Cの章は岩村町の西に位置する新町から領家を案内します。
岩村町は東の八幡さまから西の武並さんと東西に長い城下町(勾配のある)が続きます。
下記の地図を見ていただくと分かるように東西に長いです。
城山の方が東です。
▲岩村町の史跡スポットを表示
それで3分割して、Aの章・Bの章・Cの章としてあります。
岩村町は古く歴史がいっぱい詰まっている町です。
来町される場合参考になってもらえれば嬉しいです。
※Aの章は職人の町なので昭和初期の古地図も掲載してありますが、当時は店屋が多くあった様子がよくわかります。Bの章は町の中心地ですので地図を見ながら散策されると楽しいです。
毎年秋に秋祭りが行われます。
武並神社から岩村城の始祖の嫡男の遠山景朝を乗せた神輿が八幡神社に居る父・加藤景廉に会いに行って一晩泊まって帰ってくる行列があるんですが、今年も(令和4年)行われるかどうか
分かりませんが町民は秋祭りを待っています。
新町にある道標と四面塔
地図には番号がないけど、丁度西町から新町の境に二基の道標があります。
▲標識のある場所
細石柱の三面に「是より右はみたけ道」「是より左はなごや道」「貞享四年六月」と書かれています。
貞享四年は(1687年)、他の一基は安永八年(1779年)の建立。
その近くに享保二十一年(1738年)建立の誌面の日蓮宗の供養塔があります。
古地図の方にはプロットしてあります。
当時の人と同じ感覚で目にできますから、注意して見てください。
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⓰巌邑天満宮
新町通りの中程にあり、文政五年(1822年)本町四丁目の木村家六代当主・知英が九州の太宰府より勧請し、ここに造営したのが始まりです。
▲巌邑天満宮
学問の神として崇拝者も多く、岩村出身の儒学者・林述斎や有名な佐藤一斎、植物学者の三好学、明治の女傑。下田歌子とかを排出、毎年二月と六月の二五日前後の日曜に「学神祭」を行っています。
⓱隆祟院
山号は晴雲山、浄土宗の寺で開祖は、寛永十六年(1639年)大給松平家宗家七代で岩村藩主二代の松平乗寿が、父・初代岩村城主の松平家乗の三十三回忌にあたり、既存の庵を一寺としたものもので、乗政寺山にあったが慶応年間(1866年頃)に大通寺観音堂に移転した。
▲隆祟院の参道
▲隆祟院入り口
▲隆祟院山門
乗政寺、大通寺観音堂、更に隆祟院本来の遺品等の文化財が多数ある。
また、岩村城最後の藩主・松平乗命の妻(正室)尾張徳川家の姫・釣姫の墓所があり、その一部も保管されている。
※上記の釣姫をクリックすると釣姫の関連故事があります。興味ある方は読んでください。
▲尾張徳川家の釣姫様が眠る墓
本堂の絵天井は、狩野派の筆になるといわれており、山門には乗政寺のものを移した。
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⓲腰掛巌
山賊を平定した加藤景廉が、この岩に腰をかけ周囲の山々を眺めて岩村城の位置を決めたという腰掛巌。
▲加藤景廉が腰掛巌に座っている絵
他にも烏帽子岩や屏風岩の巨岩がある
▲下記の山上家の裏山に腰掛岩た烏帽子岩などがあります。
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○山上家
この山上家は加藤景廉と先代の当主が山賊退治を加藤景廉にお願いしたという伝説がある。
岩村の町は当初山上村が中心だったらしい。
この山上家は東濃地方において最古といわれる旧家で、現在当主は48代。
昔、邑長(むらおさ)であった山上家の当主は、山賊を平定するために伊勢神宮に参籠し、加藤景廉と出逢う。
加藤景廉は村人と協力して山賊を退治した。
文豪・島崎藤村の祖父・吉左衛門重韶は、山上家43代の新左衛門の次男で島崎家へ婿養子に入って16代目を継いでいる。
俳号を松濤園至徳と称した文人で藤村の文才は、重韶の血を引いたといわれている。
○塔ヶ根(経塚)
江戸時代の大名街道で、この道の両側に経塚があり、五輪の塔があるので塔ヶ根という。
また、罪人の首台上にさらして通行人に罪の恐ろしさをもせしめにした刑場の跡で、往来の旅人の肝を冷やした。
○希菴塚
名僧・希菴禅師は、元亀三年(1572年)に武田信玄の武将・秋山信友の家来によって橋の上で暗殺された。
▲希菴塚
暗殺を命じた信玄と暗殺を実行した刺客3人はその後狂い死にしてる。
▲希菴橋の近辺
のちにこの橋を希菴橋という、希菴和尚を祀った塚を希菴塚という。
※上記の希菴和尚をクリックしてもらうと、信玄との関係記事があります。
○一石三十三ヶ所観音
一石三十三ヶ所観音は伊那谷、木曽谷に散見されるが美濃地方にあるのが珍しい。
三十三観音の造立は札所巡礼の盛であった江戸中期(1730年頃)のものが多く、寺の境内・裏山、道傍にみることができる。
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⓳武並神社
岩村城の祖・加藤景廉の長男・遠山景朝が配神されている。
神社調べでは延元元年(1336年)鎮座とあるが明確ではない。
遠山氏の氏神とし、同神社を奉じて遠山氏が領内各地に散在しており、鎌倉末期か室町初期にはには存在していたことが伺えられる。
寛永八年(1631年)大給松平家宗家七代、岩村藩主2代・松平乗寿が武並山頂に社殿を造営し、城下町を中心として東に八幡神社(当時は城内にあり)、西に武並神社を配し、初めて城下町の氏神として参拝者の繁昌を見るようになった。
社殿は大正四年(1915年)9月武並山頂より現在地へ遷宮し武並神社の祭礼は、毎年十月第一土曜・日曜に行われる。
(今年令和4年もコロナの関係上行列が行われるかは未です。)
行事は岩村城の祖・加藤景廉と嫡男・遠山景朝が八幡神社に祀ってある父・景廉に景朝が親子対面して、今の時政を話して酒を酌み交わし岩村の発展を願ってくるのでしょう。
平安調の装束に身を固めた岩村氏子1200人が神輿を奉じて、武並神社を出発、途中旧家・木村家で御休憩のあと八幡神社に参入し神事が行われる。(岐阜県重要無形民俗文化財)
⓴石室千体仏
この石室千体仏は経塚である。
寛永九年(1632年)時の城主・松平乗寿が城の鎮護と領民の安泰繁栄を祈願して建立したものです。
乗寿は菩提寺であった龍巌寺に命じて、浄土経一千部を石筺に蔵め地中深く埋蔵して、その上に石室を設け一千体の阿弥陀蔵を安置した。
▲全部仏像が撮影されています。
経塚の起源は平安時代に、慈覚大師(天台宗の開祖・最澄の弟子)に始まるとされる。
▲これは前回の様子です。
祭事は七年毎(次回は2025年の4月22日から5月6日)の開帳で2週間千体仏の拝観ができる。往時は20数人の僧衆によって壮厳な儀式が一ヶ月間続けられる。
上記の隆祟院がやっています。