天狗党の乱は、元治元年(1864年)に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱。
▲回天神社(天狗党の乱参加者が越前敦賀で降伏した後に囚われた鰊倉(ニシン倉)が、昭和32年に敦賀市から常磐神社に移築され、平成元年、回天神社境内に再移築されたもの。
内部は天狗党資料の展示室となっている。
柱と梁の一部や瓦は当時の材が使用されており、扉や板壁に天狗党員の絶筆が残されている
幕閣内の対立などから、横浜鎖港が一向に実行されない事に憤った藤田小四郎(藤田東湖の四男)は、幕府に即時鎖港を要求するため、非常手段をとることを決意した。
藤田小四郎は北関東各地を遊説して軍用金を集め、元治元年3月27日(1864年5月2日)、筑波山に集結した62人の同志たちと挙兵した。
▲筑波山神社
藤田小四郎は23歳と若輩であったため、水戸町奉行・田丸稲之衛門を説いて主将とした。
その報を聞いた水戸藩主・徳川慶篤(一橋慶喜の兄)は、田丸稲之衛門の兄である山国兵部に説得を命じたが、山国兵部も逆に諭されて一派に加わてしまった。
その後、各地から続々と浪士・農民らが集結し、数日後には150人、その後の最盛期には約1,400人という大集団へと膨れ上がった。
この一団筑波勢は急進的な尊王攘夷思想を有していたが、日光東照宮への攘夷祈願時の檄文に「上は天朝に報じ奉り、下は幕府を補翼し、神州の威稜万国に輝き候様致し度」と記すなど、表面的には敬幕を掲げ、攘夷の実行もあくまで東照宮(徳川家康)の遺訓であると称していた。
藤田小四郎らの行動は藩政府の方針に反する行為ではあったものの、武田耕雲斎ら藩執行部は筑波勢の圧力を背景に幕政への介入を画策し、4月には一橋慶喜や在京の藩士との密に連絡をとって朝廷への周旋を依頼した。
幕閣側も宸翰※が「無謀の攘夷」を戒めていることを根拠として水戸派の圧力を斥けようと図り、朝廷に対する周旋を強化する一方で、筑波勢討伐と事態沈静化のために小笠原長行の復帰を求めたが、一橋慶喜・松平直克の妨害により果たせなかった。
※宸翰(しんかん)とは、天皇自筆の文書のこと。 宸筆(しんぴつ)、親翰(しんかん)ともいう。
もともと天狗党とは、なに?
文政12年(1829年)9月、重病だった水戸藩主・第8代 徳川斉脩(なりのぶ)は、後継者を決めてなかった。
そんな中、江戸家老・榊原照昌らは、斉脩の異母弟・敬三郎(のちの斉昭)は後継者としては不適当だと言って。
代わりに徳川斉脩の正室・峰姫の弟・第11代徳川将軍・徳川家斉の子(21男・清水恒之丞:のちの紀州藩主・徳川斉彊(なりかつ))を迎えるべきだと主張、藩内 門閥層の大多数も、財政破綻状態にあった水戸藩へ幕府から援助が貰えることを期待して賛成した連中だった。
これに対して同年、藤田東湖・会沢正志斎ら藩内小壮の士は、血統のある敬三郎を藩主に迎えるべきと主張して、徒党を組んで江戸へ越訴※1(おっそ)した。
※1.越訴とは、再審などを求めて正規の法手続を踏まずに行う訴え。合法・非合法は問わない。
直訴と同一視される場合もあり、実際に両方を混同する要素も含まれているが、本来の性格としては直訴は「最高権力者」個人に対して訴えるのに対して、越訴は上級訴訟機関に対して訴えるものである。
同年10月4日に第8代水戸藩主・徳川斉脩が没し、敬三郎を後継者にという遺書が示された。
10月8日に敬三郎が斉脩の養子となり斉昭と名乗る、17日幕府から徳川斉昭の家督相続の承認を得て、第9代藩主に、擁立に関わった藤田東湖、会沢正志斎らが登用され斉昭の藩政改革に担い手となった。
