あなたも知っている天下人織田信長の父であり、尾張の虎と称されていた武将・織田信秀とは。
室町時代の末期、尾張国(現・愛知県西部)の下級武士だったとき、尾張国の周辺には、斎藤道三・三河国の松平清康(家康の祖父)・また駿河国の今川義元など強敵が勢揃いで揃っていました。
その下級武士がどのように成長し覇権※1を広げって行ったのでしょう。
※1.覇権(はけん)とは、政治的或いは経済的或いは軍事的に抜きでた国家が他国を支配・統制すること。
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織田信定・信秀という人物
戦国時代の尾張国の武将で戦国大名で信長の父で、尾張国南西部東部・中島郡に跨る(またがる)勝幡城(現・愛知県愛西市・稲沢市)を支配する勝幡城主で清洲三奉行の一人の織田信定の嫡男として永禄8年(1511年)に誕生する。
※.上記の勝幡城をクリックして頂くと詳しいい記事があります。興味ある方は読んでください。
※.織田信秀の兄妹に美濃国・岩村城主女城主として武田軍と戦ったおつやの方です。
▲信長の父・織田信秀の系図
父・織田信定は尾張の守護代織田氏の一族で、尾張下四郎を支配する守護代「尾張大和守家」清洲織田氏に仕える庶流として主家の重臣の清洲三奉行の一族で弾正忠を称した家を継いでいました。
大永年間(1521年〜1528年)に勝幡城を築き、当時、伊勢湾に近い木曽川に臨む港と牛頭天王社(現・津島神社)の門前町として繁栄していた津島を支配し同家の勢力拡大のきっかけを作っていました。
織田信秀は父・織田信定の隠居で、大永6年(1526年)4月から7年(1527年)6月の間に家督を譲られて当主となり、家督相続から間もなく、天文元年(1532年)主家の織田達勝と清洲三奉行の一人の小田井城の織田寛故と争ったが調和※2した。
▲※2.調和とは、全体(または両方)が具合よくつりあい、整っていること。そのつり合い・整い。「環境と_したライフスタイル」
この和議を固めるのと自らの威勢を示すため、翌、天文2年(1533年)7月京都から蹴鞠(けまり)の宗家・飛島井雅綱を招き、山科言継も同道して、まず、7月8日勝幡城で蹴鞠会を開催し、賓客たちと数100人の見物衆も含め多くが集まり、7月27日には清洲城に舞台を移し、連日蹴鞠会を実施した『言継卿記』。
天文3年(1534年)には、嫡男の信長が誕生した。
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経済基盤を武器に分家から成長した織田家
永正8年(1511年)織田信秀は、尾張国の織田弾正忠信定の嫡男として誕生し、室町時代末期、尾張の守護は三管領の一人斯波氏が務めていました。
応仁の乱後に斯波氏の勢力が衰え始めてくると、守護代の織田氏が台頭し始め、当時、織田氏には「清洲織田氏」と「岩倉織田氏」に分かれ尾張の覇権争いに発展していきます。
織田弾正忠氏は清洲織田氏を支える清洲三奉行の一角を占める分家で下級武士の家柄にすぎませんでした。
しかし、織田信秀の父・織田弾正忠定信は、当時、日本有数の貿易港であった津島湊(現・愛知県津島市)を掌握していました。
盤石な経済基盤を手に入れた織田信定(信長の祖父)やがて織田信秀(信長の父)の居城となる勝幡城(現・愛知県名鉄津島線の勝幡駅)を津島湊の近くに築城します
外交と軍事力に秀けた織田信秀
大永6年〜7年(1526年〜1527年)頃、父・信定は隠居して家督を織田信秀(16歳〜17歳)で継いだ、経済基盤と知略を駆使して徐々の勢力を拡大していった。
天文7年(1538年)頃には、今川義元の弟・今川氏豊の居城だった那古野城(現・名古屋城跡)を攻略、その後、天文8年(1539年)には、古渡城(現・名古屋市中区)を築城します。
熱田神宮の門前町として栄える熱田湊も手中に収め、さらに経済基盤を強化していき、朝廷や幕府に対して、積極的に自身の売り込みも行い、朝廷への莫大な献金に加え、当時の室町幕府13代将軍・足利義輝にも謁見し、天文9年(1540年)には、伊勢神宮の遷宮のため銭700貫文※3と材木を献上しています。
※3.貫とは、つらぬくという意味で元々銅銭1.000枚を貫いた紐の事を貫と言ったのです。その時々で1文の相場が違います。1貫とは銅銭1.000枚を一塊とし真ん中の穴に紐を通しお尻を結んで「一貫」と数える。
これらにより織田信秀は、朝廷から国司の長官三河守に任命されてたのです。
さらに、天文12年(1543年)には、皇居の修繕費として4.000貫文を献上し、経済力を存分に発揮して着々と地位を上げ、本家の清洲織田氏はもとより守護だった斯波氏を凌ぐまでに急成長していきました。
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織田信秀別名・尾張の虎と戦国大名の攻防
織田信秀は着々と領地を拡大していき、尾張の虎と呼ばれるまでになっていき、美濃国の斎藤道三、三河国の松平清康、駿河国の今川義元らは織田信秀と同じように勢力を拡大しようと虎視眈々と狙っていました。
