美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

未分類 豊臣兄弟の生誕地

豊臣兄弟の故郷を歩く!名古屋・中村公園で戦国武将の原点をたどる旅

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   藤吉郎(秀吉)の父・木下弥右衛門、母・の間に生まれた藤吉郎と小一郎(父親が別)となっているんですが、僕は同じ両親だと思っています。

 

 

下級武士の家に生まれ立身出世を夢見て尾張国の中村の家を飛び出してから働きに働いて天下人となった豊臣秀吉と、その右腕として兄を支えた小一郎(のちの豊臣秀長)。

 

 

天下人・豊臣秀吉と、その右腕として兄を支えた豊臣秀長、二人が生まれたのは、現在の名古屋市の中村区です。

 

 

その生誕地には今も「中村公園」として整備され、秀吉を祀る「豊国神社」や、生家跡の碑など、戦国時代の息吹を感じる場所が点在している広大な広さの中村公園地下鉄東山線・高畑行「名古屋」駅から四つ目の「中村公園」駅を下車して步約10分のところにあります。

 

 

今回は、そんな“豊臣兄弟のふるさと”を実際に歩いてみた感想と見どころを紹介します。

 

 

母・仲(のちの大政所)御器所村に住んでいて中村村の織田家臣の木下弥右衛門に嫁いだと想像します(証拠がないので空想で書いています)。

※.上記の仲をクリックすると御器所村の記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

 

「中村」という地名は、奈良時代律令制下から確認できる古い地名です。

 

 

 

中村公園とは?秀吉・秀長ゆかりの地

尾張国中村は、戦国武将の豊臣兄弟と加藤清正の出生の地、この中村公園は、明治18年(1885年)創建された豊国神社※1を中心に、明治34年(1901年)に愛知県の公園として造られました。

※1.豊国神社とは、名古屋市中村区の中村公園内にある神社ですが、境内地自体は厳密には中村公園の敷地には含まれません。
祭神は豊臣秀吉です。

 

 

ご存じのように同名或いは同字の神社が全国にいっぱいありますが、当地は豊臣秀吉の生誕地です。

 

 

 

全国の豊国神社或いは豊国(ほうこく)神社一覧

豊国神社(とよくにじんじゃ)という呼び名

豊国神社(金沢市):石川県金沢市東御影町に元和2年(1616年)に創建した。加賀藩主・前田家が密に秀吉像を祀っていたと社(やしろ)に由来します。

 

◇豊国神社(大垣市);岐阜県大垣市墨俣町の白髭神社内に平成4年(1992年)創建。木下藤吉郎時代に築いた墨俣城(一夜城)に由来します。

 

◇豊国神社(名古屋市):愛知県名古屋市中村区中村町に明治18年(1885年)に創建。祭神は秀吉。当地は豊臣秀吉の生誕地に由来。

 

◇豊国神社(京都市):京都市東山区大和大路に慶長4年(1599年)に創建します。

 

◇豊国神社(京都市):京都市東山区妙法院前側町に永暦元年(1160年)に後白河上皇によって院の御所・法住寺殿の鎮守社として、日吉大社より山王七社(上七社)を勧誘し、現在より南の地新日吉社として創建される。
現在の名は:新日吉神宮末社(別名:樹下社(このもとのやしろ)です。

 

:徳島県小松島市中郷町に慶長19年(1614年)に創建。豊臣秀吉の死後、蜂須賀家政と蜂須賀至鎮が豊臣秀頼より拝領した『木造 豊太閤像』(非公開)を神体としています。

 

 

 

豊国神社(ほうこくじんじゃ)という呼び名

◇豊国神社(長浜市):滋賀県長浜市南呉服町の慶長5年(1600年)に創建。豊国大明神の他、事代主大神、加藤清正、木村林成を祀る。秀吉がかつて長浜城主として統治したことの由来してます。

 

:大阪市中央区大阪城に明治12年(1879年)に創建。秀吉公の他、豊臣秀頼公、豊臣秀長卿を祀る。秀吉がかつて大阪城主として統治したことに由来してます。

 

◇豊国神社(廿日市市):広島県廿日市市宮島町:厳島神社末社。別名:千畳閣。豊臣秀吉が建立した大経堂を、神仏分離に伴い豊臣秀吉を祀る神社にしたものです。

 

◇豊国神社(福岡市):福岡市博多区奈良屋町に明治19年(1886年)に創建。博多の豪商・神屋宗湛が立てた祠に由来します。

 

 

 

秀吉・秀長ゆかりの地への行き方

中村公園・豊国神社は名古屋駅から西の方角に位置します。

車で行く場合は「笹島」交差点を西に向かって「中村公園」の交差点を北に向かうとあります。

 

 

