名古屋城主・歴代
①初代城主/徳川義直(徳川家康の9男)
②二代城主/徳川光友(初代義直の長男)
③三代城主/徳川綱誠(二代目の子で6年間の城主で46歳で死去)
④四代城主/徳川吉通(綱誠の10男で11歳城主となるも、若く25歳で死 去)
⑤五代城主/徳川五郎太(吉通の幼い長男城主になってわずか約2ヶ月後死 去)
⑥六代城主/徳川継友(五郎太の叔父で、三代綱誠の11男)
⑦七代城主/徳川宗春(継友の弟、隠居)
⑧八代城主/徳川宗勝(宗春の従弟、元々高須藩にいた)
⑨九代城主/徳川宗睦 (宗勝の次男で在位約40年、学問に力を入れ尾張藩校「明倫堂」を開校、現・明和高校の前身です。)
⑩十代城主/徳川斉朝(宗親の実子、長男・治休、次男・治興早死に、支藩から養嗣子を迎えた甥・治行とその子五郎太も早死に、さらに迎えた養子の甥・勇丸も早死にのため、将軍・徳川家斉の四男・敬之助も養嗣子にしたが早死にしてしまった。将軍・家斉の甥を宗睦の養子にして尾張徳川家を継ぐ。)
⑪十一代城主/徳川斉温(斉朝は35歳で隠居、家斉の19男で9歳で城主となる。)
⑫十二代城主/徳川斉荘(11代将軍・徳川家斉の12男として、母お長の方(側室)の間に生まれ、幼名を要之丞。12代将軍は側室お楽の方と間にできた家斉の次男徳川家慶とは異母兄弟です。名古屋城主・徳川斉荘の四女釣姫が岩村城主・松平乗命と結婚。)
⑬十三代城主/徳川慶臧(田安徳川家3代当主で徳川斉匡の10男として生まれ10歳で城主)
⑭十四代城主/徳川慶勝(十代城主〜十三代城主にわたって、将軍家の養子が城主だったので、ここでやっと尾張藩の分家・高須松平家が城主になるも、徳川継嗣問題と井伊直弼によって隠居させられる。)
⑮十五代城主/徳川茂徳(慶勝の弟、井伊直弼が暗殺されると、兄が隠居処分を解かれると、藩主の座を慶勝の子に譲って一橋家に入る。)
⑯十六代城主/徳川義宣(慶勝の子で第十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還、明治8年義宣は若くして死去。)
⑰十七代城主/徳川慶勝(再び城主になるが、尾張名古屋藩最後の城主となる。)
尾張藩と親戚そして徳川将軍家も親戚になってしまった岩村藩
3万石の岩村藩と62万石の尾張名古屋藩とでは釣り合わないが、親戚関係になってしまった。
▲岩村城最後の城主・松平乗命に釣姫が正室となって嫁いで来たが、祖父が第11代徳川家斉と大叔父が第12代徳川家慶となっている。
もともと、徳川家康は清洲城を豊臣家対抗の拠点と考えていたが、清洲は庄内川水系の下流にあり水害が多発すると水攻めされると考え、慶長14年(1609年)、熱田台地の上に、新たな城を築き新しい都市を開発することとなった。
いわゆる清洲越え※1、慶長15年(1601年)西国諸大名の助役によるて天下普請で、名古屋城の築城が開始した。
※1.清洲越えとは、家臣、町人のみならず、神社・仏閣も社寺3社110寺、清洲城下の町屋約2,700戸のほとんどが移転し、清洲城小天守も名古屋に移った。
その際、町名も清洲から名古屋に移し、町人は原則として移転時に住んでいた町に居住することとした。
そんな歴史ある名古屋城がコンクリートでは様(さま)にならないでしょう。
それを、名古屋城を木城に建て替えようと計画中だが、なぜ、一向も計画が進まないのは? 何に原因があるんだろう?
