おつやの方とは?織田信長の祖父の子で叔母である、お市の方も叔母にあたる。
淀君・妹に初(京極高次の正室)と江(徳川秀忠の正室)とも血縁関係がある、おつやの方という人物が遠山氏最後の城主の正室であった。
いかに絶世の美女系であったかがうかがえる。
その岩村城またの名を霧ヶ城標高717m・現・城下町は標高500m〜520mの高低差がある。
そこに城を気づいたのが↓
岩村城は加藤景廉が鎌倉時代に長男の景朝に築かせたお城です。
上記の加藤景廉をクリックしてもらうと加藤景廉のことが書いてあります。また、岩村城をクリックすると岩村町の東に向かっていくと城山登城口があります。そこから本丸までの案内が載ってます。
▲岩村城の頂上付近(夏の夜は寒いくらい)
先ず、お城の形や形式のことななりますが戦国時代の前半(室町から安土桃山時代を含む)は主に戦闘・防衛が目的の望楼型といわれるもので、建造的には山の中腹や頂きという場所が多かったのです。
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しかし、その後の江戸時代の頃になると、特に寛永の頃以降になると、階層塔型というのが中心になります。
つまり、戦国から安土桃山の頃は堅牢な山城型、江戸時代には守備型の平山城が主流でした。
さてそんな山城の代表的なお城に「岩村城」というのが鎌倉時代から戦国時代に有りました。
この山城は現在の岐阜県恵那市岩村町にあり、中世の代表的なお城で、いまでは日本三大山城と言われています。
因みに、三大山城というのは岩村城の他に高取城(奈良県高取町)それに備中松山城(岡山県高梁市)ともいわれています。
上記の岩村城をクリックすると登城口から本丸までのことが書いてあります。
▲奈良県の高取城跡 ▲岡山県の備中松山城
この岩村城は「信長と信玄」との戦に非常に関係するお城だったのです。
実は、井伊直虎と時を同じ頃、織田信長の叔母である「おつやの方」という女性が、この日本三大山城の岩村城の「おんな城主」だったのです。
おんな城主といえば、昨年(2017年)のNHKの大河ドラマで放送された井伊直虎のことを想像してしまいますが、このおつやの方こそがおんな城主でお城を守るため武田軍と戦い、また御坊丸と兵士を守るため、泣く泣く武田軍の重臣に嫁いだ。
信長の年下の叔母であるのに、逆に信長軍と戦い、投降はしたが無残にも磔刑にされてしまったという、悲劇のおんな城主だったのです。
美濃国岩村女城主・おつやの方は織田信長の叔母(叔母といっても年下)とし
て、信長に似た絶世の美女ともいわれていました。
信長の妹『お市」も美女で通っています。
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戦国期の元亀年間、岩村城の城主は遠山景任であったが、景任が病で亡くなると当時の岩村遠山氏は織田家の傘下に入っていたので、信長は自分の子御坊丸を景任の養子として入城させたのである。
その時に後見として信長の叔母にあたる女性景任の妻、即ち、通称「おつやの方」に任せたのであった。
その後、景任の幼い養子に代わって事実上の女城主として差配を振るうことになったのです。
おんな城主として暫くは平穏なる日々が続いていたが、1572年になって
甲斐の武田信玄の上洛西上作戦が開始され、信長と信玄の戦が始まるこ
とになるのです。
この時に、信玄は先ず、有名な「三方ヶ原の戦い」で徳川家康を破っています。
この時期に、武田信玄は難攻不落とされた岩村城を攻め、おんな城主であったおつやの方は必死に抵抗するが武田の勢力には勝てず、とうとう城を明け渡すことに事になってしまったのです。
この時に、おつやの方は幼い景任の養子御坊丸※1を助けるために、身を信玄の重臣であった秋山虎繁(信玄二十四将の一人)に身を預けて結婚し、夫婦となっては信長を裏切るということになるのです。
その後の天正3年(1575年)の信玄亡き後の織田信長軍は、「長篠の戦いで」武田軍を敗ると、織田信忠らが岩村城を包囲し武田軍も岩村城を援護するべき出陣したが、結局、岩村城は落とされたのであり、秋山虎繁とおつやの方は長良川にて磔刑で命を落とすことになったのです。
▲おつやの方
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これが、おんな城主・おつやの方の悲劇的な生涯だったのです。