名古屋駅からの交通機関・地下鉄で行く場合には「中村公園」で下車して歩約10分かかります。

 

 

名古屋駅バスターミナルから市バスで行く場合豊国神社前(すぐです)で降車できます。

 

 

名古屋駅前から市バスで行く豊国神社

バスターミナルへ行って「1」という乗り場に行く、そこで「右回り」でも「左回り」でもいいですから乗車して行きます。

      ▲案内に沿ってバスターミナルへ行く
      ▲1番へ行って25番のバスに乗る
         ▲時刻表:令和7年10月15日現在です。

 

 

名古屋駅前から地下鉄で行く

      ▲ここを降りていく

    ▲降りて行くと右に折れる標識がある

    ▲「高畑」行きに乗る

   ▲中村公園」駅の改札を出る②③の方向へ向かう

 

名古屋駅から地下鉄東山線「藤が丘」⇄「荒畑」行きに乗って四つ目(亀島・本陣・中村日赤・中村公園)で下車、「中村公園」駅に着きましたら②③番出口の方に向かい、③番出口の方が少し近いですが、大鳥居を横からみえますから、②番出口の方が大鳥居を見るベストポジションです。

     ▲③番出口を出るとこの様に大鳥居が見えます。

▲「中村公園」駅を出て②番出口から見る大鳥居です。大正10年、中村区が名古屋市に編入されたのを記念して計画され、翌・昭和5年の元旦には山車や花電車が出て盛大な竣工式が行われました。全長約24.5m,柱の直径2.5m。街のシンボルとなっています。

  ▲大鳥居から中村公園を見た参道です。

      ▲案内

 

参道を歩いて行くと加藤清正の掲示板があります。

▲加藤清正の案内文

加藤清正(1562年〜1611年)は尾張国愛知郡中村で生まれた。豊臣秀吉の一族であった袁(ゆかり)から秀吉に仕えたという。天正11年(1583年)の賤ヶ岳合戦で武功を挙げ、秀吉の九州閉廷後肥後北半国を与えられ、熊本城を建てて居城とした。
慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、遺児の秀頼を守りつつ徳川家康に接近し、慶長5年の関ヶ原合戦では家康に属した。慶長15年には、名古屋城天守石垣の普請を家康に命じられ、来名した。この時、父母を弔うため故郷中村の妙行寺を再建したと伝えられる。翌年の二条城での秀頼と家康の会見に臨席し、その帰路発病して50歳で没した。
この肖像画は、蛇目紋をつけた烏帽子形の兜をかぶり、片鎌槍を持つ清正を描く、勇猛な武将であるとともに築城や治水に秀で、名君として慕われ清正の実直な人柄がうかがえる。

 

       ▲豊臣秀長(羽柴秀長)

 

続いて秀吉の弟・豊臣秀長の掲示板があり、掲示板の案内文です。

秀長は、豊臣秀吉の異父弟として尾張国中村に生まれた。
織田信長の家臣として頭角を表しつつあった秀吉につき、木下長秀と名乗った。天正3年頃から羽柴姓にかえ、天正10年(1582年)に信長が本能寺で明智光秀に倒されると、天下を目指す秀吉とともに行動し、秀長に改名した。
天正13年(1585年)、四国出兵の軍功により大和、紀伊、和泉を秀吉から与えられ、大和郡山城を居城とした、さらに大納言に仕官し、大和大納言と称された。
温厚で優れた人物であったといわれ、数少ない血縁者として秀吉を支えたが、天正19年(1591年)病により世を去った。実子は幼い頃に没しており、郡山城は養子となっていた甥の秀保が継いだが、その秀保も文禄4年(1,595年)17歳で死去したため秀長の家系は断絶した。

を通り越して中村公園の前にきた。

 

 

 

豊国神社で感じる秀吉の存在感

     ▲中村公園・豊国神社入り口です。

 

公園内に入ると中村公園の石碑があります。

           続いて

          続いて

         続いて

            続いて

      ▲豊国神社です。

        ▲豊国神社の正面です。
  

▲境内の様子です。

 

 

 

豊臣ミュージアム館

開催概要

期間:2026年1月24日(土曜日)〜2027年1月11日(月曜日)

開館時間:AM:9時からPM:5時(最終入場PM;4時30分)

休館日:原則無休(主催者等の都合等により臨時休館・営業時間変更となる場合があります。予めご了承ください。)
※.ネットより

   ▲工事中の囲いに貼ってあった完成予想図です。

    ▲ネットより

 

     ▲豊臣ミュージアムの前にあった像。

  ▲この写真は令和7年10月17日撮影です。着々と工事は進んでいます。

 

完成したら、後日撮影に行ってきます。

 

 

 