こうして権力を得た一派は、反対派から「一般の人々を軽蔑し、人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶってる」ということで、天狗党と呼ばれるようになった。
中山道46番目の宿場・大井宿通行のため岩村藩の対応
中山道を天狗党が通過したことについては、岩村藩との接点は余りないように思っていたが、恵那市大井町・山本修身氏が『いわむら歴史掘りおこし読本第三巻』に天狗党の都賀厚之助が岩村藩に3ヶ月余りにわたって滞在してた。
丹羽瀬市左衛門・平尾鍒蔵、その娘平尾せき(のちの下田歌子)との接点についての史実を調査、その他の足取りにつても精査して投稿されたことから、本項では、岩村藩の天狗党対応『御領分村々高付覚』天狗党の乱‥‥熊谷博幸(著・編)を掲載することににした。
また、平成26年に中津川市中山道歴史資料館での「天狗党通行の展示」で、苗木藩等には、関係する古文書が比較的少ないことをうかっがった。
と著者:西尾精二さんは書いている(岩村町在住の岩村歴史掘り起こし編集長)です。
●古文書(原文に1)
●古文書(原文の2)
なぜ、天狗党の乱が起こったのか?
当時、日本は西欧列強諸国に屈し、日米和親条約や日米修好通商条約のような不平等条約を終結させられていました。
外国からの侵略を受ける危機にさらされていたのです。
「尊皇攘夷」※2という言葉を知ってますか?
※2.尊王攘夷(そんのうじょうい)とは、尊皇攘夷は「尊皇」と「攘夷」を組み合わせた言葉です。
尊王は皇を尊敬する、攘夷は外敵を撃退することなので、尊皇攘夷は「天皇を敬い、外国人を日本から追い払う」という意味になります。
もともと水戸藩は尊王思想が強い藩で、その中でも天狗党は過激派の集団でした。
文久3年(1863年)8月18日に起きた政変によって、尊王攘夷の急先鋒だった長州藩が京都から追放され、これにより尊皇攘夷の世論が急激に下がってしまいました。
そのため各地にいた尊王攘夷派の武士たちは、長州藩に代わって水戸藩に攘夷を期待するようになっていきました。
そのため元治元年(1864年)に筑波山で挙兵した水戸藩尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱の始まりです。
中心人物は、藤田東湖の四男の藤田小四郎と武田耕雲斎で水戸藩の天狗党は62名でしたが、その後1400名まで増加しますが巨大になり過ぎて統制が取れず、各地で強盗・殺戮・放火などの暴挙を繰り返しました。
無法集団として扱われた天狗党は、幕府や水戸藩の鎮圧部隊と各地で衝突、追い詰められた天狗党は最後の行動に出ました。
かつて天狗党が支持した水戸藩の徳川斉昭の息子・一橋慶喜を頼り、慶喜を通じて朝廷と孝明天皇に対し、天狗党が持つ尊王攘夷の志を訴えることにしました。
今までの暴挙の反省から、規律を定め水戸藩から京都へむかいました。
暴動を起こさない天狗党に対して、道中の庶民は尊皇攘夷の集団として、好意的に見守ってくれました。
しかし、越前に到着すると、朝廷からの命を受けた討伐軍向かってくることが判明、総大将が、なんと頼みの綱である一橋慶喜だったのです。
元治2年(1865年)1月14日、絶望した天狗党は道中で遭遇した加賀藩に降伏します。
最初は加賀藩士たちは、好意的だったが、次第に江戸で暴動を起こしたことを理由に、衛生の悪いニシンの貯蔵庫に幽閉され20名以上が病死しました。
月が代わって3月に828名の内、352名が処刑、残りは流罪や追放の処分、藤田小四郎も24歳の若さで処刑されました。
ここまでが天狗党の乱です。
次回天狗党が美濃国岩村藩・大井宿に寄った記事を書きます。