 

藤原師輔は娘を天皇と結婚させ、次第に権力を掌握していきます。

この藤原師輔の孫として誕生したのが、のちに空中「に最高権力者となる「藤原道長」です。

 

 

藤原北家の嫡流・小野宮流出身である藤原公任は、権力者となった藤原道長からの信頼を獲得しましたが、次第に政治の中枢から外れていき、祖父や父のように大臣になることは叶いませんでした。

 

 

晩年になると、藤原公任は娘たちを次々と亡くし悲しみから職を辞し、万寿3年(1026年)に出家してしまいます。

その後、長久2年(1041年)に享年76歳で死去。

 

 

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藤原公任の逸話

『大鏡』※3に見える。三船の才ともいう。

※3.大鏡とは、平安時代後期の白河院政期に成立したと見られる紀伝体の歴史物語である。

 

 

藤原道長が大堰川に漢詩のの舟管弦の舟、和歌の舟を出し、それぞれの分野の名人を乗せた際、乗る舟を尋ねられた公任は和歌の舟を選び、「小倉山嵐の風の寒ければもみじの錦きぬ人ぞなき」と詠んで賞賛された。

 

 

ところが公任は、漢詩の舟を選んでおけば、もっと名声が上がったはずだと悔やみ、道長に舟を選べと言われた時に、全ての分野で認められているという自惚れてしまったと述懐※4した。

※4.述懐(じゅっかい)とは、考えている事や思い出を述べること。その「述べた内容。

 

 

なお、記録上大堰川において三舟の遊興が開かれたのは、寛和2年10月10日(986年11月14日)に円融上皇臨席の下開催されたもので、道長公任もこれに参加したと思われる。

 

 

なお、この時に舞と笛の演奏が賞賛された源時中は直後に褒美として参議に昇進しています。

 

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藤原公任が編纂した書物

※編纂(へんさん)とは、多くの材料や原稿等を集め、整理や加筆などを行って書物にまとめること。

 

 

拾遺抄

『拾遺小』は藤原公任が編纂したとされる私撰和歌集のことです。

のちに花山天皇が編纂した勅撰和歌集※5「拾遺和歌集」を元にしたものと考えられています。

※5.勅撰和歌集は書籍名ではなく、平安時代から室町時代にかけて、天皇又は上皇・法皇の命※6

※6.命令により、編纂された公的な和歌集を指す言葉。最初の勅撰和歌集は、平安時代前期の延喜5年(905年)に、第60代醍醐天皇の命で編纂された『古今和歌集』延喜13〜14年(913〜914年)頃完成。

そこから、室町時代中期の永享11年(1433年)に第102代後花園天皇の命による『新続古今和歌集』永享11年(1439年)成立に至るまで、勅撰和歌集の編纂は500年以上に渡って続けられ、その数は全部で21集を数えます。

 

 

捨遺抄の編纂当時、和歌の大家と呼ばれた歌人達は亡くなっていました。

また、現役の有名歌人達も京都を離れて地方で生活していたのです。

 

 

そんな中藤原公任が捨遺抄を編纂し、500首を超える和歌を収録しました。

これをきかっけに、藤原公任は花壇の第一人者として世間に認知されるようになりました。捨遺抄は10巻にも及び、和歌は四季、賀、別、恋、雑というジャンルで分類されています。

 

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和漢朗詠集

和漢朗詠集は、平安時代中期の歌人で公家公卿の藤原公任(藤原北家・小野宮流)が、長和2年(1013年)頃に、漢詩・漢文・和歌を集めた朗詠のための漢文集です。

 

 

上下巻に分けて漢詩文588首、和歌216首を収録し、上巻には天象や動植物、人事などの雑歌を納めました。

 

 

和漢朗詠集を編纂したきっかけは、藤原道長の娘・藤原威子と後一条天皇の結婚を祝う歌を集めて贈ったこと。

 

 

藤原公任自身の娘が結婚すときに、改めて冊子に仕立てられ和漢朗詠集となりました。

 

 

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