①秀吉誕生地

         ▲行き方

         ▲生誕地

         ▲標識

 

 

②豊国神社

豊国神社は、豊臣秀吉を祀る神社で、名古屋市と京都市にそれぞれ存在し、名古屋市の方秀吉の誕生地で、出世開運・茶道・建設として知られています。

▲豊国神社(うまく風が回ってくれて中まで撮影できました。令和7年10月17日)

 

一方、京都市豊国神社は、かつて豊国大明神として創建され、現在は、「京の三大唐門」※3の一つである国宝が有名です。

※3,唐門とは、屋根に独特の唐破風(からはふ)がある門の総称です。唐破風は弓を横にしたとうな曲線を持つ屋根の形式で、この門はその特徴から「唐門」と呼ばれています。

装飾豊かで豪華な造りが多く、寺社や城郭などで重要な門として使用されています。

京の三大唐門は、大徳寺の唐門・豊国神社の唐門・西本願寺の唐門です。これらは、豊臣秀吉が造った聚楽第や伏見城の遺構として伝えられており、豪華絢爛な彫刻が特徴の桃山時代の代表建造物です。

 

 

③八幡社

        ▲八幡社

  この八幡社(神社)は、加藤清正候出陣にあたり武運長久を祈願せし御社なり慶長15年名古屋城天守閣建城の際、境内の楠の大木を棟木に使ったといい伝えら、その後植えられた楠で今なを生繁されています。

読み方:はちまんしゃ、創建年:不明、祭神:應神天皇(おうじんてんのう)、駐車場:有(少数)、祭礼・その他:例祭10月10日。

 

 

尾張出身の戦国武将を代表する一人、加藤清正生誕の地ということで、清正と絡めて紹介されることが多い八幡社なのだけど、実際のところはいつ誰がどういういきさつで創建したのかよく分からない。

 

 

中村の地は、平安時代中期の承平1年〜天慶1年(931年〜938年)の『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に載る愛智郡10郷のうちのひとつで、古くから集落があったのは間違いない。中村を斜めに縦断する恰好で古東海道が通っていたとされる。

 

 

戦国時代には上中村・中中村・下中村と分かれており、秀吉や清正が生まれたのは上中村とされていi、現在の中村公園があるあたりだと思います。

 

 

上中村の氏神は元中村の八幡社春日社合殿(地図)で、下中村の氏神は押木田町の下中八幡宮地図)だった。

 

 

秀吉が生まれたのは上中村ではなく中中村だったという説があり、秀吉の母は男子が授かるよう願掛けに日之宮神社地図)に通ったという話も伝わっている。

 

 

一つの村にふ二つの八幡社があってもかまわないわけだけど、この八幡社は氏神といった中心的な神社ではなかったということはいえそうで、『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。

 

 

「『張州府志』に八幡祠とある神社にして社伝に、加藤清正朝鮮出征に際し武運祈願のため誕生の地に奉斎した社なりと、清正境内の楠の大木を名古屋城の天守閣の棟木に用いたという。その後に植た楠数百年を経て、社頭に繁茂する。明治6年公許となる」

 

『尾張志』(1844年)の上中村の項を見ると、「八幡ノ社春日社相殿 上中村にあり當社を村の氏神とす弘治元年乙卯太閤秀吉公造営し給り云々」とあるだけで、中村公園内の八幡社に関する記述はない。

 

 

『尾張徇行記』(1822年)の上中村の項はこうなっている。

「八幡二社天神社界内一段六畝前々除、長円寺是ヲ掌ル 府志曰、八幡祠在上中村(後略)」

「油江天神祠在同村(後略)」
「八幡祠在同村」
 最後の八幡祠が中村公園の八幡社なのだと思うけど、確信が持てない。

 

 

『寛文村々覚書』(1670年頃)はこうだ。
「社三ヶ所 内 八幡弐社 天神 長円寺持分 社内壱反六畝歩 前々除」
 八幡二社のうちの一社がこの八幡社ということであれば、前々除となっていることからも江戸時代以前に創建されたと考えていい。

 

 

清正がこの八幡社を建てたかといえばその可能性は低い。

個人的にはないと思う。

朝鮮出兵の際に生まれ故郷の地に八幡社を建てる必然はまったくないし、すでにあったとしてもここで武運長久を願う理由がない。

 

 

清正が生まれたのは1562年で、2歳のときに父を亡くし、5歳のときに母と一緒に叔父が住む津島(上河原町)に移っている。

まずこの点からして中村に対してさほど思い入れがあったとも思えない。

 

 

12歳のときに秀吉の小姓となり、戦で各地を巡り、27歳のときに肥後国半国(熊本)を領して隈本(熊本)城主になった。

それが1588年だ。

 

