東美濃どこからどこまでをいうんだろう?
東濃地区というと、どこからどこまでをいうんだろう?
岐阜県内でいうと、一般的には、東濃地区というと多治見市から中津川市の辺りを言うんじゃないでしょうか?
現在では東美濃という単語は使いませんが、戦国時代、江戸時代は使っていたと思います。
そこで、時代をタイムスリップして東美濃のお城を中心に取り上げて行きます。
先ずは、山城ではないけど大井城をとりあげて行きたい。
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大井は中津のちょっとこっちと昔はよく言ったもんです。
岩村城を中心に話をすすめます。
というのも東美濃は岩村城を中心に、遠山氏が現・瑞浪市の一部、現・中津川市を越えて長野県の一部まで支配していた遠山荘でした。
そんな遠山氏の最後の城主・遠山景任夫妻(女城主)に武田信玄・勝頼×織田信長・徳川家康が、この地に争奪戦が繰り広がりました。
大井城は誰れが築城したか
所在地/恵那市大井町内城・城畑。
創築年代 / 永享年間(1429年〜1241年)。
創築者 / 大井遠江守行秀。
遺構 / 土塁痕跡。
形式 / 平城(段丘)標高286m、比高15mの丘陵頂部に築かれ城、土岐系。
▲大井城の位置
大井は美濃国の東部に位置し、中山道この地より東を木曽路、西を美濃路と称したことからわかるように、美濃と信濃の両戦力の接点にあたる要衝だった。
※上記の中山道をクリックしてもらうと大井宿場町の記事があります、興味ある方は読んでください。
大井城の創築者及び年代は必ず明確にされてはいないが、大井の位置、築城の動機などから永享七年(1435年)原行秀によって創築されたと考えられるが、ある人は築城者は不明と書いている。
先に書いた大井遠江守行秀が大井城主と推測される。
1473年信濃国松尾城主・小笠原家長・木曽福島の木曽家豊が荻島城とともに攻略した大井城が、現・大井小学校なのか、鷹撃谷城※1を示すのか不明。
※1.鷹撃谷城(たかちがやじょう)は、もう一つの大井城です。
天文年間(1532年〜1555年)まで小笠原氏の勢力下となる。
室町時代に築城された
室町幕府の4代将軍・足利義持は、生長元年(1428年)お正月男さかりで急死、しかし後嗣がなく、将軍継承をめぐって内紛が勃発する。
足利義持には、5代将軍になった嫡子・足利義景がいたが、父・義持より先に死没していたので、仕方なく弟の足利義教が6代将軍を継いだ。
ところが鎌倉の4代公方・足利持氏は、これを不満とし京都と鎌倉の足利が対立し不穏な情勢となった。
永享7年鎌倉の公方・足利持氏は、信濃国守護・小笠原政康と豪族・村上頼清との紛争に乗じ※2、将軍を無視して関東・東北の諸将を信濃国へ出兵させた。
※2.乗じ(じょうじ)とは、何かの勢いを利用し、その中に身を預けること。「混乱に乗じて行方をくらました」などのように用いる。
将軍・足利義教はは鎌倉公方・足利義氏追討軍を差し向け、信濃鎮静と鎌倉攻略を果たし、持氏は敗れて自刃した(永享の乱)。
この乱で、守護・土岐持益※3は信濃国境に近い要衝、恵那の大井の守護を同族の原行秀に命じた。
※3.土岐持益は、室町時代の武将、守護大名。室町幕府の侍所頭人、美濃守護。土岐頼益の子。子に持兼。「持」の字は将軍・足利義持からの偏諱。
行秀は初代守護・土岐頼貞の兄・定親の玄孫(やしゃご)であった。
この原行秀が大井に着任して阿木川右岸の段丘上に要害大井城を築いたのが創始で、名も大井遠江守行秀と改めた。
その後、応仁・文明の乱(1467年〜1477年)が起きると、美濃守護8代・土岐成朝はは山名宗全らの西軍に組みし、京都で東軍側と戦ったがその活躍ぶりは都でも評判となり、東軍側に恐れられた。
