美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

徳川家康

徳川家康の家系図をみると正室・側室たちによる子孫繁栄を願っていた

投稿日:2022年12月10日 更新日:

日本史上最も長く続いた幕府を築いた徳川家。

その源流は、初代将軍・徳川家康から始まります。

 

 

家康は、天下統一を果たした豊臣秀吉に仕えながら、自らの勢力を拡大し関ヶ原の戦いで西軍を破り、全国の大半を支配下に置きました。

 

 

正室・築山殿との間に出来た子2人長男・信康と長女・亀姫、側室との間に出来た子14人(督姫・結城秀康・徳川秀忠・忠吉・振姫・信吉・松姫・忠輝・松千代・仙千代・義直・頼宣・頼房・市姫)をもうけた家康。

そして、慶長7年(1603年)に将軍職を得て、江戸に幕府を開きました。
家康は、自分の子供たちや親族にも恵まれ彼らは、分家して各地の大名となり、幕府の重要な役割を担いました。

 

 

これらの分家は、御三家や御三卿と呼ばれる有力な一族となりました。

また、家康の子孫は、15代にわたって将軍職を継承しました。

 

 

彼らは、外様大名や朝廷、外国との関係を巧みに調整しながら、江戸時代の平和と安定を保ちました。

 

 

しかし、幕末になると、幕府は西洋列強の圧力や尊王攘夷運動に対応できずに衰退しました。最後の将軍・徳川慶喜は、慶応3年(1867年)に大政奉還を行い、明治維新が始まりました。

 

 

家康が松平広忠と於大の方の間に生まれて、満1〜2歳になって父と母は離別した。

なぜ、離別したかはここでは語らないけど竹千代にとっては不幸な出来事だった。

※上記の竹千代をクリックしていただくと詳しい記事があります。

 

 

そして、6歳で今川義元の人質にだされ、出されると途中で拉致され織田家に売られて名古屋の大須の万松寺に身を寄せ、織田信広と人質交換され今川氏の駿府で過ごした。

 

 

幼少の頃より19歳まで人質生活を送り、その間に、元服も結婚もさせられ家康にとっては辛い期間であったに違いないと思う。

 

 

それを打ち破ったのが織田信長が桶狭間で今川義元を討ちとったおかげで家康の波瀾万丈の人生が始まったと思う。

でなければ今川氏の家臣で信長とも戦をしていたかもしれない。

 

 

泣くに泣けない経験を味わった家康だが、追い討ちをかけて豊臣秀吉から秀吉の妹・朝日姫を継室としてもらった。

 

 

なぜ、将軍職を秀忠に譲って駿府に、そして大政奉還をやって徳川幕府を終わらせた慶喜も駿府でくらしたか?

 

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家康と側室の間に生まれた子供たち

先ず何と言っても家康に課せられたことは子孫繁栄を願っていたはずです。

徳川家康は一人っ子で、幼少の頃より人質生活おまけに父は母と離縁、その母の子・異父兄弟は3人いる。

 

 

家康の子供が15、16人おり、中でも「徳川宗家」を継いだ徳川秀忠と分家がある「徳川御三家」を継いだ子供たち。

 

   ▲徳川家康の系図

 

 

正室・筑山殿、継室・朝日姫

正室・瀬名姫との間に生まれた信康亀姫の二人、信康は一般的には松平信康と表記されているが、家康は信康の元服以前の永禄9年(1566年)に徳川に改姓してるので生前は徳川信康となっていた。

 

 

しかし、江戸時代に入って江戸幕府が「徳川」姓は徳川将軍と御三家・御三卿のみに限るため、信康は死後※1になって「岡崎三郎松平信康」に格下げされた。

※1.信康の死について、信康と結婚した信長の娘・徳姫は姑の筑山殿(瀬名姫)との折り合いが悪く、夫・信康とも不仲なり、天正7年(1579年)に父・信長に12箇条の手紙を送った

 

 

使者として信長の元に赴く徳川の家臣・酒井忠次に託した。
手紙には信康と不仲であること、姑・築山殿は武田勝頼と内通したと記されていたとされる。

 

 

信長は使者の酒井忠次に糺した※2が、忠次は信康を全く庇わず、全てを事実と認めた。

▲※2.糺した(ただした)とは、事の是非・真嘘。事実や真相などを追求すること。問いただすこと。「問い質すより」よりも厳しい追求のニュアンスがある語彙※3

▲※3.語彙(ごい)とは、ある範囲に、あるいは広くー言語についての、語の総体。例えば「農業ー」「日本語のー」。また署名などで、用語集。

 