 

文禄・慶長の役は1592年だから(休戦を挟んで1598年に終結)、清正は当然熊本から出兵している。

故郷の尾張に戻っている暇などない。

 

 

もしこの八幡社に清正が関わっているとすれば、小田原征伐(1590年)の帰りか、もしくは名古屋城築城の際(1610年)のどちらかだろう。

 

 

相模国からの帰路で清正は秀吉に故郷の中村に立ち寄ることをすすめて共に一泊している。

その日に神社どうこうの話が出たかもしれない。

名古屋城築城では自ら天守台の工事を請け負い、わずか3ヶ月の突貫工事で完成させている。

 

そんなときに中村まで行って神社を建てるとも思えない。

妙行寺についても清正が名古屋城築城の際、100メートルほど東にあったものを生誕地の現在地に移させたという話があるのだけど、これもありそうにない。今の妙行寺の場所が清正生誕地とはっきり分かっているわけでもない。

 

 

清正は熱心な法華経の信者ということもあって、神道よりも仏教の人だった。熊本時代はいくつかお寺を建立したという話も伝わっている。

 

 

神社に関しては修繕や寄進くらいはしたとしても、創建はしてないのではないか。

 

 

『中村区の歴史』(横地清)は、この高畑の八幡社は河原天神だったのではないかと書いている。

 

 

これはかなり大胆な仮説だ。おそらく『尾張國内神名帳』にある愛智郡川原天神のことをいっていると思うのだけど、一般的には川名の神明が『尾張國内神名帳』や『延喜式』神名帳、延長5年(927年)の川原天神、川原神社のこととされている。

 

 

しかし、愛智郡川原神社に関しては異説がいくつかあるのは確かで、一説では鳴海の鳴海八幡宮が川原神社ではないかともいう。

 

 

河原天神や下中村の日の宮は秀吉が去った後になくなったという話もあり、はっきりしたことは分からない。

私としては判断がつかないので保留としたい。

 

 

今昔マップの明治中頃、明治21年〜明治31年(1888年〜1898年)を見ると、まだ中村公園はなく、上中村、中中村、下中村の集落があり、周りはすべて田畑だったことが分かる。

 

 

上中村集落の北西端にある鳥居マークは明治18年(1885年)に建てられた豊国神社だろう。

 

 

このとき、八幡社を示すの鳥居マークはない。

中村公園ができたのが明治43年(1910年)のことで、大正9年(1920年)の地図では公園の中央に鳥居マークがあるから、少し場所が移されたようだ。

 

 

描かれている鉄道の線路は、名古屋土地という会社が創設した路面電車で、名古屋駅西の明治橋電停と中村公園前の公園前電停を結んでいた。

 

 

大正15年(1926年)に分社化して中村電気軌道となり、昭和11年(1936年)に名古屋市電に買収された。

 

 

昭和7年(1932年)になると周囲は宅地化され、田畑は減った。
戦中から戦後は家も増えてすっかり住宅地となった。

 

 

公園に隣接して名古屋競輪場が作られたのは昭和24年(1949年)のことだ。

 

 

昭和43年〜昭和48年(1968年〜1973年)の地図に八幡社の鳥居マークが現れてきてます。

 

 

しかし、何故かその後の地図から八幡社の鳥居マークは消える。
この神社は清正が建てたわけではないけど、清正の時代からあったのだろうと思う。

 

 

境内にあった大楠を名古屋城天守の棟木に使ったという伝承は充分あり得ることだ。清正の時代に巨木になっていたというのであれば、数百年前から神社があったとも考えられる。

 

 

清正が生まれ故郷の中村にどの程度の思い入れを持っていたのかは分からない。ただ、少なくとも中村の人間は清正を誇りに思っていて、清正がしていないことも清正がしたことにしてしまう気持ちも理解できる。

 

 

清正は熊本では”せいしょこさん”(清正公)と呼ばれ抜群の人気を誇っています。

すっかり熊本の人となってしまった。

 

 

 

西南戦争で明治政府が守る熊本城を落とせなかった西郷は、おいどんは官軍に負けたんじゃなか、清正公さんに負けたのだ、とつぶやいたとか。

 

 

熊本地震では熊本城の新しい石垣は崩れて清正の石垣は被害が少なかった。

清正が築いた名古屋城天守台の上にはあらたに木造で天守が再建されることが決まったのだけど、天守台の石垣の調査保存をどうするかでモメて工事がいっこうに進まない。

 

 

今こそ清正の力がもう一度必要なときだ。清正の生まれ変わりは今頃どこで何をしているだろう。

 

 

 

④中村公演記念館

>

⑤秀吉・清正記念館

⑥常泉寺(秀吉産湯井戸)

 

 

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