文明5年(1473年)3月西軍首領・山名宗全が没し戦勢立て直しのため妙椿が軍を率いて上洛した隙に、東軍は妙椿を牽制するため、信濃守護・小笠原家長を木曽家豊と共に東美濃に侵攻させた。
11月、大井城は真っ先に信濃勢の大軍に攻撃を受け、行秀は孤軍防戦したがついに落城し、、勝ちに乗じた小笠原勢は萩之島城(現・瑞浪市)などを攻略し、さらに可児郡に侵入して小原城(現・御嵩町)を築いて前進拠点とし、御嵩地方を脅かせた。
大井城は東濃における要として信濃勢占拠され、以来、天文年間(1532年〜1555年)まで駐留が続いた。
鷹撃谷城とは
恵那市大井町字野畑城の欠(しろのかけ)にあった。
恵那市指定史跡では大井城跡になっている。
南東の恵那市市立小学校敷地にある、別の城跡が一般的には大井城とされている。
現地には土塁城の標柱には「大井城跡」なっている。
つまりこれを大井城とする説もあるということである。
阿木川右岸の河岸段丘上に築かれた平山城で、築城者は岩村城の遠山氏最後の城主・遠山景任に仕えた藤井宗常・藤井常守兄弟とされ、南東の大井城と共に拠点とし(理由は不明であるが)苗木城の苗木遠山氏を攻めるなどしたというが、彼らの代で記録が見えなくなり、(記録がなくなったのは、この時代に秋山晴近が岩村城攻めを行った折に焼き払ったのではないかと推測する)16世後半には廃城となってと考えられる。
天正元年信長が岩村の押さえとして築いたとされる、いわゆる十八砦の一つとして『美濃回諸日記』等の中には、大井城はあるか鷹撃谷城の名は見えない。
永禄7年(1564年)大井武並神社の再建にかかわった、遠山景任に仕えた藤井左衛門常高が大井城代として出てくる。
こうしたことから藤井氏にかかわるものと推定される。
しかし、文明5年(1473年)『勝山小笠原文書』にある信濃小笠原氏、木曽氏に攻め取られた萩島城と大井城があるが、この大井城が鷹撃谷城とする説があり、今のところその結論は全く得られていないのが事実。
戦国時代に遠山氏
戦国時代が到来し土岐守護家にもようやく斜陽化の兆しがみえ始めた頃、小笠原氏も東濃から撤退した。
変わって岩村城を本拠とする遠山氏が次第に恵那郡内に勢力を扶植して地盤の拡大強化を図り、遠山三家(岩村・明知・苗木)を分派したのを初め、外郭防衛のため郡内要所にいわゆる「頭山十八城」を校正させて武威を誇るようになった。
この時、大井城もその外郭に組み入れられ、重臣・藤井宗常が城将となって城の修築を行い、弟の常守も近くの鷹撃谷梁の砦番となり、防衛線の一翼を担うことになった。
武田軍の襲撃・織田軍の逆襲
元亀三年(1572年)11月、武田信玄の美濃侵略が始まり、武田の武将・秋山晴近に岩村城が奪取される。
翌・天正元年2月、大井城も優勢な武田勢に攻略され、このほか遠山十八城もも武田の軍門に降り、一変にして武田の防衛拠点に様変わりし、東濃・土岐・可児にわたる東濃の大半が武田の勢力地盤となった。
その中でも秋山晴近は大井城「の重要性に着目し、城郭を甲州流技法にのっとり大改築し、腹心の武将を城将に入れ、岐阜の信長に対峙させた。
しかし武田の誇る騎馬軍団も、信玄の急死と天正3年(1575年)5月の長篠の戦いに大敗してより崩壊し、戦力の低落は目に見えてきた。
信長は時を移さず11月、東濃地域から武田勢を駆逐一掃するため、嫡子・織田信忠を総大将にした大軍を投入し、武田の前線拠点を次々と攻略して、本拠岩村城を攻撃奪回した。
※上記の織田信忠をクリックすると関連記事があります。
もちろんこの時、大井城は武田方の城として織田軍により攻撃され落城した。
その後、大井城は使用されることなく廃城となり荒廃した。