 

この結果、信長は家康に信康の切腹を要求したため、家康はやむをえず嫡男・信康の処断を決断

 

 

8月29日に、まず筑山殿が二俣城(現・浜松市天竜区)への誤送中に佐鳴湖の畔で、徳川家臣の岡本時仲、野中重政により殺害される。

 

 

さらに9月15日二俣城に幽閉されていた、信康に切腹を命じた家康はどんな心境だったろう。

 

 

正妻の子は他に亀姫のみ。
その亀姫は永禄3年(1560年)駿府で生まれる。

 

 

元亀4年(1573年)頃に家康が奥三河における武田氏の勢力を牽制するため奥平氏の帰順※4を試みた際、織田信長の提案で亀姫と新城城主・奥平信昌の婚約が提示条件の一つとなり、長篠の戦いをめぐる戦功への家康からの褒美として天正4年(1576年)嫁いだ。

※4.帰順(きじゅん)とは、反逆心を改めて、服従すること。

 

継室・朝日姫は豊臣秀吉の妹とされているが2人の間に子はなし。

 

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次男・秀康

次男・結城秀康またの名を松平秀康、母は永見吉英の娘・通称、於古茶おこちゃ)於万の方、小督局ともいう。

 

 

天正12年、豊臣秀吉の養子となり「羽柴三河守秀康」を名乗る。

天正15年の九州征伐で初陣を果たし、豊前岩石城攻めで先鋒を務め、続いて日向国平戦でも抜群の功績を挙げるも、天正16年に豊臣姓を下賜された。

 

 

結城晴朝の養子となり結城秀康を名乗り、関ヶ原の戦い後松平姓に復して、越前松平家の祖、越前北荘藩・初代藩主となった。

 

 

 

三男・秀忠・四男・忠吉

秀忠の母の父は戸塚忠春、母は西郷氏(源姓土岐氏流三河西郷氏)の流れを組む名門の娘、通称はお愛の方、西郷局で四男・忠吉も産んでいる。

秀忠は家康の跡を継ぎ、征夷大将軍になった。
第二代・将軍

       ▲江戸城(皇居)

 

一方四男の忠吉は、東条松平家第4代当主、尾張清洲城藩主徳川四天王の一人・井伊直政の娘婿となる。秀忠と同母弟

 

 

忠吉が東条松平家第3代当主・松平家忠が病死すると、その家督を継いで三河東条城1万石を領し、祖父・松平広忠と家康の一字を拝領して松平忠家と改めて、天正10年(1582年)駿河沼津城4万石に転封を命じられる。

 

 

家康が関東へ移封されると、文禄元年(1592年)に武蔵忍城主となり10万石を与えられ、元服して忠吉と改める。

 

 

 

五男・信吉

系図には信吉と書いてありますが、区別をするために武田信吉と呼ばれています。

正しくは徳川家康の五男で武田万千代丸、幼名は福松丸。

 

 

同名の信吉とは四男・忠吉の子・松平信吉(藤井松平家)です。

は甲斐武田しの家臣・秋山虎泰の娘で於都摩(下山殿・妙真院)と呼ばれています。

 

 

なお、秋山氏は甲斐武田氏の支流、虎泰の父は秋山虎繁と言って美濃国岩村城の城主と​​なって女城主(おつやの方)と結婚した。

 

 

おつやの方は信長の叔母で、岩村の戦いで信長に秋山と共に捕らえられ長良川で処刑される

※上記のおつやの方をクリックしてもらうと記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

六男・忠輝、七男・松千代

松平忠輝は、天正20年又は文禄元年(1592年)に徳川家康の六男(庶子)として誕生、武蔵国深谷藩主→下総国佐倉藩主→信州国中島藩主→越後国高田藩主となる。

 

 

​​松平松千代は、長沢松平家10代当主、深谷藩2代藩主。

は側室・茶阿局松平忠輝の同母、文禄2年(1593年)に長沢松平家当主で深谷藩主でもある松平康直が嗣子なくして没したため、その翌年、生後間も無く長沢松平家を継深谷藩主となったが、慶長4年(1599年)僅か6歳で没、そのため同母の兄・忠輝が継いだ。

