天文15年(1546年)年に創建された金沢御堂は、地元の大坊主衆や本願寺の坊官たちが取り仕切っていました。
この金沢御堂を制圧し入城したのが佐久間盛政でした。
佐久間は、天正8年〜11年(1580年〜83年)年の在城でしたが、尾山八町(初期の城下町)の整備や百間堀の開削※など、後の基礎を築いたと考えられています。
※.開削(かいさく)とは、山野を切りひらいて道や運河を通すこと。
佐久間盛政の後、前田利家が能登から金沢城に入り、利家自身は、豊臣秀吉の重臣として京・大阪にいることが多く、慶長4年(1599年)年に没するまで金沢城を留守にしていることがほとんどでした。
その後、宝暦や文化の火災を得て明治維新まで、利家から数えて14代の藩主となりました。
加賀騒動
初代・前田利家から数えて6代藩主・前田吉徳の死後に起きたお家騒動です。
この騒動は、加賀藩の財政難を背景に藩主独裁を目指す改革派と、既得権を守ろうとする保守派の間で起こったお家騒動です。。
具
▲加賀藩城主
体的には、加賀藩第5代藩主・前田綱紀が藩政改革を進め、その後、後継者である第6代藩主・前田吉徳がさらに強固な藩主独裁をめざしました。
元禄16年(1703年)元旦、大槻伝蔵は加賀藩の弓持足軽・大槻七左衛門の三男として生まれ、ほどなく叔父・大槻長兵衛の嫡子として養子に出され、13歳で6代藩主・前田吉徳の御部屋附御居間方として出仕すると、持ち前の美貌と明晰な頭脳を生かして藩主の寵愛を得つつ仕事の実績も重ね、あれよあれよという間に出世していきます。
17年間で実に18回もの加増を受け、藩主の覚えもめでたい伝蔵は、地位と立場を最大限に利用して藩政をも牛耳ってしまいます。
これに対して面白くないのが、加賀藩の年寄役・前田土佐守直躬であった。
加賀藩が今まで大過なく存続してきたのは、その伝統と格式にあると信じる土佐守は、自分は初代藩主・前田利家の次男・利政を祖とする家柄の五代目当主であるという自負心も相まって、成り上がり者の大槻伝蔵の旧弊を顧みない独裁政治を苦々しく思っていました。
そして業を煮やしてた土佐守は藩主・前田吉徳に大槻伝蔵重用の反対の直訴しますが、土佐守の事を前々から鬱陶しく思っていた藩主・前田吉徳は、この意見一蹴、さらに土佐守が就任していた役職を罷免してしまいます。
逆恨みした土佐守は吉徳の世子・前田宗辰に接近、ことある事に自説を吹聴し宗辰の洗脳を図ります。
大槻伝蔵は長くは続かなんだ
飛ぶ鳥落とす大槻伝蔵の権勢も藩主・吉徳の後ろ盾があってのこと。
しかし、延享2年(1745年)に藩主・前田吉徳が急死してしまった。
まってましたとばかりに土佐守らは反大槻派が大槻らを排斥しようと工作を開始し、そして「吉徳の看護不届き」という、よく分からない罪で捕らえられ、越中五箇山にある加賀藩の配流所へ流刑となってしまいなす。
そして、その頃江戸の加賀藩邸で藩主が口にする茶に毒が盛られていたという事件が発生、江戸の藩邸と地元金沢を騒然とさせます。
時の藩主は吉徳の後継の七代藩主・前田宗辰※が早世したため家督を継いだ弟の重煕が八代藩主になる。
そして毒味をした藩士の症状をよく診ると六代・吉徳と七代宗辰が死去した時の症状と瓜二つ、これはおかしいと関係者を調査したところ、吉徳の側室の一人真如院の娘・楊姫付きの浅尾という侍女が、真如院の命藩主用の茶釜に毒を入れたと自白しました。
真如院は丁度、その頃江戸から金沢に向かう道中、侍女・浅尾が自白したとの報を受けた藩当局は、真如院の帰沢と同時に身柄を拘束、金谷御殿(現・尾山神社の場所にあった藩主の別邸、隠居所)に幽閉されます。
犯行の動機は真如院の子で六代・吉徳の四男・利和を藩主の座に就けるためとされましたが、もとより真如院には身の覚えのない話、取り調べでは当然犯行を否定しますが、証拠として提出した大槻伝蔵との書簡から今度は大槻伝蔵との密通疑惑が浮上してきます。
真如院は犯行を繰り返し否定しますが、そんな中、大槻伝蔵が配流所の中で自殺しているのが発見され、真如院の刑も永年蟄居と確定します。
後生を悲観した真如院は藩士・長瀬五郎右衛門に絞殺を依頼してこの世を去ります。
一件落着したが・・・
こうして加賀藩は土佐守ら門閥一派の理想の体制に復古しました。
ところが、八代藩主・前田重煕、九第藩主・前田重靖と藩主の前田夭折が続きます。
ここにきて人々が思い起こすのは大槻伝蔵や真如院のことです。
現生に恨みを残して非業の死を遂げた人々が怨霊となって呪いを撒き散らしているのでは・・・・
恐怖した人々は「慌てて大槻伝蔵・真如院らの供養をお駒いますが、時既に達し、金沢城下を焼き尽くす「宝暦の大火」が起り城下は大混乱した。