享禄2年(1529年)、19歳の松平清康(家康の祖父)は三河統一を成し遂げた勢いに乗じて尾張国への侵攻を開始した。
織田信秀は支城の岩崎城(現・愛知県日進市)は属将・荒川頼宗が守っていたが、交通の便がよく尾張、三河間を往来する街道で要衛地であったが松平清康に奪われた。
また、品野城(現・愛知県瀬戸市)は家臣・坂井秀忠が城主でしたが、ここも松平清康によって落城してしまう。
さらに天文4年(1535年)松平清康は美濃国の斎藤道三と手を組み今川氏の支援も取り付けて、織田信秀の弟・織田信光の居城である守山城(現・名古屋市守山区)にも10.000人近い大軍で攻めて来た松平清康ですが、なんと家臣によって陣中で斬り殺されてしまいます。
俗いう守山崩れと呼ばれる、この事件により織田信秀は危機をなんとか逸しました※4。
※4.逸しましたとは、逸しましたは逸するも過去形です。逸するには、次のような意味があります。
離れる、それる、脇へはずれて走る。なくなる、散逸する。心のままに過ごす、気ままに楽しむ。
その後、天文9年(1540年)に織田信秀は松平清康の死による混乱に乗じて三河に侵攻して西三河の重要拠点安祥城(あんじょう城:現・愛知県安城市)を攻略し落とし庶子の織田信広(信長の兄)に守らせ、さらに天文16年(1547年)には、松平氏の領地、岡崎城攻略した、猛攻を受けた松平広忠(家康の父)は、今川義元に援軍を求めます。
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今川義元に助けを求めた松平広忠
今川義元は援軍の見返りとして嫡男・竹千代(のちの家康)を人質として要求竹千代(6歳)を駿府へ送ることを決心します。
今川義元の命で竹千代を誤送の任を受けた戸田康光は、駿府へ向かわず織田信秀の所へ向かい永楽銭千貫文で売り渡してしまった(という説)、裏切った戸田康光は三河国の武将で、松平清康に従っていたが守山崩れで亡くなると今川氏に従っていたが裏切った説とがある。
もう一つ竹千代が織田氏の人質になったのは
織田信秀は岡崎城を攻め落とし松平広忠が降伏した証に竹千代を差し出したという説があるが、これが最も有力です。
さらに、戸田康光の田原城が落とされたのは天文19年(1550年)頃という説あるので真意の程は?。
天文17年(1548年)、斎藤道三が松平広忠に働きかけ、斎藤氏・今川氏と結んだ松平広忠が再度挙兵(『武家聞伝記』)、道三や今川義元は織田信秀に対抗するため、工作活動を行っていたと考えられる。
さらに犬山城主・織田信清(信秀の弟・信康の子)と楽田城主・織田寛貞が謀反を起こすが、これを鎮圧して従属させ、また、道三による大垣城攻撃を受けたため救援に向かうが、その最中に織田達勝から大和守家を継いだ織田信友の古渡城に攻め寄せたため帰還して織田信友と対峙する。
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織田信秀と斎藤道三が和議
この年、織田信秀は斎藤道三と和睦し、条件は嫡子・信長と道三の娘・帰蝶(濃姫)と信長の婚姻が決まる。
同年、天文18年(1549年)今川義元が織田氏の織田信広のいる安祥城へ攻め信広を人質にし、竹千代と織田信広の人質交換が成立。
同年3月19日、第二次小豆坂の戦いにおいて、太原雪斎の指摘する今川・松平連合軍に敗れ敗北し、織田信秀は今川氏の勢力に押され大和守家を継いだ織田信友とも対立し苦境に立たされた。
天文18年2月24日(1549年3月23日)、斎藤道三の娘・帰蝶が織田家に輿入れし、大垣城は斎藤道三の支配下に戻り、また同年には大和守家の織田信友とも和睦した。
同年3月、織田信秀の勢力を三河より駆逐せんとする今川氏が、織田方の西三河支配の牙城であった安祥城に対し、太原雪斎を将とする約1万の軍勢を送ってきた。
城主であった織田信秀の庶子・織田信広の奮戦により今川軍の攻撃を避けたものの、同年9月に再び平手政秀が援軍として送られて出兵してきたため、同年11月に陥落した(第三次安城合戦)です。
そのため、織田信広は今川氏に捕縛され松平竹千代(後の家康)と交換され、西三河における織田方の勢力は総崩れの様相を呈した。
この頃から信秀は病に冒され臥せるようになり、数年の闘病生活を送ってた、天文18年11月(1549年)に熱田八ヶ村中に織田信長が病床の父・信秀の代行として藤原信長名で熱田神宮に制札を出しており、これが信長の初見文書になってます。
天文19年(1550年)8月、今川氏の軍勢により知多郡の水野信元が降伏、翌天文20年(1551年)12月には愛知郡鳴海城の山口教継が今川方になり教継の調略により織田方の勢力が削がれるという困難の続く中で、天文21年(1552年)居城としていた末森城で生涯の幕を閉じて死去しました48歳でした。
家督は嫡男の信長が継いだ、葬儀は萬松寺(現・名古屋市中区大須)で行われ、僧侶300人を参集させた。しかし、死は3年間臥せられたという説があります。