 

 

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八男・仙千代、九男・義直

松平仙千代→別名:徳川仙千代・平岩仙千代ともいう。

は側室・相応院(亀)で、尾張徳川家始祖・徳川義直の同母で、4歳まで伏見で暮らす。

 

 

長兄・信康(正室)傳役※5徳川十六神将の一人だった平岩親吉の嗣子がいないことを憂いた家康の配慮で、平岩親吉の養嗣子になったが、慶長4年(1599年)大阪に移るも翌年5年(1600年)に亡くなった。

※5.傅役(もりやく)とは、読み方は「もりやく」「かしずきやく」です。まれですが「もり」や「ふくや」と読むこともあります。傅役とはお守り役身分の高い家に生まれた子供につけられるお世話係や教育係のことです。多くの場合、戦国時代の武将の後継につけられた教育係をいいます。

 

 

九男・徳川義直→尾張名古屋藩の初代藩主、尾張徳川家の祖となる。

慶長5年11月28日に大阪城西の丸(京都伏見城・現在の清涼院)で産まれる、母は仙千代と同じ志水宗清の娘・於亀

慶長11年(1606年)に元服する。

 

 

慶長12年死去した兄・松平忠吉の遺領を継いで尾張国清洲城主になる。

家康は、甲斐・信濃及び東海道の要として重要な名古屋に、天下普請として名古屋城を築いて根拠地とし清洲から移した。

 

 

平岩親吉ら家臣団も尾張へ移り、附家老として尾張犬山城・10万となり尾勢支配を主導した。
義直自身は家康の死後の元和2年(1610年)に尾張へ入国する。

        ▲名古屋城

 

 

十男・頼房、11男・頼宣

徳川頼宣は、紀伊和歌山藩の初代藩主、紀伊徳川家の祖である。

幼名は長福丸、元服に伴い頼将(よりのぶ)と名乗り、元和年中に頼信、さらに頼宣に改める。

       ▲紀伊和歌山城

 

慶長8年(1603年)11月、僅か2歳にして、異母兄弟の5男・武田信吉の遺領、常陸水戸藩20万石を与えられる。

 

 

慶長9年(1604年)12月、5万石加増されるが頼宣は水戸には入らず、駿府の家康の許で育てられた。

 

 

慶長11年(1606年)家康に従い京都で元服、他の国持大名に伍させりため家康の意向により常陸介に叙任される。

 

 

父・家康の晩年、頼宣を最後まで手元に置き自ら薫陶を与えて育てた。

まだ、幼いにもかかわらず馬に乗せ、小川を飛び越えるように強要し、落水しても家康はは放置した、また、大坂冬の初陣の際、父である大御所家康自ら鎧初めを行う特別な扱いを受ける。

 

 

夏の陣には、先陣を希望するが却下され涙を流して悔しがたため、松平正綱が「まだお若いから、これから機会は何度でもありましょう」と慰めたが、頼宣は「14歳が2度あるか」と怒った。

 

 

これを聞いた家康は「今の一言こそが槍(手柄)であると言って頼宣を褒め、諸大名も感嘆したと伝わる。

家康没後に駿府から和歌山に転封となった。

 

 

弟・徳川頼房は、家康の末男として誕生、母は側室・お万の方、兄・頼宣の母である。

孫には、あの水戸光圀がいる。

※上記のお万の方をクリックしていただくと、家康とお万の方の記事があります。興味ある方は読んでください。

 

頼房は僅か3歳で常陸下妻10万石を与えられ、のちに常陸水戸25万石へ加増転封されるも幼少のため駿府で育てられる。

 

 

慶長15年(1610年)7月に、父の側室・於勝(英勝院)の養子になり、翌年に元服して頼房と名乗った。

 

 

異母兄・徳川義直及び実の兄・頼宣とは異なり水戸へは赴かず江戸で過ごした。

これにより水戸藩主は江戸常住である定府となった。
ちなみに、徳川慶喜もお万の方の子孫である。

 

 

 

まとめ

家康は子孫繁栄と徳川の繁栄を願って側室を多く持った。
昔は子供の成長には神経を注いだ、若くして亡くなることが多くて安心できない。

その為、家康は多く臨んだと思う。いつの時代でも子孫繁栄に力を入れないといけないと思う。現在では結婚年齢が遅すぎると思うのは私だけだろうか?

 

 

 

-徳川家康

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