別にこのままの状態でいいんじゃないかな〜と思う方もいることだろうけど。
しかし、せっかく盛り上がった計画なので思い切って調査やら色々して木造建設で日本の誇る城を平和のシンボルとして徳川家康が築城したお城を世界遺産にしたいです。
▲名古屋城
本丸御殿も復元できて大勢の人が見学にきてると聞いています。
釣姫様のお輿入れ行列
明治4年(1871年)1月14日釣姫様のお嫁入りの行列が名古屋城を出発しました。
▲葵の紋 ▲蔦の紋
尾張藩徳川家 岩村藩松平家
金のシャチ鉾で名高い尾張名古屋藩62石の城主は、言わずと知れた徳川御三家の一つ、それが、たった3万石の美濃国岩村城の松平乗命の所へお輿入れに石高違いです。
▲2021年7月撮影特設会場栄にて
たとへ明治維新になったとはいえ、まだ初めの頃ですから、そんなに身分の高い花嫁さんが来ると云うことで大変な騒ぎでした。
花嫁行列の通る道には、お姫様を一目見ようと沿道には、人々でいっぱいでした。
数日前から道路を整備し塵ひとつないよう掃き清め、当日は警備の人たちが立って厳重な警戒でした。
沿道の人々はお姫様が駕籠から顔を出されるのを期待して、見物に出てきたのですが、なかなか釣姫様は顔を出されなかった。
大曽根・多治見うを通って土岐の高田で一泊され、十五日は神箆(こうの)を通って釜戸でお泊まりになりました。
① ② ③ ④ ⑤
▲土岐高山宿・諸帳の解明
①明治四年 釣姫君様 御通行人足觸當帳
②明治四年 御諱釣姫君 御通行継立帳
③明治四年 名古屋御藩ヨリ岩邑御藩江 御縁女様御通行諸事簿
④明治四年 御嫁女様 人足井雑費 割賦さし引帳
⑤明治四年 御嫁女様 継人足組々 取調帳
となっています。
1月16日には、竹折、野井、塔ヶ根を通って岩村城へお着になりました。
しかし嫁入り道具の全部が着いたのは3月23日頃だったそうで、そ言うことからでしょうか「岩村藩は小さいから大きい長持ちはお城に入らないから、全部風呂敷包んでもらいたいと申しこまれた。
だから、荷物がこんなに多くなったそうだ」などという噂も出ました。
「嫁入りの行列の先頭が岩村に着いたときに、行列の最後尾は、まだ、名古屋の町を出ていなかったそうだ」という話も残っています。
お泊まりの宿場に働いた人足の数も500人以上だったそうですから、そういう話も出てくるのは当然だと思われます。
こうして盛大なお嫁入りをされた釣姫様は、乗ってこられたお駕籠が新調だったため漆(うるし)にかぶれてしまいました。
※上記の釣姫様をクリックして頂くと別のブログがあります。興味のある方は読んでください。
岩村城に着いてから、幾人もの御典医や医者がさまざまな手当した甲斐もなく一向に治らず、とうとう4月16日に亡くなってしまいました。
▲隆崇院の本堂横に眠っている「蝶姫」様の墓地
結婚してわずかな月日で亡くなられた釣姫様のお墓は大通寺にある隆崇院(現・岩村駅から歩いてすぐ)にあります。
名古屋城から釣姫様に付き添ってきた老女の岸野という人が、亡くなったお姫様を慕ってお墓をお守りして、この岩村の地で一生を終わりました。
今でも、釣姫様が尾張名古屋城より持ってきた数々の品物が岩村の人に引き取られて大切に保管されています。
徳川釣姫に付き添ったご老女
明治4年(1871年)に尾張徳川62万9000石から、岩村藩3万石の松平乗命のもとに釣姫様が輿入れされました。
立派な嫁入り行列をみて間もない、3ヶ月後には病で帰らぬ人となり、その悲しみは何倍かの重みとなって藩全域を包みました。
その中に釣姫様と終生を誓った老女・岸野がありました。
その方の名前は、稲垣岸野といい、釣姫の不帰の霊を供養するために、隆崇院のお墓の近くに住んで釣姫の霊を守るるのに専一して、この地で逝去をされました。
このご老女・岸野は、釣姫様に一生を捧げた方ですが、晩年自分の血縁から養女を迎え隆崇院住職の得忍師を用紙婿としました。
その人が稲垣得忍です。
老女・岸野の亡き後得忍師は寺を去り、還俗をして岩村町内に住んでいましたが、晩年には北海道帯広に行って没したということです。